第8話 マネキンの妻
チクタク、チクタク、と進む時計の秒針を眺めながら、今が一瞬のうちに未来になればいいのになと思う。すぐ明日で構わない。いつもの会社帰りの。時計が遅れているのかしら、と思って、正面玄関にある大時計を見た。遅れていない。私のは4分早い。この時計は中学の入学祝に父からもらって、最初は革バンドだったものが駄目になり、今はチェーンに付け替えて長いこと使っている。時計の針を父が4分すすめた。人の信用を得るためには、相手を待たせては駄目だ。待ち合わせには、いつも相手より早く着くようにしなさい。そう教えられたのを思いだす。スローペースで時間にはぎりぎりなことが多い。学校のレポートの提出もぎりぎりで、締め切りを当日に思い出すこともあ った。周りには、なんだかんだあっても、ぎりぎりで気付いたり、間に合ったりしていると不思議がられている。今の自分を父が見たらどう思うだろう。時計をくれた父は、7年前にがんで死んだ。
大時計の前には帽子売り場がある。夏が近いせいで、色が薄い軽い素材の物が並んでいる。父はここで帽子を落とした。私の手を引いて大時計を見上げているうちに落としたのだろうと思う。受付で届けを出したが返ってこなかった。誰かに拾われたのかもしれない。ちょうど帽子売り場が近くだったから、売り物と間違えて棚に置かれてしまったのかも。どんな帽子だったか思い出そうとする。白色だった。頭頂部に探検隊の帽子にあるように、まるいくるみボタンがついていたと思う。似たものがないだろうかと目を泳がせる。ここには何度か連れてこられたことがあったのだけど、何の用事で来ていたのだっけ。
「お待ちになりましたか。」古い楽器が鳴ったかのような声だった。音が鳴った後に、今のは何だったんだろう、と考えてしまうような、そんな声だ。「いいえ。今来たところです。」嘘。二十分は待った。「迷いませんでしたか?」と聞かれて、「大丈夫でしたよ。」と答える。どちらかというと方向音痴な方で、迷うかなと思ったけれど迷わなかった。以前来たことのあるような感が働いて、すんなり着けた。「さて、それじゃあ、行きましょうか。」「お食事ですよね。いいお店、ご存知ですか?」「お口に合うかどうか分かりませんが、お連れしたいお店があるんです。」男はお店の中の大時計を見上げて、「この上ですよ。」と言った。
男に連れてこられたお店は百貨店の最上階のレストランだ。お店で買い物をした人が足休めに来ている。照明の灯りが落とされて、メニューが読みにくい。久しぶりにメロンソーダの文字を読む。店内は昼寝ができそうなくらい静かだった。「何を召し上がりますか。」という問いに、なんでも、と答えそうになる。「あなたは、」と聞き返すと、「エスプレッソ。」と言った。同じものを頼もうかと思ったけど、すきっぱらにはありえない。エスプレッソのひとつ上のメニューにする。オリジナルブレンド。食べ物は男が頼んだメニューの一つ下を選んだ。
給仕が下がった後で、「お決めになるの、早いんですね。」と言われる。「そんなことないと思いますけど。」帰りたがっているのがばれただろうか。「いいえ、早いですよ。僕はいろんな女性とお見合いをしましたが、みなさん選ぶのに結構時間がかかっておられて。あれはなんでしょう、カロリーですとか、口紅が落ちないようにしよう、とか、ソースが洋服に着かないものにしよう、とか、いろいろ考えておられるんでしょうね。」
「私は食欲で選びますけど。昼に食べたものとかぶらなければ、なんでもいいです。」なんだか嫌味を言われたような気がする。女性嫌いな印象を持つ。さっきのメニューは男が選んだものの一つ上か一つ下だ、選ぶのが面倒だったから。これに感心するなんて、誤解があるし、気味が悪い。
「こちらのお店にはよく来られるんですか?」「ええ、時々来るんです。懐かしいし、忘れられない思い出などもありますから。」こう運ばれたら聞かざるを得ない。あまり聞きたくないけど。「思い出がおありなんですね。どんな?」男はエスプレッソを口に含み、そのまま自然とのどに下るのを待っている。ようやく口を開けるようになったというふうに、息を吐き出しながら言った。「妻に会いにくるんです。」
「奥様、ですか。」別れていないということだろうか。今日って、お見合いって聞いてきたのに。援助交際という文字が頭に浮かぶ。いやいや、私、そんな年齢じゃないし。眉間に浮いたしわを見たのか、「ああ、すみません。妻と言っても、妻そのものじゃなくて、忘れ形見のようなものです。」と丁寧に言われた。
「ああ、そういうことでしたか。すみません、驚いてしまって。」オリジナルブレンドを飲む。飲み過ぎて半分あけてしまう。間が持たなくなるから空にならないようにしないと。「幸せな奥様だったんですね。そんな風に思ってもらえるなんて。」「いえいえ。すれ違いが多くて、妻には不自由な思いをたくさんさせました。」
