第九話 みどりいろのお医者さん

ももいろのお姉さんは、珍しく夢を見ていました。

 どこかの部屋の布団の上で、だれかに支えられながら座っています。そのとき突然、胸が苦しくなって息が詰まってしまいました。お姉さんは咳込んで、なんとか息の詰まりを解消したいと思いました。温かい手が、お姉さんの背中をさすっています。


 何か喉からせりあがってくるような感覚になった時、お姉さんの咳が一層激しくなりました。お姉さんは自分の口元に手をやって、そして咳をしました。なにか生温かいものが手のひらに付いた感覚があります。恐る恐る手のひらを見てみると、赤い血の塊がありました。

それを見たお姉さんは、深い絶望感に襲われたのでした。

隣でお姉さんを支えている誰かは、何かを覚悟したような顔をしていました。


***


 ももいろのお姉さんはがばりと起き上がりました。外を見るとまだ空は濃紺色でした。静かな夜です。

 ももいろのお姉さんは、怖くなって家を出ました。夜の大通りを抜け、黄色い花の咲く丘を登って、そこにこぢんまりと建っているきいろいお兄さんの家に向かいました。

「夜分遅くにごめんなさい」

 きいろいお兄さんは、快くももいろのお姉さんを家の中に入れました。こんなにも憔悴したももいろのお姉さんを見るのは初めてだったのです。

 家の中に入ったももいろのお姉さんが薄い夜着姿だったのに気づいたきいろいお兄さんは、掛布団を貸してあげました。小声でお礼を言ったももいろのお姉さんは、少し安心したような顔をしていました。

「なにかあったの?」

 きいろいお兄さんが優しく問いかけました。

「その、怖い夢を見てしまって」

「夢?珍しい」

「そうなの。血を吐いた夢なんだけれど…」

 夢の内容を聞いたきいろいお兄さんは、目を瞠りました。

 そして途端に、景色が二重に見えてきました。

 きいろいお兄さんの目は、たしかにももいろのお姉さんを見ていますが、頭の中で、まるで別の景色を見ているような気がするのです。


 大好きな女性が、苦し気に咳込んでいます。ただ背をさすってあげることしかできない青年は、悲痛な思いで、それでも健気に女性の背をさすってあげています。女性が一際大きな咳をしたとき、青年は女性の手に血の塊がついたのを見てしまいました。

 もう長くはないのだろうと、直感的に思ってしまった青年は覚悟を決めました。

 決して一人でいかせはなしない、と。


「…どうしたの?」

 ももいろのお姉さんに言われて、きいろいお兄さんははっとしました。

「ううん、なんでもないよ」

 きいろいお兄さんの脳裏には、先ほどの映像がこびりついて離れなくなってしまいました。

 ずっと忘れていた何かを思い出したかのような、そんな感覚がありました。


***


 きつねのこもまた、夢を見ていました。いつもの湖のような場所ではありません。丘のような場所に、誰かと立っています。濃い赤色の光に包まれた二人は、穏やかに笑っているようでした。

 突然、場面が切り替わったと思ったら、白い靄が出てきました。靄の奥で、誰かが泣き叫んでいるような様子が見えました。そしてふと隣を見てみると、今度は夢に出てくるあの青年が、悲しげな顔をして立っていました。

 がばりと起き上がったきつねのこの瞳は熱く、今にも涙がこぼれ落ちてしまいそうでした。


***


 真っ白な太陽がてっぺんに上った頃、きつねのこは家を出ました。夢から覚めたきつねのこはしばらくぼうっとしていたましたが、ようやく頭がすっきりしてきたのです。

 数日ぶりにあかいろの兄妹に会おうと思ったきつねのこは、町の方に出て、大通りを抜けていきました。ももいろのお姉さんのお店がお休みだったのが気になりましたが、きつねのこはそのまま、きいろいお兄さんの花畑の丘を超えて、さらに少し歩いたところにある雑木林にたどり着きました。


