第12話 SAN値直葬……

 今日の授業は身が入らなかった。なにしろ聞かされた話が話だ。

 新見が子供時分にかけられた嫌疑は殺人容疑。公にはなっていないものの、新見少年の精神異常が発端であると誤認されたこの事件は、遺体の頭部が切開されて、中にある脳が綺麗さっぱり持ち出されていた猟奇殺人事件である。外部からの観光客である第一発見者を含め、村全体に箝口令が敷かれて間もなく、公安局の人間が日本の中枢から欠け離れた辺鄙な片田舎に出張ってきたのには相応の理由があった。

 新見の口振りでは、この猟奇殺人事件は単独犯の犯行ではなく、複数の人間が絡んでいるのだという。ここまで云い切る背景には、彼自身が犯行現場に直面して、直接犯人一味と接触しているからに他ならない。

 「首謀者は女だった……」

 新見は絞り出すように声を発した。以前、顔色は冴えず、声音も震えていた。

 「その女から血が凝固している鋸を手渡された。初対面の人間にこんなこと云うのは正気の沙汰じゃないのは分かっている。だけど……」

 「紛うことなき真実である」

 川端は新見の後をとって続けた。

 「翔太さんの話を補足すれば、その女性はまだ息があったとされる被害者の頭部に直接鋸の刃を当てて頭部を切開、脳を取り出して保冷剤を敷き詰めたクーラーボックスに入れて車のトランクに運び込んだとされています」

 「それこそ、正気の沙汰じゃないな」

 私の眉間に自然と皺が寄った。さて、この非現実的な話を鵜呑みにしていいのだろうか。犯行に使われた鋸を目撃者に手渡すなど、証拠を現場に残していくようなものだ。ましてや、頭蓋骨のような強固で頑丈な物に鋸一本で事が足りる筈がないし、犯行現場を目撃された際、隠蔽のために目撃者を生かしておこうなどと考えるものか。

 一度、殺人に手を染めた以上、今更ひとり増えたところで良心の呵責に耐えきれなくなるなんて想像できない。新見が子供だったにしろ、生きた人間の頭部を切開する連中だったら、サイコパスやシリアルキラーの類だろうし、そもそも良心というものが著しく欠如している側の人間である。子供を殺すことに、なんら躊躇いなど生じないだろう。現実は小説よりも奇なり、というが、我々には及びもつかない精神構造をしているものだ。

 「思うのだが、子供の力で頭部を切り開くなんて可能なのか? そんな些細な事案を県警が見過ごす筈がない」

 「公安局です。無論、警察庁も警視庁も動きましたし、いまでも水面下で捜査は継続中です」

 「なんでお前がそんなこと知っているんだ?」

 「情報操作や隠蔽体質のこの村で、私は知り過ぎていると仰りたいのですね? 貴方だって子供なのに、警察組織についてアイスの蓋を舐めるように詳細な情報をお持ちのようですが」

 「生きた情報が遮断されていると云うだけだ」

 川端は頷いた。

 「そうですね、ここには世界有数の大図書館が建造されていますものね。労を省かなければ、いくらでも知識を仕入れることが出来ます」

 「公安局が動いた理由は、国家転覆を目論む反政府組織が絡んでいるからなのか?」

 私の冗談に遠慮なく川端は声を出して笑った。

 車内の人間の幾人かが振り返ったのを見て、川端は笑みを浮かべたまま一度軽く会釈した。豊満な胸を前で組んだ腕で持ち上げる動作をすれば、大抵の男たちは視線を窓の外に逸らす。女たちは軽薄な川端の仕種に声なき批判を表情に浮かべて抗議する。煤嶽村で行われている性交の簡素化は、公の場では取り繕う義務が生じている。人間とは随分と都合の良い生き物だと再考させられた。

 「過激な左翼主義者たちの行動には辟易させられますが、なんだって生きた人間の頭部を開いて、脳を保存環境の良いクーラーボックスに仕舞い込む必要があるのですか? それで法改正が助長させられたら問題ないですが、これはただの猟奇殺人事件ですよ」

 「それだけで公安局が動くとも思えないんだ。公安内部がどのようになっているかなんて知らないが、警察組織と違うことくらいは想像で補える。処理する案件が水と油くらい違うだろうに」

