黒揚羽蝶はもう死にますと言った

月下ゆずりは

第1話 黒揚羽蝶




 ――わたしはしにます。

 

 少年は黒衣に身を包んだ女性が静かな声で言うのを、聞いていた。

 元気そうに見えるのに、死ぬものなのかと思った。

 夏のよく晴れた日だった。


 蝉が鳴いている。母方の田舎へ家族総出で泊まりに行ったときのことである。

 雑木林の中で虫を捕まえようと林に足を踏み入れたところ道に迷ってしまったのだ。右も左もわからない。獣道だけが続く薄暗い最中をひたすらに歩くしかなかった。

 音と言うものは、人の感覚の大きい部分を担っているものであって、全てが蝉に埋め尽くされてしまうと混乱するものである。特に自分が迷子になってしまったのだと気が付いた少年からすれば焦燥感を煽るだけの材料にしか聞こえてこなかった。

 少年は焦りに焦ってもと来た道を辿り始めた。

 しかし、元来た道というのは誤りだった。自分の後ろが今来た道なのだと人は錯覚しやすいものだ。幼い子供の彼がそうした錯覚に陥ったとして、何者が責められようか?

 ふと気が付くと林の中にぽつんと出来上がっていた葉の絨毯が敷き詰められた空間へと足を踏み込んでいた。

 空間には古い電柱がそそり立っていた。傍に寄り添うように大木が木々の枝の天井を突き抜けて直立していた。そのすぐそばには古いさび付いた自転車が置かれていた。とても古い型だった。白い塗料も剥げて治りかけのかさぶたのようにはがれてしまっていた。タイヤのゴムは当の昔に劣化して消えてなくなってしまっていた。


 「……どこなんだろう」

 「ここは」


 少年は自転車に駆け寄っていくと、サドルに手を置いてみた。

 そのすぐ背後で水面に水滴が落ちるような静かな声が響いた。

 はっとして振り返ると、漆黒が立っていた。闇のように深い、深海のような黒い着物を身に纏わせた白い肌の女が。輪郭の淡い顔立ちの程よい位置に浮かんだ長いまつげを供えた黒目がこちらを見つめてきていた。背丈は少年を見下ろすようだった。外套を羽織ったように黒一色で塗りつぶされた長髪が風もないのに靡いていた。

 漆黒からは影が伸びていた。少年を覆うは一対の羽と、上方に突き出た一対の触覚であった。

 人気の無い林の中。それも突然声をかけられて恐怖を覚えても仕方が無かっただろうに、少年は目元を潤ませていた。


 「―――……ここは雑木林の中。お帰りなさい。いるべきではないわ」

 「お姉さん……ぼく、ぼく、道わかんなくなっちゃったみたい」

 「あら……」


 女は困ったように口元に手を当てると、手を手前に振った。

 少年が歩み寄ろうとすると、女性の影に気が付いた。女性の背後から差し込む西日が映し出しているのは、明らかに人ではない影であった。言うならば巨大な蝶がそこに立ち尽くしているようで。

 ――ああ、そういうものなんだ。少年は理解した。

 幼いということは、自分の中で常識という辞書を完成させていないということだ。世界中のあらゆる事象に不思議を見出す年頃である。幼いということは同時にあの世に近いことを意味するという。だから時に、男の子の名前を女の子にすることもある。女装や男装をさせることもある。まだ流動物さえ食べられない赤子に米を含ませて、現世にとどめようとすることもあるのだ。

 少年は、女の手を握った。ひんやりとした冷たい手だった。


 「私のことが怖くないの?」

 「だってお姉さん、僕のこと食べたりしないでしょ。ちょうちょさんはお花の蜜飲むんだよ」


 少年が指差すと、女が纏っていた影は急速に引き潮になった。跡形も無くなった後に染み出してきたのは、人と同一の影であった。

 女は少年の手を握りながら困ったように眉間に皺を寄せていた。握られた手の向きを変える。すぐ隣に並んで手を繋ぐようにした。


 「ごめんなさいね坊や。脅かしたりして」

 「いいよ!」


 女は少年の手を取ると歩き始めた。向かった先は、少年が来た方角とは全く違う雑木林の中だった。

 女はいかにも歩きにくそうな着物と草履を履いているというのに、すらすらと進んでいた。小石や葉っぱは障害物にならないのだと少年は気が付いた。森が、避けている。木々が目を離した瞬間には違う地点に動いている。足をとられそうな根っこに至っては勝手に蛇のように蠢いて道を譲る始末だった。


