ねえ、ちゅうしたいな。

つづれ しういち

ねえ、ちゅうしたいな。

 このいらいらが、いつから積み重なり始めたのか、もうよく分からない。


 でも確かに、俺はずっといらいらしてる。

 いや、「いらいら」って言うと、ちょっと違うのかな。

 「むずむず」って言ったほうが、しっくり来るのかも。


 高校生のとき、なんだか本当に色々あって、俺はあいつに物凄く世話になって、それで結局、俺たちは一応「お付き合い」というのを始めた。

 「世話になった」っていうのも、ほんとうに冗談ごとでなく、文字通り「命懸けで」あいつは俺を助けてくれた。だから俺は、以来ずっと、あいつに頭が上がらない。


 ともかくも。

 くそ真面目なあいつは、最初の段階から俺の父さんにその許しを得るために頭を下げて、父さんはびっくりしながらも、一応オーケーしてくれた。

 ただし、男親として自分の息子が他家の男子とそういう仲になることに非常に微妙な思いをもったらしい俺の親父が、あいつに「大人になるまでは清い関係で」と釘を刺してしまったために、今、この段階にいたるまで、俺たちは本当に「清い」関係のままでいる。


 具体的には、もちろん人目のない所でだけど、手をつないだりとか、抱きしめてくれたりとか、……キ、キキキスしてくれたりとか、まあ、その程度の関係だということだ。


 本当に色々あった、あの高校二年の夏。

 あれから、もう二年が過ぎた。

 五月生まれのあいつはもう十九歳になり、俺はまだ十八だけど、それでも二人とも、大学の一年生だ。こうやって無事に大学生になれたこと自体、あいつがいなかったら無理だったかもしれないことを思うと、本当に信じられない気持ちになる。だから、そのことは心から感謝してるし、やっぱり俺は、あいつに頭が上がらない。


 いや、だけど。


(そうだよ。それとこれとは別問題だ。)


 高校のときは同じクラスで、ほぼ毎日顔を合わせていたのが、こうして別々の大学に行くことになってからは、めっきりその頻度が減ってしまった。

 お互いの家そのものも、歩いてほんの十五分ぐらいだし、まだ小学生の弟がいて、母さんが他界してる俺の家のことを心配して、あいつはあの頃からよくうちにはやってきていた。

 高校二年の時の、あのとんでもない事件のために、俺の勉強が物凄く遅れてしまったことも理由のひとつだ。あいつはずっと、俺に高校の勉強の内容から、果ては家事の効率的なやり方なんかまで、こと細かに色々と指南してくれたのである。

 だけど、それは当然、俺が大学に入るまでのことだった。


「兄ちゃん、ただいま! 今日のおやつ、なに?」

 小学校から帰ってきた弟の洋介が、リビングのテーブルでノートパソコンと睨めっこしていた俺に声を掛けてきた。

「おかえり。冷蔵庫にプリン、冷やしてあるぞ〜」

「わ〜い! プリンだ!」

 それを聞いた途端、洋介はにこにこして、ランドセルを自分の部屋に置きに行った。


 洋介は、いま小学校の三年生だ。

 プールの授業が始まって、随分と日焼けしたようだ。

 あいつがやってる剣道を同じ道場で一緒に教えてもらうようになってから、体つきも話し方も、最近ずいぶんとしっかりしてきたように思う。

 近頃ではその道場で、あいつ自身が子供たちに剣道を教える場面も増えてきているらしいので、あいつは文字通り、洋介にとっての「剣の師」にもなりつつあるようだ。

 母親を早くに亡くして、色々心配なこともあったけど、あいつがいてくれるお陰で、俺たちはどうにかこうにかやっているのだと言えなくもない。


 いや、だから。


(それとこれとは、別問題なんだって。)


 むうう、とちょっと頬を膨らませていたら、プリンを食べていた洋介が変な顔をしてこちらを見ていた。

「……なに? 兄ちゃん、どうしたの……?」

「えっ? あ、い、いや。何でも、ないんだ……」

 俺は慌てて、自分の顔を取り繕う。

 冷めてしまったコーヒーのカップを手にして立ち上がり、キッチンの方へと回った。


 まさかこんな事、小学生の弟に言えないよな。


 「会いたいな」とか、

 「触れたいな」、とか。


 あと、それから――


 ちゅ、ちゅちゅ……、

 「ちゅうしたいな」、とか――。


 あいつは、そんなこと思わないのかな。

 だっていつも、そう思ってるの俺ばっかりみたいだし。

 あいつの方から、求めて来ることなんてまったくないし。


 自制心の鬼みたいなやつだから、ただ我慢してるだけなのかな。

 いや、でもなあ……。


(っていうか――)