 「そこですね。先程はあゝ云いましたが、わたしも不思議に感じておりました。翔太さんのような子供を、人身御供にしなければならないほどの極秘情報があったとなれば、一晩飽きずに語り尽くせると云うものです」

 「映画鑑賞がしたいならこの村を出るんだな。県境に進めば、映画館の一つも見付かるだろう」

 川端は徒に首を傾げ、いま一度声を出さず笑みを浮かべた。莞爾したと云った方が正確だろうか。魅了されるべきは肉厚の唇であり、唾液で濡れ染まった様は、赤く充血した果実を想起させた。

 私の視線に気付いた川端は、睦言の調べをその肉厚の唇を舌で舐める音で表現して見せた。卑猥な唾液音が私の耳に刺さったものの、車体が上下するほどの劣悪な道路事情で霧散する。独創性を奪うほどにこなれた雌雄の饗宴は、房事の疑似的な絡みに終始した。

 「現実はこんなにも興味をそそられる話があるというのに、どうして映画鑑賞に興じる必要がありますか。不謹慎かもしれませんが、人間が抱く好奇心は否応なく恐怖に類するものと相場が決まっております」

 私は苦笑せざるを得なかった。偏見も甚だしいが、否定しても仕方がない。川端の主観はともかく、好奇心が刺激されたことは確かなのだ。

 「俄かには信じ難いって話だ。猟奇殺人事件とはいえ、警察庁が動いたとなれば特異な事件に関連する。管轄する都道府県警を指揮して情報を収集しただろうし、その後に箝口令が敷かれたとあらば、国家を揺るがす規模の極秘情報を掴んだことになる。況や公安局が出張ってきても不思議な話じゃない。夜伽の睦言が必ずしもロマンチックじゃないのも頷けるな」

 川端は両の瞳を閉じて天を仰いだ。

 「やはり、私のことは知っていましたか。煤嶽村と南櫛灘村を股に掛ける通風孔などと揶揄されてもいますが、座敷に響くのが嬌声だけならいざ知らず、閉塞状況を打開したいのであれば、当時を知る者に口を割らせるのも一興かと存じます」

 「建前だな。だが、悪くない」

 「閉て切った室内で、加齢臭の酷い老害共を相手にするのは骨が折れるわ。警察連中と懇意にしたのだって、好奇心だけと云う訳ではありませんけど」

 そう云って新見を見やる川端の視線は、どこか冷笑的な侮蔑を含んでいた。新見は恥辱に顔を伏せ、やり場のない溜息を吐いた。

 「本能行動の贖罪が、十四歳の少女を通風孔にした挙句、極秘情報を垂れ流さなければならなかったあの刑事。いまとなっては良い金蔓になっているのですから、渡りに船と云ったところですね」

 「そこまで話す必要なんてないぞ。聞くに及んでどっちもどっちだがな。ところで新見?」

 新見は顔を上げて私に視線を向けた。生気の抜けたその表情からも、自分のことも知っているのかと問うているかのようであった。

 「呼ばれてますよ、翔太さん? 界隈で浮名を流しているツケをここで支払う必要が生じましたね。自制が利かないのは私も同様ですが、理由が理由なので庇い立てする義理はありませんよ」

 「憔悴しきっているとこ申し訳ないが、俺も好奇心を満足させたくてな。当時の状況をもう少し思い出してもらいたい。現場が何処だったのか、複数犯だとして犯人たちの特徴、主に主犯格だった女の容貌とか――」

 やや間があってから、新見の口から途切れ途切れに言葉が紡ぎ出される。幼少の頃に受けた大人たちからの尋問が再開されたかのように、固く強張った顔は苦悶に満ちた醜悪な害虫を想起させた。

 「腐葉土場だ……そっち側のな」

 「あっちじゃなくて?」

 「いや……煤嶽村だ。恐らく部落地名総監に記載されていただろうが……東側の方だ。祖父の時代には相当荒れてたらしいな……大正時代は自分に正直な奴が多かったのだろうよ」

 私は首を捻った。

 「西側の間違いじゃないのか?」

 「それは最近の話じゃないですか?」

 川端が口を挿む。

 「このご時世、部落の存在は抹消したい過去ですから、役場も手を入れて開発に心血を注ぐのでしょうね。局所的な開発は不自然の極みですが、大人の事情が介在するといつだってこんなことが起こり得ます」

