第9話 畦を行くもの
白っぽい、細長いものが青草の向こうを見え隠れする。倒れるように揺れながら、つんのめりながら進んでいく。白い帽子が見える、と思ったら、スーパーのビニール袋だった。
「先生、見えましたよ。あの方です。」助手兼学生の青地が坂の上を指差した。老婆が下ってくる。「ああ、どうもこんにちは。今日はありがとうございます。」「いやいや。こげえなところまで、よう来んなさったなあ。」老婆は小さな足取りで近づいてくる。こんな坂と距離をその歩みで進んで、いったいどれくらい時間がかかるのだろう、と心配になった。
「写真とりなさるんなら、もうちいっと田んぼ入って、あれぇ、あそこ。総司さんところの田んぼ。立派じゃけえ。それ撮りなさるんがええ。」老婆に示された方角を見る。ほかの田よりひときわ青々とした田が広がっていた。風になびいた葉裏が白く光り、刀のようにも見える。「見事な棚田ですね。それに素晴らしい出来栄えです。」「お神酒作る米じゃけぇ、土からええもんつこうとるんよ。」「どんな土なんですか。」青地はノートを取り出した。「うちはようしらん。よう話さん。企業秘密じゃ。」老婆はそう言って歯の抜けた歯で笑った。
「企業秘密って、特性肥料か何かですか。少し土を分けていただいてもいいでしょうか。」「土はなあ。稲のほうならえええけど。どうじゃろ。」足裏にぬかるんだ土が張り付く。この土でもいいかな、構わないだろうと思う。乾かないうちに研究所に送りたい。しかしここにくるまでにコンビニは無かったような。宅急便を扱うところがないと困る。「先生、あれ、なんでしょう。」青地が田んぼの端を指差した。白いくねくねとした足取りですすむものがある。奇妙な動きをしている。「いやっ、先生、あれってひょっとして…。」くねくねとしたものは視界から消えた。老婆が「おおーい。大丈夫けー。」と叫ぶ。「ああ、大丈夫じゃー。」と返事がある。また白いものがのぞき、こちらを向いた。顔がある。頭に巻いていた布巾をくるくると取り除き、「ちょっと転んだんじゃ。驚かして、すまんのお。」と言った。「総司さん、薬撒きょんかの。」「ああ、今日はタニシじゃ。」
笑みを浮かべ右手を挙げて手を振った。青地に振ったものと思われる。青地はまだ驚いていた。「すみません。若い者が失礼を。」青地は地面に落したノートを拾い上げて、一緒に頭を下げた。「総司さんとこの長男。手足にマヒがありんさって。ああなるんよ。」「薬と言われましたが。」「農薬じゃのうて、なんじゃったかな。企業秘密じゃ。」老婆は返事に困ると、それがしまいだというように、その後もそれを繰り返した。
「あまりいいお話、聞けませんでしたね。」青地と靴裏についた土を運びながら坂道を下る。「町一番の物知りということで依頼を通してくれたんですけど。」「いや、あの人が話さないということは、ほかの人も話す気がないということじゃないだろうか。」「戒厳令ですね。あの総司さんという人に明日お話を伺ってみたらどうでしょう。気を悪くされてなければですけど。」
「君が都市伝説を信じているなんて、意外だったなあ。」青地は「本当にすみません。」と頭を下げた。「こういう仕事をしていると、ときどき君が若ものだっていうことを忘れるんだよ。いや、あの手の話はよくできているものもあって、信じられてしまうのも仕方がないと思う。というより、中には信憑性のあるものもいくつかあったな。」「先生もいるって思いますか?」「うーん。そういう話があるということは、少なくとも、何かもとになる話があっただろうから…。」
