第10話 坊主の数珠
部屋に肉を焼く煙が充満している。出入り口で店員が謝っているので、換気扇が壊れたんだろうと思う。空調の効きも悪い。「あおげ!」と部長が部下に命じた。ノリのいいやつが団扇で仰いでいる。あおぐやつをまた部下があおぐ。物おじしない女性が部長に「私をあおいでください。」と言った。そこだけぐるりと輪になり、あおぎ合戦が始まる。
手で煙を払いながら、「遅れてすみません。」と同僚がやってきた。「遅かったな、まあ、座れよ。」と空いた席を促す。じゃらっという音をさせて座った。手に何か持っている。「何持ってんだ。」と聞くと、同僚は右手を挙げた。茶色い数珠を巻きつけている。数珠は数珠でも木製で玉が小さく、長い。僧侶が持つようなやつだ。「なんだ、それ、新しい就職先で使うのか。」と聞くと、「違います。ちょっといろいろあって…。」同僚はため息を吐きながら言った。「まあ、とりあえず飲ませてください。」
「お疲れ様でした。」と言いながら、女の子がビールをついだ。何つながりだったか思い出せない。「ああ、ありがとうございます。」女の子はそのまま同僚の隣に座った。胸がでかくてショートヘア。かなりかわいい。「あの、それ、流行ってるんですか?」と言って同僚の右手を指差した。「いえ、ちょっと訳ありで。」「もうすぐお盆ですよね。それでですか?」「いや、そんな信心深くないです。」同僚はまいった、というように頭を抱えた。「で、その数珠はなんなんだよ。」同僚は数珠のたるみを抑えて、そこが傷むのかさするようになでた。「これって遺品になるのかも。昨日この数珠の持ち主が、亡くなったんです。」と言った。
「もうすぐうちの局で心霊特番やりますよね。あれ、俺の最後の担当だったんです。」女の子はビールのおかわりをつぎながら「あれ、怖いですよね。怖い怖いって言いながら毎年見ちゃうんですけど。すごい、あれを作られてるんですか。」と聞いた。同僚は女の子の顔をまじまじと見て、今始めてかわいいと気付いたのだろう。顔を赤らめて、「ええ、まあ。」と言いながら居ずまいを正した。
「ホームページで時期が近付くと告知を打つんです。心霊写真、心霊ビデオ募集って。返却はしない前提で。それで何本か集まりますよね。でも、そういうの、本物は使わないんです。」「本物って?」「だから、ばっちり、それなやつですよ。あの、ここだけの話にしてもらえますか?」同僚は声を低めた。「分かりました。大丈夫です。」女の子は小声を聞きとろうと肩を寄せてきた。同僚の顔がまた赤くなる。たぶん、好みなんだな。
「局の上の人の考えなんですけど、テレビは啓蒙の役割を担うべきで、本物を使うのは不謹慎だっていう考えがあるみたいなんです。本物があったら、供養の対象だから、使わず供養しようって。それで、送られてきたものをより分けるんです。」
テーブルの上に焼き鳥の乗った皿が回ってきた。女の子は手早く三等分して「より分けるってどうやって見分けるんですか。」と聞く。上半身を伸ばして隣の卓のビール瓶をつかみ、おかわりをつぐ。かいがいしい。「見分けるのはお坊さんがやるんです。毎年来ますよね。見ませんか。」「そういえば見たことあるな。あれ、心霊特番が近いから、妙なこと起きないように定例でやってるのかなって。なんか、局長とか、その日だけ掃除とかしてない?」「してます。雑巾とバケツ持って。バケツの中は日本酒入れてるそうですよ。」「日本酒?」「お清めみたいなものですかね。」
「お坊さんのお経をみんなで聞くんですけど、そのあと、お坊さんは部屋に入って、テープをより分けるんです。俺、お茶出ししたんですけど、最初ひと山だったテープが三つにより分けられてるんです。それで、局長に、こちらだけ持ち帰らせていただきます、って。これは郵送で送ってください。お使いになるのはこれで、って、指示するんですよ。それで局長がかしこまりましたって、頭下げてて。」
「使うものを指示してるっていうのは…。」「問題ないテープってことでしょうね。それっぽく見えるけど霊じゃないっていう。」「郵便で送るのは。まあ、数があったんでそうしたんでしょうけど、ものは写っていてもさほど問題がないっていうあたりか…。」「怖いなそんなの。」「確かに怖いですけど、自縛霊って、見えないだけで、いたるところにいるそうですし。戦国時代あたりから。」「お坊さんが自分で持ち帰るっていったものだけ、やばいってやつなんだな。」「はい。」