 別に、わざわざ男なんかと、そんな事したいって思わないだけ、……なのかも。


 俺、高校生のときよりちょっと、背だって伸びちゃったし。

 髪型なんかもちょっと変えて、「あら、大人っぽくなったわね」なんて、近所の奥さんに言われたりするもんな。まあそれでも、一般的な大学生よりか、ずっと子供っぽいってあいつは思ってるみたいだけど。


 そういえばあいつ、自分の大学のこととかって、あんまり俺に話さないけど。

 やっぱり今でも、女の子にもててるんだろうか。

 あれだけ強面こわもてで寡黙なくせに、変に女の子にはもてたりするから、俺はもう気が気じゃない。あんな朴念仁のくせに、なんで女の子にもてるんだよ。

 大学生の女の子たちは、お洒落や化粧が解禁になったことと、バイトで使えるお金が増えたことで、みんななんだか、急に大人びて綺麗になったみたいに思える。学食なんかで見かける女の子のグループは、そこだけまるで、ほんとに花畑になったみたいだ。


 あいつの学校でも、きっとそうに違いない。

 もしかしたら俺が知らないだけで、ああいう子たちから告白とか……、「だれか好きな人いるんですか?」とか……、大学で聞かれたりしてるんじゃ……?


 え、俺?

 いや、俺はまあ、「内藤くんって、なんだか弟みたいよね〜」って、普通にそういう女子のグループに引き入れられちゃったりするぐらいのもんだ。「なんか、可愛い〜!」って、あんまり男に、そういうこと言うなよなと思う。

 嫌われてるとは思わないけど、だからって恋愛対象にされてるかっていうと……うん、まったく違うよな。あれはペットとか、マスコットとかと同列の扱いだ。

 佐竹とはそんなの、全然、違うに決まってる。


 うう。

 なんか、目の前がぼやけて霞んできちゃったぞ。

 洋介がそうっとこっちを見てるじゃないか。

 駄目だ! 俺。

 しっかりしろ、兄貴だろ。


 と、キッチンのカウンターに置いていたスマホがじりじり震えだして、俺はそれを手に取った。画面を見て、その相手はすぐに分かる。

 どきんと、今でも変わらず胸が高鳴る。

 こんなのもきっと、俺だけなんだろうなと思うと苦しくもなる。


『俺だ。帰り、そっちに寄っても構わないか』


 電話ごしでも相変わらず、低くていい声が耳朶を打つ。


「あ、うん……。何時ごろ? ああ、うん……」

 話を終わって電話を切ると、洋介がなんとなく、嬉しそうな目でこっちを見ているのと目が合った。

「ん? な、なに……? 洋介」

「ううん。宿題、してこよーっと」

 にこにこしたまま、洋介は立ち上がって、プリンの容器をキッチンのシンクに置くと、やっぱり嬉しそうに自分の部屋に戻って行った。


(……いま、鏡、見らんないな。)


 ちょっと口許をおさえるようにして、そう思う。

 だって今の俺、きっとちょっとにやけてる。


 でもってきっと、かなり赤くなってるはずだから。



●○●



 そこから一時間半ほどして、佐竹はうちにやってきた。


 長身で精悍で、姿勢のいいその姿は、二年前からずっと変わらない。

 大学からそのまま来たので、ショルダーバッグを肩に掛けている。高校の制服を着なくなったらもう、こいつはどこからどう見ても、立派な成人男子にしか見えなくなってしまった。

 今日はくすんだブルーのサマーニットにスラックス姿だ。まあもともと、こいつが俺みたいな、Tシャツとジーンズなんて格好をすることはまずない。


「お邪魔します」

「あ、いらっしゃい……」


 玄関先で、なんとなく他人行儀な挨拶をする。

 こいつが高校のときみたいに頻繁にうちに来ないのは、俺が無事に大学に合格して、そうする理由が無くなったことが大きいんだろう。でも前は、俺もこんな風にこいつを迎えてなかったような気もする。