 煤嶽村の東西冷戦は父が存命だった頃からの問題だった。村長が無視できないほど威光ある家名の存在が、どうしたって政治の枷になる。虫の居所次第で、村の経済活動に働きかけるほど影響力がある以上、一村民の生活を守らなければならない立場の者は、調整力を如何なく発揮して、全体のバランスを取ることに時間をとられていた。

 西側に追いやられた部落民たちが不利益を蒙らないために、父は河野村長の意向を押し切って部落民たちと生活を共にした。と云うのも、東側に居を構えた形では部落民たちがおいそれと院に立ち入ることができず、反対に権勢を振るう側が折れる形で院の敷居を跨げば、そこから妥協と友好が生まれる可能性があることを模索したためでもある。

 結局はその目算も父の事故死をもって終焉を迎えるのだが、車のブレーキに細工してまで笹川守を事故処理したかった背景は、正確には判明していない。村に一人しかいない医師の存在を抹殺してまで守りたかった物は、権力維持か、それともいまこうして話をしている猟奇殺人事件のような、口外できない秘密でもあるからなのか。

 私は母共々肉親のこうした無念を背負って生きている。村に蔓延るこうした闇の部分に切り込んでいこうとする切っ掛けが自身の持つ異能の力であればこそ、常時能動的であれと云い聞かせてもいられるのだろう。家名の存在に怯える必要もなければ、絶対に感付かれもしないのだから。

 「女の……容貌は覚えていない。思い出そうとしても……ただただ胸糞悪い吐き気に襲われちまうんだ」

 そう云うと、新見は両目を固く閉じて俯いた。正気を保つ上で記憶を蘇らせる行為は、精神の均衡を著しく阻害してしまうのだろう。新見のこうした心理状況は、無意識による自衛行為にまで及んでいる。精神的外傷は大きく、私ですら同情を禁じ得ない。子供が背負うには少しばかり荷が重い過去だった。

 川端はハンカチを取り出して、新見の額からいまにも滴り落ちんとする玉のような汗を拭ってやっている。呼気が荒くなっているのを察して、私は少し時間をかける必要があると感じた。

 好奇心を満足させるために、ここで彼を壊してしまっては事だ。ジグソーパズルは時間をかけてひとつひとつピースを当て嵌めて行っても良いのだから。

 なに、ここで新見と今生の別れと云う訳でもなし、勉強会で顔を合わせることが分かっている以上、ショートケーキの苺は最後の楽しみにとっておくだけである。聞き出したい情報だけ得られれば、後は野となれ山となれだ。

 最後に此の村は地図の上から消える予定になっているし、出来得る限り、煤嶽村に在住する人間も迎えに行ってやるつもりだった。

 その前に私は村の全てと云わないまでも、隠蔽されているであろういくつかの情報を得て、公にしてやろうと云う意図がある。口減らしだけでも重罪であろうに、それ以上の悪が底の方に沈殿しているとあれば、きちんと証拠を形にしてやらねばと考えたのだ。

 猟奇殺人事件が直接村の秘匿に繋がっているかは疑問だが、なんでも手に入るなら拒まず受け入れてみる。そこから重要な手掛かりにぶつかれば、もしや父の事故死のことも繋がりが見えてくるやもしれないからだ。全ては微かな希望だったが、可能性を示唆する上で行動は不可避なのである。

 「翔太さんのことでがっかりさせたからと云うわけではないですが、管轄外のとこで起こった事件で警視庁が動いた背景が面白かったのでお話しします」

 「川端、お前性格悪いだろう?」

 「同族嫌悪の意味が知りたければ、ご自分の顔を鏡で映し見て下さい。辞書より早く意味を知ることができます。当時の法務大臣ですよ……」

 「法務大臣?」

 川端は頷いた。

 当時の法務大臣については、惣掟のため情報が不足していたので思い当らなかったが、年を経てテレビや新聞に目を通せるいまとなっては、村中忠樹の名前を挙げることができる。大蔵大臣であった畑山一郎の不正献金が明るみに出て、隆盛を誇っていた与党が選挙に敗北した後、野党最大勢力であった新明党の台頭により、三党連立化で過半数を勝ち取り、政権交代に移行した。