「局長は車の手配を確認しに行って、俺とお坊さんは二人だけになったんです。俺は問題ないっていうビデオテープを箱詰めしていて。お坊さんは手にした二三本のテープを風呂敷に包もうとしてました。そうしたら、うって唸って、心臓のあたりを押さえたんです。それでテーブルに手をついて、倒れそうになったんですよ。俺びっくりして、大丈夫ですかって体を支えて。そうしたら…。」「どうなったんだ。」「なんていうか、すごい気持ちになったんですよ。何か、深いところに落ちていくっていうか。体中の血が泥水になったように重だるいっていうか。あと、変なにおいがしました。何かが焦げるような。もう、その匂いで中毒になりそうなぐらい、変なにおいがしたんです。息がしにくくて。すごく死を意識したんです。で、もう動けなくなって。ああ、今年のお盆は実家に帰れるかな。長い事おふくろの顔、見てないやって、一種の走馬灯っていうんですか。そこまで行ったんですよ。そうしたらお坊さんがバッって顔を上げて、自分の数珠を手から抜いて、俺の右手にぐるぐるって巻きつけたんです。そのあとばったり倒れて。俺、ようやく動けるようになってお坊さんを見たら、お坊さん、息してないんですよ。」
同僚はその時の事を思い出したのか、涙目になっている。女の子がそっと同僚の背中に手を置いた。二人はうるんだ目で見つめ合った。なんだ。悲惨だけど、いい雰囲気だな、と思う。「お坊さんは亡くなったのか。」「はい。昨日。もともと心臓が悪かったんで。過労だろうって。」お坊さんの過労死。毎年こういう仕事をしていたら、そりゃあ、寿命は縮むだろうな。
「で、その数珠。どうするんだ。まさかこのまま一生ぐるぐる巻きにくっつけてるのか?」「うーん。それなんですけど…。転職先、グループ会社だからほとんど異動みたいなものだけど、それだといくらなんでも取り消しになるかもしれないぞ。」「はい…。困ってるんです。これって、外したらやっぱりまずいんでしょうか。」「身を守れって巻きつけてくれたわけだから、とったらまずそうな気がするな。」「どうしたら…。」「出家でもするか?ハハハ…すまん、冗談だ。」
「あのー、ようするに、数珠は肌身離さず、身につけていたらいいんですよね。」女の子は目の前の皿をぱぱっと手に取り、「下げ物お願いしまーす。」と言って後ろに置いた。御絞りを四角くたたみ、「私、大学生のころ留学したことがあるんですけど、十字架のジュエリーをずっと身につけているお友達がいました。熱心なクリスチャンで、お風呂に入る時も寝る時もつけたままなんです。」と言いながらテーブルを拭いた。「十字架ならファッションになるけど、数珠はちょっと。こんなにガッツのあるデザインは隠しようがないよ。」同僚は数珠を二の腕の方までやり、長袖着たらいいかなあ、とぼやいた。
「さっきも言いましたけど、ようは体にくっついていたらいいと思うんです。それなら、こんなに長い必要ってないと思うんですよ。」女の子はまた体を伸ばして、畳の上にあったハンドバックを手に取った。「私、今手作りアクセにはまってて、休憩中にちょこちょこ作ったりするんです。」バックの中からジップロックに入ったビーズが出てくる。俺のかみさんが半年ほど前につついてたのと似ている。すぐに飽きてた。女の子は小型のはさみとテグスを取り出し、二つを同僚の前に見せた。「短くしてみませんか?」
「これ、切っていいのかなあ。切った途端に何か起きたり。」同僚は話しながら気分が悪くなっている。「大丈夫です。切る前に別のところをつなげてたら、切れたことになりません。」女の子は持論を言った。まあ、合っていると言えば合っている。「数珠の数って、百八で、決まってるんだろ。それを減らして大丈夫かね。」「大丈夫だと思いますよ。試しに八の倍数にしてみましょうか。」「八の倍数?」「八は陰陽道でもっとも安定した数字なんです。」「陰陽道って、仏教と関係あったっけ。」
