『笑顔』(2007年01月28日)

矢口晃

第1話

 よく晴れた三月の土曜の午後、私は交際を始めてもうすぐ十か月になろうとする悠介に電話で呼び出されて、二人が待ち合わせでよく使う行きつけの喫茶店の隅のソファに座っていた。いつも待ち合わせには遅刻をする悠介は、この日もやっぱり時間通りには来なかった。でもまあ仕方ない。私はテーブルに肩肘をついて、一人で黙って注文したアイスコーヒーを飲んでいた。

 約束の時間から二十分も遅れて、悠介が姿を見せた。

「待った?」

「待ったわよ」

 いつも通りの挨拶を交わしながら、悠介は私の前の木の椅子に腰を下ろした。

「もうすぐ桜が咲くかも知れないね」

 そんなことを言いながら、私は悠介が注文したコーヒーが運ばれてくるのを待った。暑がりの悠介はまだ春だと言うのにTシャツの上に長袖を一枚羽織っただけの装いだった。

「寒くないの」

「寒くない」

 そっけなく答える悠介がいとおしくて、私はくすくすと笑った。悠介はどちらかと言えば明るさをあまり外には出さない方だけれど、この日はいつもにも増して浮かない様子なのを私は不思議に思った。

 アイスコーヒーが運ばれてきてからも、悠介はなかなか私と会話をしようとはしなかった。私が何か話しかけてもただ「うん」とか「そうだね」とかいい加減な返事をするだけだった。暗い視線でどこかをぼけっと眺めるようにして、時々私と目が合うと気まずそうに視線をすぐにガラス越しに見える往来の景色に移したりした。

 そうしてアイスコーヒーをいつものようにブラックのまま半分くらい飲み干した後、ようやく自分から私に話しかけてきた。でもその表情はやっぱりいつもより余計に寂しそうに私には見えた。

「実は、今日は話しがあって早苗に来てもらったんだ」

「何、話って?」

 自分の名前を呼んでもらえただけで、私はとても嬉しい気持ちになった。悠介に少しでも元気を出してもらいたくて、私は出きるだけ明るく微笑みながら彼の言葉の続きを待った。悠介はやたらと喉が渇くらしく、また一口コーヒーを飲んでから言った。

「俺と、別れて欲しいんだ」

「え?」

 悠介の言葉がうまく理解できなくて、私は凍った笑顔を顔面に貼り付けたまま、身動きもできず固まってしまった。悠介はテーブルの上のコーヒーのグラスを両方の手の平で包み込むように持ちながら、じっと私の目を見つめてもう一度言った。

「ごめん。俺と別れてくれ」

 昨日まで電話でも外でも自然に話しかけてくれていた悠介が今日になって突然何を言い出したのか、私は理解するまでに相当長い時間を必要とした。混乱した私の脳は、ちょうど「このプログラムは応答していません」というメッセージが画面に表示されたきり動かなくなってしまったパソコンのように、そのあと何も考えることができなくなってしまった。

 私が悠介と知り合ったのは、ちょうど一年前の春のことだった。大学の史学部の二年生になった私が、調べ物のために研究室に一人で行った時のことだった。その時研究室では、十人くらいの学生が開いた席に離れ離れに座りながら熱心に字引を引いていたりしていた。私は他の人たちの邪魔にならないように、なるべく静かに壁一面の書棚から目的の本を引き抜いていた。

 その中の一冊で、中国の春秋時代について書かれた本が、本棚の上のほうにあった。その本が読みたかった私は目一杯背伸びをして、むりやりその薄い一冊を抜き取ろうとした。そしてどうにかその本に指が掛かり、抜き出そうとした瞬間、余計な力が加わりその本の左右にあった数冊の本がばたばたと音を立てて私の頭の上に降って来てしまった。「危ない」とか「痛い」よりも先に「恥ずかしい」という気持ちがまず込み上げて来た私は、突然の騒ぎに気を散らした学生達がじろじろ冷たい目つきで見つめる中、

「すみません」

 とそこにいた全員に向かって小声に謝りながら、床に散らばった本を本棚に戻し始めた。

 そんな泣きたいほど困った状況の時に、

「どうしたんですか?」

 と物音を聞きつけてわざわざ別の部屋から様子を見に来てくれた一人の男性がいた。その人は私が言葉で説明する前から一目見てその状況を把握してくれたらしく、私と一緒に黙ってせっせと本を元通りに並べてくれた。

「ありがとうございます」

 私が周りの人たちに気を使いながら小声でそうお礼を言うと、

「いいんですよ」

 とその人も一言小声で返してくれ、そのまままたもといた部屋の中へ帰って行ってしまった。まだその時は名前も知らなかったが、私はその人に恋をした。

 それから二、三日した別の日、また研究室に用があって史学部の棟の廊下を歩いていた時、私はまた偶然その人の姿を見かけた。その人は右手に白い紙コップを持ちながら、大学院生用の研究室に入っていこうとしているところだった。