 新明党は当時代表を務めていた越谷修を内閣総理大臣とし、連立内閣を組閣して、ここで黎明党の村中忠樹を法務大臣に抜擢した。三党連立の際、各党から一人は大臣を選出する約束を取り交わしていたため、村中忠樹の他、法泉党から後藤雅臣を運輸大臣とした。

 越谷修を代表とする新明党としては、単独では議席数が過半数に達しないため、連立している黎明党や法泉党の存在が必要不可欠であり、この取り決めが履行された訳だが、政権運営に直接口を挿まれたくない思惑もあった。

 利権ポストとして名高い運輸大臣の役職には、清廉潔白を旨とする後藤正臣が適職とする越谷内閣総理大臣の推挙から結論に至ったのだが、黎明党の扱いだけがどうしても頭痛の種だった。新明党の次に議席数を占める割合が多いため、あまり無碍にすることもできず、だからと云ってあまり重要な役職を与えることも躊躇われたのである。

 打開策を提示したのは、幹事長に就任した三森昭雄だった。法務大臣の役職こそが、最も現状に適した策であると滔々と説いたのである。職務も地味であり、華やかさに乏しい一面もあることから、一線から外れた衆議院議員、亦は参議院議員に配慮した形で割り当てられることも多いポストでもあったため、与しやすいと読んだのだろう。

 役職としては申し分なく、中央省庁再編前は首相、副総理の次位に数えられたので、黎明党からの非難を受けることもないと踏んでの行動だったと推測される。

 「法務大臣に就任してから一週間後、彼の元に一通の封書が届いたらしいのです」

 魅惑的な唇に人差し指を当てて、川端は声量を落として云った。

 「請求書なら間に合ってるかもしれないぞ」

 「それが、お金では買えない素敵な夢が手に入るらしいのです」

 私はその抽象的な云い回しを訝しんだ。

 「なんだ、その封書に怪文書が入っていたとでも?」

 「ご丁寧に煤嶽村までの地図が添えられて」

 身を乗り出した川端の手が私の膝上に置かれた。声は低く抑えられていたが、明らかに興奮しているのが分かる。川端の紅潮した顔が至近距離まで迫り、新見の手前私は顔を背けざるを得なかった。

 以前置かれた膝上の温もりは抗い難く、それ以上に歓喜させられる女性を主張する部位が悩ましかった。自身の感情を、人体機能の一部で悟られまいとして自制をかけようとするものの、どうしても若さを跳ね除けるだけの心の余裕が生まれなかった。仕方なく体制を変えてみるも心意が伝わらなかったのか、川端は私の肩に手をかけて背中越しに体を預けてきた。

 柔らかな脂肪の弾力が背から伝わり、下半身に痺れのような感覚が走った。意図的な行為なのか無意識の行為なのか、検討しているほど私は大人ではない。本能が理性を上回る前に、どうにかして自制を利かせなければならなかった。公然猥褻罪なんてもってのほか、審判官や調査官と手を取り合って、今後の人生設計など組む気にはなれない。

 耳元に迫る川端の吐息に、いい加減激怒してやろうと思った矢先、紡がれた言葉に私は息を呑んだ。

 「脳を取り替えっこするんですって……」

 私は振り返って川端を睥睨した。

 「なんだって?」

 「だ、か、ら、脳を取り替えっこするんですよ」

 莞爾した川端は、まるで性魔術に中てられた色情魔の体をなしていた。だらしなく開いた口腔から、情報を絞り出すための道具が卑猥に形作っているよう思われた。あれで男を喜ばすのだろうかと、脳裏に兆した自分に嫌気がさされた。

 「先ほど、貴方に話の腰を折られた刑事がくれた情報です。開封前、開封後では商品価値に差が出ますからね。代償としては足りないくらいです」

 「骨董品の価値を見定めるには、それなりの鑑識眼が必要だ。歴史の潮流に曝されて猶、現代まで生き残ってきた代物は、それだけで異彩を放つと云うじゃないか。多少の欠損は本質まで影響しないさ」