前方にぽうっと明りがともっている。ゆらゆらと揺れて近づいてくる。青地が緊張したのがわかった。「あれは懐中電灯だ。」と言うと、また「すみません。」と謝った。首からタオルを下げた青年らとすれ違う。「こんばんは。」「こんばんは。ひょっとして、総司さんの田んぼを見に来られた先生ですか。」と聞かれる。「そうですが。」と言うと、「これから総司さんのところで勉強会やるんです。よかったら、どうですか。」と聞かれる。場所を聞くと昼間歩いた坂道の先だということだった。宅急便を出さないといけないので、どうしようかな、と逡巡する。「先生、それなら、私一人で行ってきます。」と青地が言った。嫁入り前の助手を慣れない土地で、しかも日が暮れた時間にひとりにはできない。「私が出してくるから、君は彼らと先に行っていてくれ。」と頼んだ。
それじゃあ、ということで別れる。少し進んだ先で、彼らの中に女性はいただろうか、と思いだそうとする。血気盛んな若者と若い娘の取り合わせじゃないか、と考え、いやいや、やはり夜道に一人のほうが危ないと考えなおした。後ろから笑い声が聞こえる。大丈夫だろう。
宅急便が出せるお店はバス停のそばにあった。暗がりの中に立つバスの標識が、踏切の遮断機のように見える。ここで暮らせば老婆のいう企業秘密というのも、いつか分かるだろうか。お店は荒物屋で園芸用品から駄菓子、無料の通販カタログなども置かれている。品の動きがないものはうっすらと埃がつもっていた。期限が切れているのではないかと思われる調味料の瓶には、細く蜘蛛の巣の橋がかかっている。
レジの上で伝票を書き、精算をする。土と書くと妙な疑いをもたれる気がしたため、靴と書こうとしたが、思い直して衣類と書いた。店主は手引書を引っ張り出して着払いの手続きをしている。後ろの壁に神棚があった。真新しいお札が貼られている。マッチ棒のような棒線の上にお椀と伏せられたお椀のようなものが描かれている。それが二つ並んでいた。星座のマークのようにも見える。
「ああ、書けた書けた。」店主は爪の短くなったがさついた手で伝票の控えをよこした。「めずらしいお札ですね。」と言うと、「ああ、これですか。変わっとりますでしょ。ここの神さんらしいですよ。」と言う。「お札が新しいですね。」と聞くと、「ええ。正月でもないのに。でもこの辺りでは今時分張り替えるらしいんです。しかもこのひと月だけ。」と店主は札を仰ぎながら言った。「ひと月だけ?」「ええ。先月まではこのお札でした。」店主はレジの下の引き出しを開けて紙片を取り出した。貼り付けてあるお札と同じだが、こちらはマッチ棒がひとつしか描かれていない。「変わってるでしょう。うちは親父の代でこっちに引っ越してきたんで、詳しいいわれは知らんのですけど、まあ、しきたりっちゅうんは大事にせなおえん思うとります。」
子どものころから住んでいるならよそものにはならないと思うのだが、それでも新参者になるのだろうか。総司という男性のことを聞きたかったが、よそ者が聞いて回っているといううわさがたっても困るためやめておいた。宅急便は営業所が月曜日にならないと引き取りにこないと言う。土が乾いてしまうなと思う。適当に菓子を買い、袋を下げて店を出た。酒も買えばよかっただろうかと思う。勉強会だと言っていたので、なくてもいいだろうか。お店にあった札のことを考える。田が実る、田が増えるという意味合いだろうか。
総司の田は闇夜に包まれている。そこに田があるということを知らなければ、黒塗りの壁が続いている気になってくる。帰りは登りになるので長く感じる。心細さのあまり、歌でも歌おうかという気になった時、暗がりから声が聞こえた。びっくりして心臓が躍ったのが分かった。勉強会は田でやるのだろうか。驚いているのも大人げないため、平静を装い、「誰かいますか。」と声をかけた。畦をかけて先ほどすれ違った若者らが出てきた。