 濃い青色の木が連なる雑木林の真ん中には、ぽっかりと穴が開いているようにして開けた場所があります。そこにあかいろの兄妹の家があります。

 きつねのこが二人に会うのは数日ぶりです。もうこの世界にきっと慣れたことでしょう。

 きつねのこは二人の家の扉をとんとんとんと叩きました。

 すると中からばたばたと大きな音がしました。不思議に思ったきつねのこは、もう一度扉を叩いて、今度は声もかけてみました。

「こんにちは。きつねのこだよ」

 少しの間静かになりましたが、やがて足音が聞こえて、がちゃりと扉の鍵を開けたことがわかりました。すると、あかいろの妹が出てきました。

「ごめんなさい、お兄ちゃんを起こしていたところのなの」

 はきはきとした妹のうしろで、のっそりと起き上がるあかいろの兄が見えました。

「おはよう、あかいろのお兄さん」

「…おはよう」

 あかいろの兄はまだ眠たげで、掛布団をつかんだままでした。そんな兄に代わって、妹がきつねのこを家に招き入れました。二人は机に向かいあうように座りました。

「おきつねくん、昨日ぶりだね!」

「うん!どう、このお家は?」

「すごく素敵だよ!お布団とか、机とかは物知り村長さんがくれたし」

「そっか、それはよかった!」

 きつねのこは安心しました。町でのあの出来事で、二人ともこの世界が好きじゃなくなってしまったかもしれないと思っていたからです。

 すると、ようやく目を覚ましたらしいあかいろの兄が妹の隣に座りました。

「…今日は、どうしたの?」

「あ、そうだ。二人に会ってもらいたい人がいるんだ」

「会ってもらいたい人?」

 二人は不思議そうな顔をしました。

「そう。みどりいろのお医者さんっていうあやかしなんだけど…」

 みどりいろのお医者さんは、名前の通り、緑色の色持ちです。彼は町から西に外れたところにある芒野原の中にある、小さな小屋に住んでいます。彼はお医者さんと呼ばれていますが、青い世界のあやかしたちは怪我をしたり、病気になったりはしません。いえ、正確に言えば、物理的に傷ついたり、病んだりしないのです。

 みどりいろのお医者さんは、心に負った傷や病気を治すのです。

「だから、どうして町のみんなが赤色を怖がったのか、みどりいろのお医者さんならわかるかもしれない」

 あかいろの兄妹は、町のあやかしたちの、気味悪がる様子や、冷たい視線のことは知っていました。しかし、なぜそう思われているかまではわかりませんでした。

 二人は、きつねのこの後についていくことにしました。


***


 三人は、町の方は通らずに、遠回りして芒野原までやってきました。芒は、きつねのこたちの中でも一番背の高いあかいろの兄の首元まであります。

 三人は芒を掻き分けながら歩いて行きました。ときどき、あかいろの兄が背伸びして小屋がないか探します。何回かそうしているうちに、小屋の屋根がわずかに見えました。

「あった!」

 三人は、屋根が見える方向の芒をどんどん掻き分けて行きました。しばらくそうしていたら、突然開けた場所に出ました。勢い余った三人は同時に転んでしまいましたが、その拍子に小屋がちらりと見えました。

