第6話

 陽太の朝は早い。午前四時には起床して五時にはマンションを出る。彩音は九時出勤だ。それでも朝食は陽太よりも早く起きて作っていた。大変だけど、玄関から陽太の背中を見送るのが小さな楽しみだった。その日も彩音の作った朝食をもりもり食べた陽太を、笑顔で「いってらっしゃい」と送り出す。

 いつもの朝だった。

 この後、彩音にはお楽しみがもうひとつ待っている。ホームでタイミングが合えば「いってらっしゃい」と送り出した駅員の陽太に「いってきます」と声をかけることができる。陽太が照れくさそうに制帽のつばを少し深くして「いってらっしゃい」と笑うのが好きだった。

 しかし、その日は陽太の立っていた場所に多くの客が並んでいた。さすがに業務の邪魔はできない。彩音は少し離れた位置から仕事をする陽太の姿を見守って、時間通りに滑り込んできたいつもの電車に乗車した。閉まった扉の窓の向こうに陽太の姿を探してみたけれど、乗客の人混みにまみれて見つけることができなかった。

 そのときに一瞬の胸騒ぎが、確かにあった。

 彩音はドアの窓側から車内側に向き直り、小さく溜息をついた。車両はいつもどおりの満員御礼。幸い彩音が降りるのはほんの三駅先なので、立っていることに支障はない。ドア横の座席を支える銀色の鉄棒に寄りかかった。学生じゃないんだから、恋にあやふやな心配なんていちいち持ち込んでいたら身が持たない。

 胸騒ぎは、気のせい。

 今日の陽太への「いってきます」は心の中で言おうと、彩音は静かに目を閉じた。

 それからほんの数分後のことだ。陽太はホームの先端に立っていた。利用客の様子を一番見通せる位置だ。先頭車両の停車場所、その少し後方に見慣れた制服の女子高生が立っていた。行儀よく、きちんと「黄色い線の内側」にいて、手帳のようなものを開いていた。

 ゆっくりと、彩音が乗った電車と同じ型の普通電車がホームに入ってきた。こちらに近づくにつれ、定位置を目指しながら見事なブレーキングで車両は減速していく。このプロの業は何度見ても惚れ惚れする。異常なし。

 後は完全に停車するのを待って、安全に客を乗降させるだけだった。ふらりと女子高生が前に出た。まるで信号が青に変わって、横断歩道を渡るみたいに自然な歩みだった。女子高生は線路の上に落ちた。いや、落ちたのではなく彼女は自らの意志で降りた。上品に、静かに降りた。だから、彼女の体重が線路の砂利を踏みしめても、その音はほとんど聞こえなかった。陽太は叫んだ。だが、自分の声もよく聞こえなかった。 車両のブレーキ音もけたたましく鳴っていただろう。ホームにも数え切れない人がいて、誰かが悲鳴をあげていた。しかし、陽太の耳に一切の音は掻き消されて届かなかった。唯一鼓膜を揺らしたのは次の瞬間、鉄の車輪がゆっくりと女子高生の骨と肉を砕く音だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る