「ああ、先生、青地さんがいなくなったんです。」「いなくなった。」「はい。近道をしているうちに、いなくなって…。」青地と若者らは田を突っ切って、総司の家へ行こうとしたらしい。途中事故があったらしく、引き返す途中で青地がいなくなったと話した。「事故とは。」「多分骨折です。ぬかるみに足をとられて。」一人負ぶわれた青年がいる。「すまん、すまん、わしのせいじゃ。」と言った。どうやら泣いているようである。「じゃけん、やめえゆうたんじゃ。ばあさんがゆうとった。お札を張り替えとる月は、夜は田んぼに入ったらおえんゆうて。」「みんな青地さんの前で、ええかっこしょう思うて。誰もとめんかったんじゃ。神隠しじゃ。」
神隠し、という言葉に、わあっと泣くものがいた。「落ち着きなさい。意識を失って倒れているだけかもしれない。とにかく人を呼ぼう。」携帯を取り出して警察を呼ぼうとする。画面の表示は圏外だった。昼間は使えたのに。
二人選び、総司の家へ使いにやる。「あとの人は私と一緒に、青地を探すのを手伝ってください。」そう言うと、残りの若者らは顔をゆがめた。「わしはきょうてえ。よう行かん。」「わしもじゃ。先生、すまん。」子どものようにおびえている。そういう自分もずっと胸騒ぎがして、平静を保つのがやっとという状態だった。「わかりました。君たちは私が戻るのを待っていてください。青地が倒れていたら、運ぶのを手伝ってください。」一人で田んぼに入る。懐中電灯で畦を照らしながら進んで行く。青地の名前を呼ぶが返事がない。総司の家に近づくように進む。近道を行ったと言うのであれば、途中にいるはずだ。総司の家は平屋の屋敷で窓枠の灯りが星のように見える。ふとおかしなことに気がつく。どうして夜空の星が見えないんだ。畦もまっすぐ進んでいるのに、道に出ない。こんなに広い田だったろうか。
懐中電燈の灯りが弱くなってくる。電池が切れそうになっている。「なんてことだ。」と独り言を言う。すると「先生、先生ですか。」と青地の声がした。「青地、よかった。いたのか。」「先生、私、他の人とはぐれたみたいで。すみません。良かった…。」最後の方は泣き声だった。「ずっと歩いているんですけど、道に出ないんです。でも、よかった。先生が来てくれて。」
「青地、私も道が分かりにくくなっている。とにかく、君が無事でよかった。私がいる方向が分かるかね。」「先生、先生の声、すごく近くで聞こえるんですけど、全然先生の姿が見えないんです。懐中電燈はお持ちですか?」「ああ、持ってる。ここにある。」弱々しくはなっているが、消えてはいない。上に向けてかざしてみる。こうしたら場所が分からないだろうか。「青地、灯りが見えないか。」「見えません。」
青地の声は前から聞こえると思えば、後ろから聞こえるようでもある。暗闇で方向感覚が狂っているのだろうか。「先生。」と泣き声がする。「落ち着こう、青地。」「私たち、神隠しにあっているんでしょうか。」「かもしれない。しかし、我々はお互いの声が聞こえる。ということは、場所は近いはずなんだ。」「どうしてこんなことになったんでしょう。」先ほどみた札のことを思い出す。一体が二体。
我々はその二体だろうか。いいや。一つは神のはずだ。捧げものとも違う。記号は同列だった。「先生!」と悲鳴に近い声がした。「どうした!」「何かがこっちに来ます!」がさがさと稲が動く音がした。「何が見えるんだ。私には見えない。」「白くて、揺れています。ゆらゆら、ゆらゆら…。」
くぐもった悲鳴が聞こえる。「青地!青地!」懐中電灯の明かりが消える。真の闇に包まれた。どうにかなりそうだった。辺りをぐるりと見回す。落ち着け。総司の家があるはずだ。窓の明かりを…。濡れた窓ガラスに映ったように、ぼんやりと灯りが見える。そうだ。あれだ。手で探るように足をすすめる。昼間の老婆の動きより、緩慢だった。灯りに近づいていく。灯りは左右にぶれだした。動いている。灯りは尾を引きながら、細く長い光の筋を作った。揺れながら増えている。触手のように、光の筋をくねらせた。不思議と怖いという気はしない。体は動かなかった。