 「要するに処女膜の有るか無しかで女を判断しないと云うことですね?」

 「本質と商品価値は比例しないがな。それより、差出人が誰なのか検討がついているのか?」

 「差出人は不明だが、投函されたポストはここで、煤嶽村の簡易郵便局の局員が処理していたらしい……」

 新見が絞り出すような声で云った。

 「怪文書に依拠しますと、最先端の医療技術で脳を傷一つ無い状態で摘出し、目的の人物に移植するとあります。相手の同意があるかどうかは言及されていませんが、その人物に成り代わって今後の生活を謳歌できる。私のような容姿端麗に生まれついているなら話は別ですが、人間は平等ではありませんし、常時理想と乖離した境遇の中で、虚像に追い立てられるように自己を演じ続けているのでは、平穏など皆無ですからね」

 「脳の移植手術など聞いたことがないぞ」

 「被験者を探しているのではありませんか? 心臓の方で、ほら! 和田寿郎氏が御茶目しちゃったこともあって、臓器移植そのものに遅滞を招く結果となりましたが、今後日本の医学は、脳の方へシフトチェンジしていくものと思われます」

 馬鹿馬鹿しい話だ。だとすれば、この怪文書は医学に携わる者が法務大臣宛てに手紙を出して、我々の素晴らしい医療技術を是非体験して見て下さい、とダイレクトマーケティングしているとでも云うのだろうか。消費者の反応なんて推し量るまでもなく、身に危険が迫るなら、おいそれと首を突っ込む輩がいるとは考え辛い。好奇心は猫を殺すの観点から論じても、猟奇殺人事件と怪文書の間に同一人物の顔が浮かび上がってくる以上、此れも亦、同様である。

 レシピエントを誘い出す文句にしては陳腐であり、失笑を買うだけの子供じみた行為だ。箝口令が敷かれたこの猟奇殺人事件を知る者が、愉快犯として法務大臣宛てに怪文書を送り付けたのなら兎も角、ここら辺がはっきりしないことには下手なことは云えなかった。

 肉体的な若返りを期するあまり、怪文書の甘い蜜に群がる蝶にならないとは断定し難いが、そうなれば法務大臣は政治家の道を擲って、ドナーの新たな身体で人生の再設計を迫られるのだ。急に人が変わったように振る舞えば、家族の者にも訝しまれる恐れがある。実入りの少ない選択と云えるだろう。

 なんらかの伝手で、法務大臣の性癖がマイノリティ側の人間であると云う情報を得たとして、ドナーである女性の身体を手に入れられるとした場合、ひた隠しにしてきた積年の思いを形にしたいと考えるだろか。

 これも駄目だ。いくら日本が性同一性障害の理解に乏しいとはいえ、当人の苦悩を天秤にかけても秤が大きく傾く計算にはならない。

 となると、レシピエントよりはドナーを誘い出している要素が強い。社会的な影響力があり、且つ裕福な暮らしをしている人物をドナーとして取り込むとしたら、法務大臣宛てに怪文書が郵送されても矛盾はない。ただ、この怪文書にあるように、医学的見地から、脳移植が可能だとする立証がなされた前提に立った上での話であるが。

 「その大臣様は脳移植を承諾したのか?」

 「詳細を窺い知ることはできませんが、否、とは云い切れないところがあります」

 法務大臣が脳移植を受けていたとしても、姿形が同一人物である以上、直接本人の口から真偽のほどを問い質さなければ結論が出ないと云うわけだ。亦、問い質したところで、真実を口にしているか確証も得られない。となれば、川端のように曖昧に終始した結論に落ち着いてしまう。

 警察関係者は、時効が成立する前になんらかの手を打つものと思われるが、目撃者と情報、犯行に使われた凶器が現存しているのにも関わらず、被疑者すら割り出せていないことを考慮すれば、狐につままれた気分にもなるだろう。理屈の上で子供だましの怪文に意味などないのは明白であり、何故、法務大臣宛てに怪文書が郵送されたのか、この意図を解き明かすことが、事件の最大の手掛かりになるかもしれない。愉快犯の仕業であることも否定できないが、箝口令が敷かれた手前、この問題は棚上げしたままでもいいだろう。

 唯一、引っ掛かるのが、主犯格の女が犯行に使用したと思われる鋸を、新見に手渡したと云う事実だ。目撃者を生かしておくだけにとどまらず、凶器を目撃者に預ける行為が、どれだけ不合理かは語るまでもない。