 起き上がってもう一度見てみると、確かに小屋があります。ようやくみどりいろのお医者さんの小屋に到着できたのです。

 あったあったとはしゃぐきつねのこを見たあかいろの兄は、今までどうやって一人で来ていたのだろうと不思議に思いましたが、何も言わないことにしました。

 はしゃいでいつもより声が高くなっているきつねのこは、そのままの調子で小屋の扉をこんこん、と叩きました。

「みどりいろのお医者さーん!こんにちは!」

 木の扉が、ぎいと音を立てて開きました。

「やあ、おひさしぶりだね」

 中から出てきた、緑色の長い髪を低い位置に留めた彼こそがみどりいろのお医者さんです。みどりいろのお医者さんは、柔和な笑みを浮かべながら家に招き入れてくれました。

 全員が家の中に入り、座ったところでみどりいろのお医者さんが話しかけました。

「ええと、きみたちが新しくやって来た色持ちの…?」

「うん、そうだよ!赤色なの!」

 あかいろの妹の方が答えました。兄の方は緊張した面持ちでみどりいろのお医者さんの方を見ています。

 そんな二人を見て、きつねのこはずっと不思議に思っていたことを聞くことにしました。

「ねえ、みどりいろのお医者さん、どうして町のあやかしたちは赤色を怖がるの?」

 みどりいろのお医者さんは、少し答えるのを戸惑ったようでしたが、話してくれました。

「…僕もちょっとだけ怖いかな」

「えっ」

 あかいろの兄の顔がさらに強張りました。妹の方はもう慣れたかのようにけろりとしています。

「ああ、ごめんね。別にちょっと怖いからってなにかしようってわけじゃない。それに、怖いとは言ったけど、僕にとっては同時に懐かしくもあるんだ」

 きつねのこは首を傾げました。みどりいろのお医者さんは、赤色を知らないはずだからです。きつねのこがいつも黒い世界に行くために通っているあの森は、なぜかきつねのこしか場所を知らないのです。自然、黒い世界への入り口から漏れる赤い色の光は、きつねのこしか知りません。

「うーん、どう説明したらいいんだろうね。ただ、頭の奥の方で、赤色は血の色だ、血の色は怖いって感じてしまうんだ。町のあやかしたちも同じなんじゃないかな。ただ僕は、恐ろしいと同時に懐かしくもある…きっとその色の傍でかつて…」

 いや、かつてなんてないはずだけれど…とみどりいろのお医者さんはぶつぶつと呟いています。

「僕のところに来るあやかしはさ、大抵なにかが怖いとか、苦しいとか、つらいとか、そういう悩みと言うか、心の病っていうのかな?そういったものを抱えているんだよね。それで、そういうあやかしたちって、口をそろえて『血が…』って言うんだよね」

「血…」

 赤色の兄妹が町で言われた言葉です。しかし、実際にはだれも血なんて見たことがないはずです。

「きっと、知っているんだと思う。もちろん見たことはないけど、僕も、多分知っている。そうでなきゃ、こんな感情にはならないはずだよ」

 きつねのこはさらに首を傾げました。ちらりと赤色の兄妹を見ると、二人はどこか納得したようでした。そんな様子を見て、きつねのこはもっと不思議に思いました。

「うまく言えないのだけどね…君たちを見ていると景色が二重になるっていうか…たしかにこの青い世界を見ているんだけど、どこか遠いところを見ているような、そんな不思議な感覚になるんだ。何かを…忘れられないっていう…そういう強い気持ちが溢れてくる…懐かしいような…」

 みどりいろのお医者さんは、目を細めどこか遠いところを見ているような顔で呟きました。目は確かに青い世界を見ていますが、その奥で、青年と怪我だらけの子供たちが遊んでいる様がおぼろげに映っているのです。

「ごめんなさい、すこし混乱してしまった…色々考えておくから、今日のところはごめんね」

 困ったように笑ったみどりいろのお医者さんに、三人はしっかりお礼を言いました。そして、また芒野原に入り家路につくことにしました。道中、三人はみどりいろのお医者さんの言葉について話し合いました。

「お兄さんは、みどりいろのお医者さんが言ってたこと、わかった?」

「…なんとなく」

「私もすこしわかるよー!」

「ええっ、二人ともすごい!」

 きつねのこにはいまだにわかりませんでした。みどりいろのお医者さんの言う、忘れてはいけない、とか、懐かしいとかいう感情です。

「この世界に来た時、とても混乱してて。今はもう落ち着いて、あの時なにを思っていたのかだんだん思い出せなくなってきたけど、それでも一つだけちゃんと覚えてることがあるんだ」

 あかいろの兄は、背中はとても熱いのに、彼の腕の中で冷たくなっている妹の姿が忘れられません。

「覚えてるって言ったって、君たちが来たのはついこの間じゃなかった?」

「うーん…」

 それこそが不思議なことでした。あかいろの兄や、みどりいろのお医者さんの話は、さも青い世界に来る以前、なにか別の出来事があったかのようなものだからです。

 だからといって、あかいろの兄は確かに覚えているあの感覚を、忘れることはできないような気がしました。

 芒野原を抜けた三人は、そこで別れました。きつねのこは森にある小屋に帰り、もう寝ることにしました。よくわからないことだらけで頭がぼんやりとしてきたからです。布団に入ると、きつねのこの瞼はすぐに重くなりました。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きつねのこ たま史郎 @siro-tama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