女の子は説明しながら同僚の腕から数珠の巻き取りをとった。頭が近いので、同僚の顔はぽーっとしている。多分シャンプーのにおいをかいでいる。数珠の玉の数を数えて、テグスを巻きつけた。ハサミを入れる。「あっ!紐が堅くて切れない。」と言った。「あの、良かったら俺がやります。」と言って同僚はハサミを受け取った。「あれ、すごく固いな。全然切れない。」同僚でも刃が立たないようだ。見かねて、「だらしがないな、俺が切ってやろう。」と言って手を出した。ハサミを受け取り、パチンと数珠を切る。それほど堅い紐という感じはしない。奇妙に思う。パラパラという音を立てて数珠玉は落ちていった。「おっとっと。」「あ、すみません。」テーブルの下に落ちたのでのぞいて拾う。女の子の太ももと同僚の太ももは触れ合っている。いい思いをしているな。
やれやれ。メニュー表を広げて拾った数珠を乗せる。女の子は残りの数珠に金属の小さいフックをつけてネックレスにした。同僚の首にまわして、「はい、できた。」と言った。同僚の右手にはブレスレット。首にはネックレスが飾られた。「あ、ありがとう。」同僚はネックレスに指で触れながら、「されている間、嫌な気分にならなかったし、なんか、大丈夫だっていう気がしてきた。ありがとう。」とまたお礼を言った。「良かったな。数珠の方はまあいいとして、ネックレスの方は、まあ、初日は何か言われるかもしれないから、Yシャツ着ていたら、隠れるだろう。」「はい。」
「あー、もう、本当に良かった。ありがとう。」「いいえー。趣味が役立ちました。」「こんなのぱぱっと作れるなんてすごいよ。俺の趣味なんてビデオ編集ぐらいで。仕事でも趣味でもやってるから、ほんとそればっかりで。さえないっていうか。あの、変なこと聞くんですけど、以前お会いしたことがあるような気がするんですけど、僕の事、知りません?」女の子は顔を赤らめながら、「私、昔アルバイトでモデルをしていたことがあって、それでご覧になっているのかも。テレビにもちょっとだけ出たことがあったんですよ。」と言った。「ああ、そうか!モデル!いやあ、どうりでかわいいなって!」
いいなあ、恋の成就を見てしまった。あらかた料理は出尽くして手持無沙汰だ。上司に酌でもしてこようか、と腰を浮かしかけると、〆の茶づけが回ってきた。平らげる。お開きになり、金の集金を払って手洗いに立った。同僚とはち合わせる。「うまくやれよ。かわいい子じゃないか。」「はい。すごく。俺、ここに来る前は地獄に落とされたような気分だったのに、今は天国ですよ。」と嬉しそうに言った。「お前まで昇天するなよ。」とからかう。「見たことない子だけど、部署はどこなんだ?」と聞いた。「えっ、僕はてっきりそちらの知り合いだろうって思ってたんですけど…。」俺の方では心当たりがない。「今度あったとき、聞いときますよ。実はメール交換したんです。」同僚は今にも飛んでいきそうな至福な顔をして言った。
結局換気扇はいかれたままで、座敷は肉を焼いた煙がこもっている。女の子を探したが見当たらない。先に帰ったのだろうか。かわいいけど、不思議な感じのする女の子だった。上着には煙の臭いが染みついた。あーあ、まいったな、とぼやく声が聞こえる。かばんも臭い。「昨日のバックで来ればよかった。」とつぶやいた女性に、さっきの女の子のことを聞いてみた。知らないと言われる。「かわいかったけど、あのバック、おととしの流行りだったよね。」と近場の女性に言う。どんなカバンだったろうか。小さいハンドバックという以外は思いだせない。というより、よくチェックしてるなと感心する。バックの流行りすたりでマウンティングしてるなんて びっくりだ。俺なんて、何年も同じものを使ってる。
翌日は土日で同僚の様子が気がかりだったが、月曜日まで口を聞くのを待った。昼飯に出るついでに顔を見に行く。デスクで普通に仕事をしていた。大丈夫そうだった。お盆を挟んで辞令通り、同僚は出向していった。
担当をしたという心霊特番も予定通り放映された。番組を見ながら、これが全部やらせとはなあ、とぼやく。多少なりとも怖がれて面白かったのに。今後の楽しみがなくなってしまった。まあ、いい年をして、心霊を信じるのもどうかと思うが。同僚も見てるだろうかと思い、電話をかけてみる。同じように見ていた。「あの、今部屋に彼女が来ているんです。」と声をひそめて言った。「そりゃあ、お邪魔だったな。でもお前がやらせだって言ったんだから、きゃー!怖い!なんて展開は期待するなよ。」「はは。勘弁してください。」