 「お母さんとお父さんが心配していることでしょう。もう、こんな林の中に来てはだめよ」

 「ううん。また来るね!」


 女がため息を吐いた。このくらいの年頃の男の子というものは、禁止すればするほど禁止された約束を破りたがるものだ。来るなと言えば、来るだろう。

 しばらく歩いていくと森を抜けた。

 少年が虫かごと網を片手に歩道に出て振り返ると、影に薄れて消えていく女の姿があった。


 「また来るからねーっ!」


 女は静かに微笑むと消えていなくなった。





 それが出会いだったのだろう。

 少年は何度も何度も訪れては女に話をせがんだ。何せ田舎に泊まりに来たといっても、遊び相手になるような同年代がいなかったし、親や両親は付き合ってくれなかったのだ。女は同年代どころか二回り程年齢が離れているようだったが、話しやすかったのだ。


 「これはだれのもの?」


 少年はその日も会いにやってきていた。虫かごではなく水筒を提げて。

 少年が指差す先には自転車があった。今にも朽ち果ててしまいそうな白い自転車が。どれだけ探しても名前がかかれていないのだ。忘れて行ったのだろうか。

 女が自転車の傍で腰を屈めた。


 「これはね……今からずうっと前にここに来ていた人のものよ」

 「もう来ないの?」

 「来ると約束したのだけれどね」


 女が悲しそうな目をして自転車を見つめていた。

 少年がそれに気が付くことはない。


 「もう、来ないでしょうね……」

 「探しにいかないの?」


 女は少年の言葉に対し口元を押さえてみせた。

 雅な仕草に少年はどきりとした。クラスメイトの可愛い女の子に感じる感情でもなければ、テレビの美人を眺めているに類する感情でもなかった。心臓だけが意思を持ち勝手にくしゃみをしたようだ。


 「私は……坊やの思っている通りの存在よ。人が虫の声を聞かないように、蝶も人の声を聞かないわ」

 「ぼくは聞いてるよ」


 女がくすくす笑った。


 「坊やは特別。稀にだけど我々のような人ならざるものの声を聞く人間が出るの。坊やは恵まれたのね」

 「探してくる」

 「お待ちなさい」


 駆け出そうとする少年の肩を女が掴む。倒れ掛かりそうになった体を受け止めたのは、両膝をついた女だった。丁度胸元で抱きとめるような格好だった。

 少年の鼻腔をふわりと甘い香りが擽った。


 「もう、あの人は帰ってこないわ。知っているの。もう、会いには来られないということを」

 「でも」

 「いいの」


 女が少年の細い体を腕で抱きしめると、頭を撫でた。



 少年がたびたび訪れて自転車の主について聞いても女は答えなかった。

 少年の夏は過ぎていく。田舎での滞在期間が終了し、都会に戻る日がやってきた。

 女のもとに少年が歩いていく。道すがらに黒揚羽蝶の群れに出くわした。上から雪のように降ってくると、少年の体を包み込むようにして舞い飛ぶ。手を伸ばせば捕まえられるだろう蝶たちを前に、少年は口元を緩めるだけだった。きっとこの蝶も女の人の仲間なのだろうから。

 女はいつもの場所で待っていた。古びた本を手に待っていた。

 黒揚羽蝶の群れが一斉に四方八方に飛び去っていった。


 「―――私は死にます」


 唐突に女が言った。唐突過ぎて、何も言っていないかのように感じられた。

 少年は首を傾げると、いつものように女の元に歩いていった。近くにある木の切り株に腰を降ろすと、女が座るのを待っていた。程なくして女が隣に腰掛けた。

 とても、死ぬようには見えなかった。けれど女が言うのだから死ぬのだろうなと思った。元気そうに見えても、やはり死ぬのだろうなと感じたのだ。


 「死なないで」


 少年は女の手を取っていった。

 女はその手を手で包み込むと、顔を俯かせた。


 「でも死んでしまうのよ。私も死ぬし、坊やもいつかは死ぬの」

 「いかないで」

 「そうしたいけれど……できないの。わかってくれる?」

 「わかんない!」


 少年は女の胸元に顔を埋めて泣いた。

 なんと理不尽なことを言うのだろうと思った。死ぬなどと気軽に言うべきではないというのに。

 泣きじゃくる少年の背を女は撫でていた。表情は暗い。悲哀をたたえているようでもあった。過ぎ去りし過去を追憶しているのだろうか。


 「お姉さんのばかっ!」


 言うなり少年は女の手を払い駆け出していった。林に出来た広間を出ると一目散に歩道がある方角へと駆け抜けていく。足取りは軽い。途中躓いてこけても、鞠のようにはねて起き上がると、また走り出していく。擦り傷を作ろうとお構いなしに。

 女は少年の去りいく背中を見つめていた。胸元に抱き寄せる本は何度も何度も読まれていたのか擦り切れていた。



 しばらくたって少年が戻ってきたとき、女はいなかった。

 また来る。ごめんなさいを言わせて欲しいと告げて都会に戻っていった。

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