(っていうか俺、どうやって迎えてたんだっけ。)


 思い出そうとしても、どうもこのところ、うまく行かない。

 会える頻度が減ったせいか、なんだか前より、こいつに会うのに緊張するようになってる気がする。どうにも釈然としないけど、それが事実なんだから仕方がない。


「……どうした」

 ふとそう聞かれて目を上げたら、ちょっと怪訝な目の色になったあいつが、じっとこちらを見下ろしていた。

 俺の背が少し高くなったとはいえ、こいつも同様に伸びてしまったから、お互いの身長差は高校の頃とあまり変わらないままだ。


 だから、ちゅ……、ちゅうする時に、俺がちょっとつま先立ちするのも変わらない。


「顔が赤いぞ」

「や、えと……、なんでも、ないよ……」

 そうは言ってみたけど、あいつが眉間に少し寄せた皺の形は変わらなかった。

 佐竹は持っていた紙袋をこちらへ差し出す。

「あとで洋介と食べてくれ」

「あ、……うん、ありがと……」

 見れば、その中味は駅前のケーキ屋さんで夏だけやってる冷菓だった。しょっちゅううちに来てるんだから、もう持ってこなくていいって言ってるのに、こいつは律儀に、毎回なにかしら手土産を携えてくる。

 もしかしたらそんな事もあって、うちに来る回数を減らしてるのかな。

 だったらそれこそ、手ぶらでいいのに。

 洋介は毎回素直に喜んでるし、俺も嬉しいけど、あまり気を使われるのって、ちょっとさびしい。

 だってなんだか、いつまでたっても、お互いの距離が縮まってないような気がしちゃうから。


 でも、せっかく頂いたんだからと、振り返って、部屋にいる洋介を呼ぼうとしたら、佐竹はバッグを床へ置いて、ついとこちらへ近づいて来た。

「え、……なに……」

 狭い廊下で、とん、と自分の顔の横の壁に腕をつかれる。俺の後ろはすぐ壁だ。


(あ。これ……)


 すごい既視感を覚えて、ある種、懐かしい気持ちになる。


(なんか、あったな……。こういうの)


 そういえば、されたことあるんだったな。

 こいつとそっくりの顔をした、だけどもっと髪の長い、異世界の王様に。


 そんなことを思ってぼんやりしていたら、目の前のあいつがさらに一段、剣呑な顔になった。

「動じないのか。珍しいな」

「え? あ、いや……」

 そうじゃなくって、ただ呆然としてただけだよ。

 ちょっと信じられないことが起こると、そんなすぐ反応とか、できないもんでしょ。


(っていうか。顔、近いって――)


 近くで見ても、やっぱりいい男だなあとか、睫毛長いなあとか、どうでもいいことばかり、ぐるぐる考えてしまう。

 佐竹の唇が、すぐそばにある。

 いつもきりっと引き結ばれてて、泣き言なんて絶対に言わない唇。

 それがいつもそっとほどかれるのは、俺とこうする時だけだ。


(ああ、……したいな。)


 そう思うけど、それをじっと見ているだけで、俺はなんにも言わなかった。

 だっていっつも、ずるいもんな。

 俺が根負けして、そう言い出すまで、こいつ、ずっと黙ってるもん。


 いつも、いつもさ。

 そんなのやっぱり……ずるいじゃん。


 佐竹の目が、じっと俺の口許を見てる。

 その手が、俺の手から紙袋を静かに奪った。

 もう片方の手が自分の顎に掛かったのを感じて、目を閉じる。


「……やだ」

 僅かに顔をそらして、そこから逃げる。


 なんにも言わないで、しようとするなよ。


 その手が、ふっと顎から離れたのを感じて、目を開けた。

「したいならしたいって……言えよ、バカ」

 語尾が震えて、じわっと目尻が熱くなった。


 言ってやったぞ。

 どうだ、こんちくしょー。

 言えるもんなら、言ってみやがれ。


「…………」


 佐竹はちょっと黙っていたが、

 やがて俺の頭を軽く抱き寄せるようにして、

 耳もとにそっと囁いた。



「……したい」



 「お付き合い」を始めて、二年目。

 ようやく、俺の欲しい言葉が、俺の耳もとに降りてきた。




                             完

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ねえ、ちゅうしたいな。 つづれ しういち @marumariko508312

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