 私は心臓が縮みあがるほど全身を緊張させながら、しかし一言お礼を言いたくて、思い切って声をかけた。

「あ、あの。すみません」

 急に呼び止めれらて振り返ったその人は、私の顔を見ると思い出したようににこっと笑顔を作って、

「ああ、この間の」

 と言葉を返してくれた。私はその時の数分の立ち話の中で、その人の鈴木悠介という名前と、その人が自分と同じ史学部の、大学院生であるということを知った。

 私はそれから苦しい何日かを過ごさなければならなかった。用も無いのに史学部棟の廊下を行ったり来たりして、その人の姿を探したりした。運良く廊下ですれ違うと、さも偶然通りかかったらしく装って、精一杯の笑顔で挨拶したりした。彼も私を見るたびに必ず微笑んで挨拶を返してくれた。

 あれほど人を好きになったのは、生まれて初めてかもしれなかった。どうしてもあの人と付き合いたい。心からそう願った私は、自分から積極的に彼にアプローチを続けた。自分から携帯電話の番号を渡した時は緊張で手がぶるぶる震えた。彼が週末予定が無いと聞くと、すかさず一緒に買い物に付き合ってくれるようにせがんだりした。本来物怖じしやすい性格の私に、こんな図々しい一面があったことを発見し、私自身驚いたりした。しかし彼はそんな私を妹のように可愛がってくれ、週末も誘った時には大抵嫌がらずに会ってくれた。

 その時彼に決まった交際相手がいなかったこともあり、私の執念は彼と出会って二か月目にようやく実を結ぶことができた。私は、彼の恋人になったのである。

 付き合い始めてからの私は、何かと彼に尽くすように心がけた。彼が好きだと言う料理は、何種類もレシピを集めて美味しくできるまで研究を続けたし、髪型も彼が好きな形になるように気を配った。何か買って来いと言われれば喜んで買いに出掛けたし、逆に彼が研究で忙しい日には自分から連絡するのも控えるようにした。

 気が付くと彼と私は下の名前で呼び合う仲となり、去年十二月の私の誕生日には、二人で一泊の温泉旅行にも行くことができた。私は悠介といるだけで幸せでたまらなかったし、悠介もきっとそう思ってくれているに違いないと思っていた。私はどんなに悲しいことがあっても、悠介に会う時にはいつも明るい笑顔を絶やさないことを忘れなかった。私のせいで、悠介に悲しい思いや不快な思いをさせるのだけは耐えられなかった。

 悠介も特に私に不満を感じていそうな素振りは、これまで一度も見せなかった。学内ではあまり笑わない彼も、私と会う時はいつも楽しそうにしていた。

 それが今日になって、突然別れを切り出された。私は悲しくも悔しくもなく、ただ訳が分からず呆然としていたのだった。

 長い沈黙の後、私はやっとの思いで短い言葉を声に出して言った。

「どうしてなの?」

 悠介はあまり考えることもなく、はっきりと私に答えて言った。

「お前の、笑顔が嫌なんだよ」

「――笑顔が?」

「そう。笑顔が」

 もうここまで言ってしまった以上、悠介は腹を括って思っていることを全部吐き出してしまうつもりらしかった。悠介の冷たい視線が、突き放すように私を見つめていた。

 私はショックのどん底に突き落とされながら、しかしまだ顔面には引きつった笑顔を残していることに気が付いていなかった。それに気付かせてくれたのは、悠介の次の言葉だった。

「今だって、そうやって笑ってるだろう? 俺が何を言っても、お前はいつもにこにこ笑っている。お前には不安とか悩みとかないのか?」

 ――あるよ。あるけど、悠介の前では一生懸命隠しているだけだ。悠介を幸せにしたいから。

 そんな私の胸の内の声は当然悠介には聞こえるはずはなかった。今でも十分傷ついていた私の魂は、なお悠介によって鉄槌を打ち付けられた。

「はっきり言ってさ、重いんだよ。お前が。いつも笑っているお前を見ているのが、正直つらいんだよ」

 ――お願い。もうやめて。お願い。

「なあ? どうして今だって、そうやって平気で笑っていられるんだよ? 俺にはわからないよ。お前のことが」

 私は溢れそうになる涙を懸命に堪えながら、大好きな悠介の顔をじっと見つめていた。

 ――笑う以外に、いったいどうしたらいいって言うのよ?

 心の中で、必死にそう叫びながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『笑顔』(2007年01月28日) 矢口晃 @yaguti

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る