亡くなった奥さんが忘れられないなんて、案外良い人なのかも。「忘れ形見って、どんなものなんですか?」ちょっと聞いてみてもいいかも、という気持ちになって聞いてみた。「そうですね。このお話は、すると大抵の方がびっくりなさって、中には腹を立ててお帰りになってしまう方もおられるのですが…。」男は珈琲を一口飲み、あなたはどうでしょう、とでも言いたげな目をした。
「私、大抵のことなら、驚きませんよ。変わったものって、面白くって好きなんです。」「私の話を聞いてくださるんですか?」「ええ、よろしければ。」
男はくすりと口元だけで笑った。「では、ごらんください。ちょうど、私の後ろに一体ありますので。」えっ、何を言っているのだろうと思う。一体って。男の背後に目をやる。右側には会計デスク。髪を七三に分けた若い男が、もくもくと紙幣を補充している。右手をのばしてデスクの上のランプの傘の傾きを直した。左側はマネキンが立っている。7階で催事があって、婦人服のバーゲンをしている。着せられている服は定番中の定番、白で裾に黒のボーダーが入ったツインニットだ。マネキンは首がないタイプで、くすんだ白色をしている。飽きるほどいろいろな服を着せられて、角の色がはげていた。首はないけれど手はあって、溶接されたような指先が小指まできったりとくっついていた。ハンドバックをひっかけるぐらいしか実用のない腕。
「どうです。」と聞かれる。どうって…。他に何か特徴がないだろうかとよく見てみる。「スリーサイズが同じなんですか。」と試しに聞いてみる。「ええ!そうです!」と言って、男はうれしそうに身を乗り出した。「あれは妻が二十代の時に作りました。妻は若かったころモデルをしていまして、素晴らしいプロポーションをしていたのです。服の上からでは分かりにくいかもしれませんが…。」男は心底残念だ、という表情をした。服をめくれば見られるかもしれないけれど、それって、奥さんへの冒涜になるな、と思う。オリジナルブレンドは無くなってしまった。お水のおかわりを頼む。
「夏場だったら水着で見られたかもしれないですね。」男は飲み物を口に運ぶ手をとめ、「水着、それは考えが及ばなかった。」と言った。そんなにスタイルがいいのなら、水着の展示を頼めばいいじゃないの、と思う。
「あなたは怒らないのですね。」「変わってるなとは思いましたが、怒るほどのことでは。」「気に入りましたか?」気に入ったかどうかで言うとどうでもいいと思う。顔には出さないで、「興味深いです。」と答えた。「近くでご覧になりませんか。」と言う。自慢につきあうのはごめんだ。「お食事をとってからにしません?」と言うと、「ああ、すみません。つい夢中になってしまって。」と謝ってきた。
食事中に肌色の話を聞く。忠実な肌色の再生。蛍光灯の下で妻と同じ肌色に見えなければ意味がないと話す。なぜマネキンなんだろうと思う。「絵は描かれなかったのですか。」と聞くと、最初は絵を書いていたが、そのあとで立体に移ったらしい。手元に置くなら触れるものを。「妻は手がきれいだったんです。」と言って、私の手を観た。私の手はお世辞にもきれいとは言えない。炊事の時にゴム手袋をはめないせいだ。ゴムアレルギーだから、はめられない。
「ずっとマネキンを作っていました。でも、こうではない、ああでもないと作り続けるうちに、数が増えていったんです。合わせてお金がなくなっていく。当時仕事をしておりませんで、友人がマネキンをギャラリーに納めてみてはどうかと。麻や絹でできた手作りの衣類を展示販売しているギャラリーがあって、そこが個性的なマネキンを探しているというんです。私は妻のなりそこないのマネキンらを家計の足しに納めました。そしてまた新しいマネキンを作りました。一番いいものは家にあります。妻が死ぬ直後の姿を写し取りました。あなたが見たマネキンは二十代の頃の一体…。」
ずいぶんたくさん作ったんだなと思う。失敗作を入れると十二体。テーブルの下で指を折って数えてみた。全部のマネキンが若いころのものだったらうんざりだけど、四十代のころのものもあるなら、やっていることは変だけれど、感覚としてはまともじゃないだろうか。「試しに、四十代のころのマネキンはどこにあるんですか。」と聞いてみた。さっき話したギャラリーにあるという。「ふくよかな服装が似あったので。」と言う。体系の崩れを言っているのだろうと思い、最近母に電話をしていないなと思う。電話をかけるとずっと健康食品の話をするから、うんざりしているのだ。
