第7話

 玄関扉の開く音がして、小さく「ただいま」という声も聞こえた。だけど、いくら待っても陽太とモロゾフはリビングに上がってこなかった。彩音は使い終わった調理器具を洗っていたが、嫌な予感がして水道を止めると両手を拭いて玄関に向かった。

「やぁ、美味しそうなにおいだね、彩音」

 陽太は声色も表情も柔和だった。食べ物に関してそう思えるだけでも、一時期に比べれば症状は改善に向かっていると言える。それは良しとしよう。そうでなければやってられない。自分の努力が少しでも実を結んでいるという実感がなければ、彩音はこの耐え忍ぶ日々に、明日を迎える自信を失ってしまう。

 だが今、目の前にある問題は陽太の食欲のことではない。彩音はこめかみに痛みを感じて、人差し指で押さえた。

「あの、どうして、そんなことになるの?」

 陽太はただモロゾフと散歩に出かけただけのはずだ。海へレジャーに行ったわけでもないし、激流の下るジャングルへ冒険に出たわけでもない。本日の天気は雲一つない晴天で、間もなく日が沈めば綺麗な星が見えるだろう。そんな散歩日和の中、何が起きれば頭のてっぺんから足先まで、二匹そろって全身ずぶ濡れなってしまうというのだろう。

「どうしてだろう。ごめんね彩音」

陽太は頭を掻いた。二匹ともボタボタと水滴を垂らしている。妙な泥臭さもあった。彩音はドブにでも落ちたかと考えた。しかし、この近所には細い溝ならあるけれど、全身浸かってしまうような場所は思い当たらなかった。

 そもそもどちらか一方だけならばともかく、二匹揃っての有様だ。リードは長さがあるのだから、片方が水溜めに落っこちたとしても一方は免れて良いはずだ。いくら陽太でも自分が落ちた後にモロゾフを道連れにはしないだろう。ということは、モロゾフがどこかに落っこちて、それを助けるために陽太が飛び込んだと考えるべきだろうか。否、シャンプーも嫌いなモロゾフが、自ら水の中に飛び込むとは思えない。

「彩音、お風呂に入って、ごはんを食べるよ。今日は煮物だね。楽しみ」

 陽太はひょうひょうと言ってのけた。それで済む話ではないだろう。泥臭い服を洗濯するのも、風呂場までの廊下を拭くのも彩音である。説明もなく終わらせる気かと、彩音の神経がプチリと切れそうになった。その寸前、自分の湿った体毛が気持ち悪かったのだろう、モロゾフが全身を豪快にブルブルと震わせた。泥水が玄関中に飛び散った。

いくら愛しのモロゾフと言えど、これには彩音も鬼の形相を隠しきれない。

「外でやれ! 外でやってから入って来い!」

 陽太へ向けられていたはずの怒りが自分に飛び火して、モロゾフは驚いて両耳を倒した。

「モロ、ちゃんと彩音に謝って、一緒にお風呂入ろう。それから、ごはんだ」

 二匹は再度、彩音にごめんなさいと頭を下げた。彩音はくらくらと軽い目眩を覚えた。もういいわと声にせず、片手をひらつかせて伝えると、二匹はペタペタと靴下と肉球の泥の足跡をしっかり廊下に残し、風呂場へと姿を消した。頭に血が上るのを抑えるのに、何度も深呼吸を繰り返す必要があった。雑巾を取ってきて二匹の足跡を順番に拭いていく。彩音は途中泣き出したくなって、奥歯を噛みしめながら心底ここから逃げたいと思った。

 風呂場から、シャンプーの嫌いなモロゾフの鳴き声がキャンキャン聞こえていた。

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ワタシプレゼンツ 稲美 圭 @tabokichi

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