元気そうで安心する。「あれから変わったことはないか。」と聞くと、「それがあったんです。実はネックレスの方が切れちゃったんですよ。」と言った。「満員電車の中で突然パラパラっと。拾うに拾えないし、俺急いでたからそのままで。その日はデートだったんですけど、そのあと何もなかったし。まあ、いいかなって。」
「うまくやってるなあ。」ほんとにうらやましくなってくる。なんていうか、若者のときめきっていうか。自分はでき婚で早く所帯じみてしまった。月末まで子どもの写生と習字を手伝わされている。息子は俺に似て計画性が無い。夏休みのラストスパートに付き合わされている。
「何か変わったことがあったら言ってこいよ。その後の進展も。」電話を終えて特番の続きを見た。特番は前半が心霊写真、後半が心霊映像になっている。霊感があるという芸能人と霊能力者がコメントを寄せる。これはもっともらしいことを言っているが、全部やらせなんだよな。それで、全部偽物。そう思うと作りものっぽいところが見つかって、同じ手法でとられた映像が散見するのが目につく。
「さて、ここでもっとも恐ろしい恐怖映像をご覧いただきたいと思います。」女子アナはマイクを握りなおして言った。もうそろそろ終わりだな。
日本家屋の畳部屋が映しだされた。低いアングルでテーブルの上にビデオが乗っているのが分かる。「みなさん、花瓶に注目していてください。」女子アナが声をひそめながら言った。床の間に茶色の焼き物の花瓶が映っている。すると花瓶の口から白いもやもやとした煙が吐き出された。「この煙というのが不思議なもので、原因はわかっていないそうです。家の方の話によりますと、お盆が近くなると突如こげ臭いにおいがして、そのあと煙が出てくるそうです。近所の住職のお話では、昔このあたりには地獄に通じる道のようなものがあって、そこから死者がたくさん出てきて困ったそうです。そこで霊験あらかたな僧侶の力により、その道を封じ、道をこの花瓶の底に移したそうです。」
「壺中天という話を思い出しますね。壺の中に別の世界が広がるという。煙が出ていますが、家の方には大事はないんでしょうか。」「はい。それなんですけど、多少匂いに困るというだけの他は、特に困ってはいないそうです。」「これが怖い話なんですか?怖い話と言うより、不思議な話というだけでは。」
なんかまとまりがないな、と思う。でも映像だけを見ると不気味だ。煙草の灰が落ちかけたので灰皿に落とす。映像はエンディングを流しながら壺のままで終わった。また次回をお楽しみに。あなたの不思議体験、募集しています。…宛先。そのあとに壺の静止画像。煙も静止する。煙の形が人の目の形に見えた。こっちを見ているような気がする。怖いと言えば、この偶然の映像が怖かった。
テレビを切る。そろそろ寝るか。あまり起きているとクーラー代で女房がうるさい。煙草の火が消えていなかったのか、煙が細く上がっている。つまんで押さえつける。明日の仕事を確認しようと手帖を持ち出して開いた。ペンをとる時に、まだ火が消えていないのに気付く。なんだ?もう一度消そうとつまみあげると、火で指先をやけどした。灰皿の中で煙草が燃え上がる。水、水を持ってこよう、と焦る。ふとウイスキーの瓶が書棚にあったのを思い出す。とってきて口をあけて中身を注いだ。もくもくと煙が上がる。映像の煙を思い出して怖くなる。怖くなる必要はない。あれはやらせだって言ってたじゃないか。煙は濃く太く立ち上がり、人の形を作り上げた。足先だけは細く灰皿につながり、見えない。顔が形づくられる。あの女の子だった。
「黙っていてください。あのお坊さんにはすまないことをしました。でも、どうしても出てきたかったんです。あの人を一目見て、忘れられなかったんです。」そう言って女の子の煙はかき消えた。やらせでないビデオテープが混ざっていた。坊さんが死んだどさくさで、まざってしまったのだろうか。俺は夢を見ているのだろうか。プーンと羽音を立てて蚊が飛んできた。頬にとまったのではたく。まぎれもなく痛かった。
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