 「少し気になることがあるのだが? いまでも、その大臣様は存命なのか?」

 「私が1+1=3って答えてしまうような人物に見えますか? 胸に刮目するのではなく、私の言葉に傾注していただきたいのですが」

 「先の質問でお前の心意は汲み取っているさ。ただ、少ない情報からでも、この事件の重要性が垣間見える。猟奇殺人事件と怪文書の因果関係に止まらず、大臣様になにか事が無ければ、綿密な捜査が数年に亘って継続されていること自体、腑に落ちないだろう。事件は日夜に増加していくだろうし、捜査員の手が空いているならまだしも、そうそう事が理想的に運ぶわけではない。少ない人員を割いてでも、捜査を継続する理由があるなら、殺人と怪文書が同一人物の手で行われたことを裏付ける証拠や情報が……そうか……被疑者が割り出せていないわけではないんだな……!」

 川端は音を立てず両手を小さく打ち合わせて、私に称賛の拍手を送ってよこした。

 「X+2=3ですね。簡単な式ですが、気づかないことが多々あります。X=大臣様の狂死です。怪文書が送られてから数日後、ある稀覯本を片手に森の奥地で変死体となって発見されました。顔や体には無数のひっかき傷があり、爪からは自身の皮膚が付着していることが判明、発狂の末の自傷が血圧低下を招き、循環障害による外傷性ショック死症状であると報道されています」

 「どこで拾った?」

 私が厳しい表情で問い質すと、川端は落ち着いた表情で頭を振るった。

 「新聞は中津刑事から。拾い食いはルンペンの趣味です」

 被疑者の目星がついているなら、何故逮捕に至らないのか、つまらない詮索をするつもりはない。逮捕まで漕ぎつける物的証拠はただひとつ、新見が手渡された犯行に使用されたと思しき鋸である。指紋、亦は製造元から販売元まで徹底的に調査、犯行直前に購入したと思われる人物を洗い出せば、主要な人間をピックアップできるはずだ。

 警察だって無能ではない。私のようなど素人が考え付く程度のことは手を回しているであろうし、それでは不十分であるいくつかの要素が混在していると見て良いだろう。

 情報から大臣の死が決定したことにより、私の愚にもつかない推論は一応の決着をみた。これは愉快犯の仕業ではなく、明確な意図を持った者が、大臣の元へ封書を送り付け、なんらかの薬物か医学の力でもって大臣を発狂させた後、自決の道へ誘ったのだ。 

 おそらく煤嶽村で起きた猟奇殺人事件の犯人一味が、自らの犯行である旨を怪文書を使って示唆することで、公にすることが躊躇われるであろう思想を流布する手掛かりとしたのだろう。つまらない結論だが、いつだって素人は推理物の探偵のようにはいかないものだ。所詮、現実なんてこんな程度である。

 「一応問うが、割り出せた被疑者のことは聞いても構わないものなのか? お前を通風孔にした中津刑事とやらは掴んでいるのだろうが」

 「国家公務員採用試験、総合職試験の方ですが、合格してキャリア組として採用された方ですからね。現在の階級は警視長に当たります。警視庁で部長を務められているので、情報は随時耳にしておりますよ。ああ……そうでした。刑事は管理職ではない私服警察官のことを指すのでしたね。捜査部長と訂正しておきます」

 「へぇ……人間性は兎も角、有能な人材なんだな」

 それほど私の言葉を深く吟味する様子もなく、川端は肩をすくめてから、いま一度私の方へ身を乗り出してきた。憑き物は落ちた表情だったが、譴責されるべき人物を称えてしまって手前、私の方としては体裁良くとはいかなかった。

 その心の間隙を縫うように、重ねられた掌の温もりは必要以上に熱量を帯びて感じられた。皮膚を透かし、体内に浸食してくる厳粛な儀式に似た宣告は、ただ彼女の思いを汲んで容認することを強く要望するものであった。

 「被疑者を知れば、物の見方が変わる恐れがありますよ」

 至近距離まで迫っていたので、川端の息遣いが分かる。好奇心と憂いが綯交ぜになった複雑な図形を模したものが、川端の瞳の奥底から窺えた。抗することもできず、私はただ直視することしかできなかった。なにか名状し難い生き物が蠢く様を見てしまったかのようだ。