「先生、眼ぇつむってください。」頭上から声がする。「その声は、総司さんですか。」「そうです。言われたとおりに。早う。」目をつむる。汗が目に入り、ぬぐいたかったが我慢した。「目をつむったまま、四歩後ろに下がってください。そのあとは左へ八歩。そこに私がいます。」明瞭な声に体が信じた。頭の中で歩数を数える。終わりの八歩目のところで息を吐いた。
「もう、眼ぇ開けて大丈夫ですよ。」何時間も目をつむっていたかのように、瞼はしびれていた。星明りの下に総司の顔が見える。後ろに青地が横たわっていた。青地、と呼ぶと、ううん、と身じろぎをした。「運んでもらえんじゃろうか。わしじゃあ無理じゃけえ。」総司は杖を手にしていた。青地を背おって総司のあとを歩いた。畦はすぐに終わり、総司の家の門の前に出た。「どうぞ。お疲れじゃろうからおあがりください。」
広い玄関に靴が並んでいる。若者らしいスニーカーだ。田んぼの土がついている。「今酒風呂をしていますので、入るとええですよ。」促されるまま風呂に入り、さっぱりした。しかし心はもやに包まれたかのようである。骨折をしたものは病院に運ばれ、その他のものはみな浴衣姿で畳部屋に並んだ。「さて、そいじゃあ、始めようかの。今日は都会から偉い先生が来とるけん、気張ってやらにゃあ。」総司が笑って挨拶をすませる。つられて笑うものはなかった。内容は現代農法における米の流通について。総司ばかりがしゃべり、質問も無い。皆恐怖が残った顔をしていて、勉強どころではないようだった。青地だけがノートを広げ、時折書きつけている。十時が近くなったあたりでお開きになった。他のものは帰ったが、青地と私には寝床が用意された。服は洗いに出されてしまったため、翌日の昼まで滞在することになった。
ふすまを隔てて青地が私を呼ぶ。「先生、怖いので、ふすまをあけてもいいでしょうか。」と言う。「まあ、好きにしなさい。」とあいまいな返事をした。青地はふすまを開け放った。「本当は電気もつけて寝たいんですけど。」寝床に入り直し、「私たち、助かってよかったですね。」と言った。あれはやはり神隠しだったのだろうか。神隠しというのは、本人には時間がたっておらず、行方不明を発見した方には時間の経過が見られる。碁盤の目に入りこんだように、抜け出ることができなかった。目に見えない迷路のようだったのだ。
「私、最初総司さんのこと、体のこともあって苦手かなって思ったんですけど、総司さんがいなかったら、助からなかったかも…ううん、きっと助かってなかったですよ。あの場合。あんなことがあったのに、平然としてて、すごいですよね。長とか、長老って感じ。」
いつもの青地に戻ったようだ。彼女とか、いるのかなあ、とつぶやいている。やれやれと思う。しかし聞いていてつられたのか、自分も元気が戻ってくるような気がした。障害があると結婚は不自由かもしれないが、彼なら嫁の来てはあるだろうと思う。不安なのはこの不便な土地でやっていけるかどうかの方だ。ここでもしも研究ができれば、青地と総司が結ばれるかもしれない。そんな飛躍したことまで考えだす。あれこれと計画を考え、興奮と疲れがあいまってなかなか寝付けなかった。総司には不思議な力があり、何が起きたのかを聞きたかったのだが、入ってはいけないらしい田んぼに入ったこともあり、責任の追及にあう気もして、聞けなかった。このまま何も尋ねず、帰った方がいいのだろう。青地にもそうしてもらおう。ふと青地の方を見る。もう寝たのか上向いた青地は寝息も立てず、よく寝ている。体が動いた気がしたので、起きているのだろうかと注視する。青地は右手をくねらせた。不自然に。びたんと布団をたたく。左手は反り返るように動いた。続いて右足、左足と。顔の輪郭が白く光る。何かのもやに包まれている。青地は目覚めない。私は今度は目をつむることができなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます