第12話 雨の友人

 パタッ、パタッと傘を打つ雨だれの音が、昨夜の電話を思い出させる。友人と図書館から同じ本を借りてきて、電話越しに読みあった。文庫本と単行本で、校正の違いや文章の書き直しを探す。友人のとつとつと話す声が、終わりかけた梅雨の雨音を思わせた。「眠いかい。」と聞くと、「ううん、大丈夫だよ。」と答える。「一度でいいから、徹夜っていうのをしてみたいんだ。」と幼い事を言う。物語の最初の山場を読む。男女のもつれあいだ。どんな顔をして聞いているのだろう、という緊張は、彼の寝息で打ち消された。興奮を鎮める規則正しさがある。それに耳をそばだてて、自分も眠った。

 あのまま起きないで、風邪などひいてはいないだろうか、と心配になる。自分も一緒になって眠ったので、人の事は言えない。目覚めると体が雨雲をひきつれているように重かった。傍らに転がった受話器を耳に当てると、とうに切れていた。電話は掛け直さず、以前からの約束通り家を訪れた。向う途中で振りがひどくなってくる。舗装されていない道の土が跳ね、服の裾を濡らした。通りの向こうから傘を差さない友人がかけてくる。買い物袋の口から緑色のかぼすが転がり落ちた。随分ある。二人でかがんで拾い上げた。「安かったから買ってきた。」と雨に濡れるのもかまわず、笑いながら話す。「もうそろそろそうめんを食べてもいいだろうと思って。」と言う。親が亡くなり、まだ自炊になれていない。好きなものを適当に食べているようだ。頬の端にすすがついているのを見つける。雨にぬれた指先でぬぐってやった。

 「風邪をひかないかい。」と顔を窺うと、案の定赤い顔をしている。鼻の先がほんのり色づき、鼻炎が悪化していた。「雨で湿気ているだろう。だから、余計ぐずぐずするんだ。」と言って、鼻の下をかいた。台所でお茶の用意を手伝う。頭をふきながらジュースを出そうとするのを止めた。甘いものばかりを摂ると鼻炎がひどくなる。かぼすの果汁に蜂蜜を加えてお湯で溶いた。

 部屋が湿気るのもかまわず、庭に面した障子が開け放されている。「王冠を見たいんだ。」と言って縁台に膝を立てて座った。力強い雨だれが庭土を穿っている。土が柔らかな部分は一層冠の形が大きくなった。そこだけ、独立した領土のようなものを主張している。雨だれの大きさに違いはない。違いがあるのは土の方だ。朽ちた花壇の中は小さく、数も少ない王冠が散らばる。庭の中ほどのよく踏みつけられた土は、ひどくなる雨を一層はじき、太鼓をたたいているかのような王冠が現れた。

 「本を積みたいな、あそこに。」王冠の輪が多い場所を指差して友人が言う。「父さんと母さんの本を積みたいんだ。日記もいいな。ページを広げて、本の墓を作るんだよ。本が遺体で、本自信が墓標なんだ。雨がやまなかったら、そのまま溶けて、朽ち果てることができる。火だとあっというまだろう。それじゃあだめなんだ。受容の段階を踏めない。」

 「この雨は、明日にはやむよ。」今日の夜にでも晴れるかもしれない。友人は庭から目を離して足の指を見つめた。「晴れたら嫌だな。雨だったら、やらなくていい理由を見つけられるけど、晴れていたら、あれこれやらなきゃいけないじゃないか。布団を干すだの、洗濯物を出せだの。それに比べて、今は気楽でいいよ。一人なんだし。こうやって…、」

 友人は広縁にあおむけに寝転がった。「誰にも文句を言われない。」とつぶやき、眼を閉じた。かぼすの果汁が鼻の奥に残る。柑橘の粘りでのどの奥が糊のようにふさがれている。何か語ろうとする口は果物のように物が言えない。友人もそうだろうかと口元に近づいた。友人は目を開けて「今母さんと父さんの日記を読んでいるんだ。」と言った。

 「交換日記って知ってるかい?まだ電話が一家に一台しかなかった頃は、そういうのが意思疎通だったんだ。父さんの日記と母さんの日記、それから二人の交換日記。日付を合わせて一緒に読んでいるんだ。おかしいよ。交換日記に書いてあることと、実際の感情が違ってたら。二人ともすごくかっこつけてる。凡庸なのさ。」

 「恰好をつけていたんじゃなくて、お互いの良いところを見せていたんじゃないのかい?」「それがかっこつけてるって言うんじゃないか。一緒に暮したらばれるのに。馬鹿みたいさ。」

 夫婦がうまくいっていなかったとは思わない。ぎこちなさというのは他人にも分かるものだ。やりきれなさで憎まれ口を叩いている。「日記を読むのをやめるか、もっと時間を置いて読みようにしたらどうだい?」友人は起き上り、「そういうわけにはいかないよ。」と言った。「分かってしまったんだ。」「分かったって、何をだい?」「僕が生まれた日だよ。と言っても、勘違いしちゃいけないよ。実際にこの世に生まれた日じゃなくて、母さんの胎の中で、僕が生まれた日だ。」

 天から獣のような咆哮が聞こえる。荒々しく喉を鳴らすような雷は、すぐそこに住まうかのように間近で聞こえる。「窓を閉めよう。」と呼びかけても応じない。かばんの中から借りていた夫妻の本を取り出した。差し出すと題名を読み、それを庭に放った。「最初の一匹だ。」と言う。本の表紙は墨に覆われたように黒くなり、何の本なのか分からなくなった。

 「続けよう。」と言って二階へ行く。夫妻の部屋から本を出し、広縁から放った。止めもせず眺める。本は焚火の枝を投げるように、庭の中に積み上げられていった。炎が上がる代わりに、飛沫の輪郭がぼんやりと浮きあがった。濡れていく古い紙のにおいは、閉じ込められた時間の種子を発芽させていく。本は山になり、かまくらのような大きさになった。さまざまな色をした表紙が、いびつなパッチワークのように見える。

 友人は本の山の上に一冊のノートを広げた。母親の筆跡だ。”この日が来ることを、何度夢に見た事か…。”熱き体””血潮”。

 ページは雨に打たれていく。虫の穴を穿つように無数に黒い丸が増えていった。降りがひどく、目がかすむ。文字が水に流れたように動いた気がした。友人は天を仰ぎ、「流れていけ。」とつぶやいた。すべてが水を含み、原型をなくし、流れていく。ひときわ大きな咆哮がとどろき、友人の体は黄金の輪郭を持って浮かび上がった。頬を打つ雨に顔が上げていられない。次に目を開けた時、友の姿はないだろう。雨がやむころには、すべては元に戻ることを自分は知っている。友人の一家は落雷にあい、家ごと全焼した。焼け出された遺体は二体。いずれも成人のものだった。自分の友人は火から逃れ、どこかで生きていると思いこんでいる。目の前の光景は、毎年ここを訪れる自分の夢だ。彼の生まれた日付と同じ日に、雨が降れば成立する、雷雨の中の幻なのだ。

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