 心臓が不規則な不協和音を奏でる。耳障りな鼓動は、眼前の女が醜形な肉塊をした冒涜的なナニカだと、奇妙な信号を送っている。何故、そこまでこの女を危険視しているのか、自身でも判断がつかない。

 あの濁ったような焦点定まらない瞳の所為なのか。はたまた重ねられた手の温もりが、常人を凌駕するほどの熱を発しているからなのだろうか。

 私は冷静にならねばならなかった。世界に引かれた境界線の向こう側を覗くことは躊躇われるのだ。この先も、この世界で生き続けなければいけないのであれば、跪いてでも許しを請い、私の身の安全を確保しなければならない。それほどまでに、私は世界と断絶されているのだと、幼少期から強く認識していたのである。

 頭の中を恐怖が圧迫してくる。空間に幾何学的な図形が幾つも顕在したかと思えば、一つ一つの三角形やら四角形やらが、拉げてアメーバのような認識に窮する形状に変容して、凡そ図形らしからぬ液状化した粘液物質に様変わりした。最早、幻覚であることを疑う気勢すら削がれた。やがて、粘液物質は蚯蚓が這い回るかのように細長い棒状へと変化して、脇からは触手のような更に細長い糸を垂らした真黒な浅ましい汚物が姿を現した。

 あゝ……あゝ……醜い……とても、とても醜い……。

 川端が重ねてくる手の甲からは、黒煙に似た瘴気が噴霧された。車内は瞬く間に瘴気が占拠して、著しく視界を遮った。私の恐怖は愈々臨界点に達し、呻きとも悲鳴とも似つかないくぐもった音が、声帯を微かに振動させたに過ぎなかった。視界は黒い瘴気で奪われるほどなのに、乗客の一人として気にする様子が見られない。もしや、私だけがこの切迫した事態に陥っているということなのか。いくらなんでも不可解であり、怖気立つほどの川端の異様さが、迂闊に身動ぎすることすら許さなかった。

 額から、背中から、私の発汗量は凄まじく、展開される非現実的な状況に、思考が只々現実を、これは一つの虚構世界なのだと信じ込もうと奮闘する。触手が蜷局を巻く川端の右手が私の頬を辷る時分、心音より大きく頭の中で擂り半鐘が、警笛の音のように注意を促した。今度こそ悲鳴が対象の鼓膜を振動させようかと云う刹那、私の震える唇はその対象者の唇で、南京錠を用いてバンダリズムを咎めるかのように、しっかりと栓をされてしまった。

 私の眼孔から眼球がいつ飛び出ても不思議ではなかっただろう。それほどまでに見開かれた私の目は、恐怖によって拡張していた。

 状況が呑み込めない侭に、口腔内で激しく展開される蹂躙は、舌を絡め取られ、歯茎を撫でられて、細胞のひとつひとつにまで浸透してくるかのような淫靡な唾液の融合から、私の抵抗むなしく、混ざり合った唾液は嚥下された後、意識が静寂の底に沈んでいく。

 甘美な痺れが私の脳を麻痺させて、脊髄を快感のパルスが急加速で走り抜け、体中を悪寒が支配する。恐怖は薄れて比較的穏やかな波がきたかと思われれば、間髪入れずに重厚な背徳の臭味が、鼻腔の奥底から痛覚を伴って知覚された。

 再度、遅れて川端の吐き出された言葉が、まるで呪詛のように痺れた脳内に共鳴する。

 ――被疑者を知れば、物の見方が変わる恐れがありますよ。

 駄目だ、川端から言質を取ってしまえば、私自身が頸木を生む素因を呼び込んでしまう。抵抗しなければ、底を目視できない深淵まで落ちていくことになる。耳を塞げ、心を閉ざせ。なすがままに享受することは、絶望を意味するのだ。

 私は精一杯の力を振り絞って、私との接吻にある種の恍惚な愉悦に堕ちている川端の両肩をつかんで引き離した。物足りなさが、川端の両眼から窺い知れる。耽溺しきった表情は、だらしなく口端から涎を滴らせ、荒廃と堕落を一身に纏った痴女そのものだった。

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懊悩者 @ookazujp2007

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