「そのマネキン、見てみたいです。」「ええ、ぜひ、ご覧いただきたい。」男は身を乗り出して言った。「でも、今日はもう、ギャラリーがしまっているんです。よろしかったら、別の日を。」言われるままに次に会う約束を取り付けられた。会計を待つ間にレジ横のマネキンを眺める。食事はおごりになった。男は自分のギャラリーの名前を言って、領収書をもらっている。英語のつづりなので、紙に例を筆記している。続け字なのでお店の人は間違えないようにと慎重に指を動かした。マネキンの手を見る。ハンドバックの下はうっすらと塗料が禿げている。きれいだと言っていた指を見てみる。握力がなさそうな、小さい手。重い物とか持たないんでしょうね。今生きて目の前にいるわけでもないのに、嫌味を考える。私も嫌な女だなあと思う。ごめんね、と思いながら指に触った。強く触ったわけでもないのに、左手の小指がかけてしまった。コンとかけらが落ちる。やばい。男の方をうかがうと気付かなかったみたいで、領収書のつづりに間違いがないかチェックしている。かけらは台座の上に乗っているパンプスの間に落ちた。拾って見てみる。塗料がかかっていないところは白かった。気泡があって、すかすかした感じだった。ハンカチを取り出す時に、そっとハンドバックの底に転がした。
百貨店の外にあるバスロータリーで待ち合わせる。男が経営しているギャラリーの展示を見に行く。変わっているけれど、悪い人じゃなさそう…と思いたい。人を見る目には自信がない。この年になるまで一対一のデートなんてしたことがない。サークル活動で他の大学の男子と遊園地に行ったことがあるぐらい。私は変わっているんだと思う。変わっているから、変わっている人の方がお似合いだろうか。
そんなことを考えたせいか、今朝は父の夢を見た。夢の父は帽子をかぶって私の手を引いている。百貨店の大時計の下を歩く。駅への近道だ。どこへ行こうとしていたんだっけ。駅裏の通りを歩いてどこかへ出かけた。熱い日はアイスクリームを食べて。寒い日はお汁粉。私は手に何かを持っている。爪の間の汚れを気にしている。
絵具だ、と思い出す。そういえば絵画教室に通っていた時があった。この近くだ。バス停のそばに古びたパネルが貼られている。歯科医院この先左折200メートル。テニス教室生徒募集。詩吟の会発表会。絵画教室。
絵画教室の名前の下に電話番号が載っている。なぜだか電話をかける気になる。なかなか出ない。切ろうかな、と思ったときに電話がつながった。「すみません、お待たせしまして。」という上品な女性の声が聞こえる。
自分の名前を伝える。「昔そちらの絵画教室に通っていた時があって…。」内心変な人だとは思われないだろうかとひやひやする。しかし女性は、「まあ、おなつかしい。」とはずんだ声を上げた。「女の子の生徒さんはおひとりだけ。覚えていますよ、あなたのこと。」喜ばれてほっとする。「突然お電話して、すみません。電話番号が目についたものですから。」背後でバスセンターのアナウンスが流れる。「今お近くなんですの。」と聞かれて、「はい。バスセンターから。」と答えた。「私、今日はこれから、お見合いの続きをするんです。」
「まあ、よろしいこと。お相手はどんな。」どんな、と聞かれて返答に困る。「ええと…ギャラリー経営のマネキン作家です。」「マネキン作家…。ひょっとして、奥様のマネキンを作っておられる?」「ご存知なんですか?」「主人の仕事を通じて、話を聞いたことがあります。奥様と同じ体をしたマネキンを、お店に納めたって。」「ええ、そうなんです。変わってますよね。昨日百貨店で見せてもらいました。」「見せてもらった…。そのマネキンは縁起が悪いから、事件のあとに返品になったと聞いているのだけれど。」「…事件ってなんですか。」「あの方は奥様が失踪なさっているんです。しかもお二人。奥様の方から離婚の希望があったので、失踪ということになったのだけど。でもいまだにマネキンがお店にあるなんて。どういうことかしら。」
どういうことなんだろうと思う。考えなければ。にぶい頭を総動員して。許可なく紛れ込ませてるってこと?わーんわーんと車の騒音が頭に響く。「ねえ、あなた、今すぐこちらにいらして。場所は思い出せる?よくない気がするの。誰のすすめでお見合いなさっているのか存じませんが、今すぐそこを離れたほうがいいと思うんです。もしもし?」
腕時計を見る。待ち合わせは2時だ。今2時きっかり。いいや。そうじゃない。この時計は4分早い。「行きます。」と返事をして受話器を置いた。バスセンターを出て絵画教室へ行こうとする。百貨店の自動ドアを抜けて、男がやってくるのを見る。まずい。行きかけたのを引き返してバスセンターへ戻る。走ると気付かれるので歩いた。どうしよう。
目の前をすっと男性が横切った。白い帽子をかぶっている。そのまま歩いてバスの発着所に並んだ。間に子ども連れの女性を置いて自分も並んだ。バスに乗り込む。通路に白い帽子が落ちている。とれかけたくるみボタン。
帽子を深くかぶって空いた席に座った。気付かれていませんように。男が乗り込んできませんように。早く出発して。バスはそのあと乗り込む人はなく、山沿いの団地が立つ方へ向けて走り出した。
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