第11話 この時遠き

 この時遠き 世のごとし 水草の水に 手を洗う  中塚一碧桜


 妻は腹をさすりながら、「素敵ねぇ。」とつぶやいた。コンコンコンコンと小さくクーラーの音が聞こえるほかは、何も聞こえない。展示室の中は妻と私しかいなかった。「どこがいいのか、さっぱりわからん。」「分からない?この静けさ。水辺ってね、あの世とこの世の境目なのよ。つまり、そこに手を差し入れているの。自分の大切なものや、思い出、夢や将来。そんな何もかもが遠ざかっていく瞬間なの。今感じている水の冷たさも、どこか他人のものなのよ。」

 「ふうん。この短い文の中で、よくそこまで分かるね。」短冊には解説がない。開期は二週間後でパネルの設置はまだだ。「ところで、死に対する願望なんだろう、いわば。今の君にはふさわしくないよ。」「ふふ。そうね。でも、三百六十五日、前向きな気分でいるのは難しいし、時々は人生に対する後悔を持つなんて、誰にだってあるんじゃない?もちろん、今の私にだって。」

 妻は時々重い物がそこにあるように歩くようになった。腹はまだ目立たない。隣の展示室との間には段差がある。「気をつけて。」と言うと、「ありがとう。」と返事をした。「ここ、手すりがいるわよね。たった三段だけど、自分がこうなってから、この段差がプレッシャーなんだもの。でも、今日は大丈夫ね。あなたがいるんだし。」妻が笑ったので自分も笑う。「十一月って言ったっけ。」「そうよ。十月十日。」

 中央の展示台の向こうに回り、片側から顔をのぞかせた。「成田へは何時に行くの。」「ええっと…。」成田?飛行機に乗る用事なんかあっただろうか。とっさに「九時半だよ。」と答える。「そう。じゃあ、発つ前に電話してね。九時半だったら、まだ電話に出られるから。」またひとつ隣の展示台へ歩いていく。八の字に歩き、また向こうから顔をのぞかせた。「お別れはちゃんと、済んだの?」

 お別れ…。誰と誰に?妻はくるりと背中を向けた。短いはずの妻の髪が、一瞬長くなったように見える。展示台から漏れる蛍光灯の灯りが、妻のブラウスを光らせた。影の部分は薄い緑色に見える。夏場に見かける白い蝶に似た蛾を思い出す。

 「名前を考えておいてね。二人分だから。男の子用と女の子用と二つずつ。大変ね。一人でも大変なのに。男の子でも女の子でも使える名前にしたらいいかしら。私ね、女の子だったら、子がつく名前がいい。古風な方がかえって人の印象に残ると思うの。絶対にその方がいい。スナックの看板にあるような名前、軽薄な感じがして、好きじゃないから。」

 切れかけた蛍光灯の看板が見える。白い蛾が止まっている。蛾の翅に隠されて、看板の文字がよく見えない。瞬きをすると、それは展示硝子に映った非常灯に変わった。妻の顔が入り込む。似合わない色の洋服を着ている。「今度はいつ会えるの。」と聞かれる。「できるだけ時間を作って、会いに来るから…。」

 酒を飲んだように眠い。飲んではいないはずだ。いや、飲んだだろうか。ここに来るまでのことを思い出してみる。休みに入る妻の最後の仕事を見に来た。一年間の出張に行く自分は無責任だと思う。子どもが生まれる過程を見ていない父親は、父性が育たないらしい。里帰り出産は日本独自の風習だ。ある日妻が里に帰り、しばらくすると腹を平たくして帰ってくる。子どもを抱いて。自分は本当に人の親になるのだろうか。十月十日たてば、自動的に人の親になる。子どもは抱いたことがない。首がすわっていない、というのが、どういうことなのか分からない。抱くのに失敗したら、子どもは死ぬのだろうか。骨が折れて?あるいは窒息で?どうして今まで生きてきて、子どもの抱き方を誰も教えてくれなかったのだ。母や父は、自分をどのように抱いただろうか。自分もかつては子どもだっただろうに、子どもの頃を明確に思い出せない。周りの大人は、自分のことをどのように扱っただろうか。されたことをしてやればいい、と思っても、思い出というものが、どこか靄に包まれた作りもののように思えて、よく思い出せなかった。

 ふつっと無音になる。クーラーの音がとまった。夢の中のように静かになる。妻の姿が見えない。振り返って探す。隣の展示室とその奥の展示室の入口が、合わせ鏡をのぞいた時のように広がり、奥まって見えた。

 ぴちょん、ぴちょんという音が小さく聞こえてくる。腹が冷えたのか痛い。さすると手が濡れる。赤い血がついている。どこかにぶつけただろうか。それにしては量が多い。頭から血の気が降りてくる。意識を失うまいとする。頭を振るたび、光景が変わる。あなた、と妻が私を呼ぶ。展示室の硝子に移りこんだ妻と目を合わせる。隣に立つ自分がいない。ぐらりと体が傾き展示台で肩を打った。「どうしたの、あなた。」妻がのぞきこんでいる。「そろそろ出ないと、見回りの人に追いつかれちゃう。あなた、帰って眠らないと。」…そうだ。帰らなければ。立ち上がると体が妙に軽い。浮いているような気がする。そのまま浮き上がり、天井の蛍光灯に近づいた。ジジッと焦げる音がする。痛みを感じた気がして体をこわばらせた。ボトンと落下する。妻の靴先が見える。妻はしゃがんで首を傾けながら私を見つめた。

 「分かった?あなた、もういないのよ。ううん。いないようで、いるっていう感じね。翅の生えた生き物は、魂の乗り物なの。どうしてそれを選んだのかしら。たぶん、それが最後の光景だったのよね。遺体を確認しているときに、おなかに蛾がとまってきた。私、虫は苦手なの。蛾は特に。でも不思議ね。少しも怖くなかった。何か意味があるんだろうって。ハンドバックを開けたら、中に入り込んできた。蛾って、どれくらい生きられるのかな。そういうの、今あなた、分からない?」

 妻は私を拾い上げた。体が元に戻ってくる。

 「長い関係があったのか、とか、行きずりの関係だったとか、そういうのは話さなくていい。あなたの亡くなり方を見て、この子が亡くなりそうなの。子どもが嫌いなわけじゃないでしょう。ただどうしたらいいのか、分からなかっただけ。時間をかけて、好きになっても良かったのよ。どうしたらいいのかは、生まれてから考えても、よかったのに。」

 右手を握って腹にあてがった。冷たい気がする。手を差し入れることができたら、何かが差し替わるかもしれない。

 妻の胎の中から水音が聞こえる。右腕は胎の中に吸い込まれた。この時遠き…。真っ暗な漏斗の中を落下していく。何もかもが遠のいていった。

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