第二章4

 それから俺は、隙を見付けてはリナリスに話しかけるようにした。


「おはよう、リナリス」


 起床後すぐに倉庫を出れば、リナリスが外に出て行くところに出くわし、挨拶してみた。何気なさを装ってはみたものの、俺の声は強張っていたに違いない。


 リナリスは俺を無視して玄関から出て行き、立ち止まったまま右手を軽く挙げて立ち尽くす俺の隣をシノが素通りしていったが、こんなことでめげたりはしない。


「リナリス、調子はどうだ」


 彼女が一日中セレウスの近くにいるのは暁光だった。馬小屋を掃除する彼女に、俺はさりげなさを装いつつ声を掛ける。


 リナリスは俺を無視して小屋の掃き掃除に徹し、セレウスはつまらなそうに俺を一瞥し、哀れむように鼻で鳴いた。

 リナリスに無視されるのは慣れたが(慣れている場合ではない)、セレウスまでもが俺にそんな態度を取るのかと、さすがの俺でも心が折れ掛けた。


「今日は天気が良いからな。絶好の掃除日和だ」


 セレウスに近寄り、俺は彼女の態度など気にしないと笑顔を浮かべる。

 馬小屋の柱にもたれれば、セレウスが俺に唾を飛ばした。もちろん避ける余裕などなかった。


「リィトさん、顔がべたべたです! 早くお風呂に入らなきゃです!」


 顔中を馬の唾液まみれにして帰宅した俺を、ともすれば俺が驚くほどに慌てて出迎えるミュリア。

 顔を洗えば済むのに、大慌てで風呂の準備を始めるミュリヤを、俺は唾液まみれのまま制止した。


「どうだリナリス。ミュリヤの料理の腕前もなかなかのものになってきだろう」


 食卓はいつも静かだが、その日の夕食は、俺は積極的にリナリスへと話を振った。


「毎日野菜スープという献立もメイドが作ったなら文句を言うだろうが、ミュリヤのこれは可愛いものだ。まだ味が薄いことも、日々の成長記録を見ているようで悪くはない。リナリスもそう思うだろう」


 そうリナリスに問い掛けながら、俺は隣を見遣る。

 盛大に褒めたはずのミュリヤは、なぜかスプーンを手にしたまま固まっている。


「やっぱり献立は毎食変えないとダメですよね……」


 とか、


「で、でもでもリィトさんも褒めてくれているんですし……。褒めてる、のかなぁ……」


 などとぶつぶつ言っているが、気にすべきはこちらではない。


 ミュリヤから視線を移せば、リナリスは俺を射殺すように睨んでいる。

 そのままテーブルにスプーンを叩き付け、飲みかけのスープと囓りかけのマフィンを置いたままダイニングから出て行った。


 食器が壊れるほどの盛大な音が鳴ったというのに、ミュリヤは未だぶつくさと何事かを言って気付かないし、シノの反応など窺う必要もない。


 俺は余所行き用の笑顔を顔に貼り付けたまま、リナリスが去った方を見ているだけだった。


 食事も一段落し、落胆を隠さずに珈琲を啜れば、ミュリヤが自分のカップを片手に、俺の対面に座った。


「なんか今日のリィトさん、ちょっと変です……。リナリスに嫌われてるってわかってるのに、リィトさんらしくないですよ」


 心配するミュリヤの表情に、俺は自分が情けなくなる。

 視線を落とせば、ミュリヤのカップには牛乳ミルクたっぷりの珈琲が注がれている。


 ちゃんと料理を教えると決めた翌日、あの青年に機関保冷機アイスボックスを頼んだのだ。食材を保存できるようになれば彼女の料理の幅も格段に広がると思ったのだが、それが功を奏すのは未だ先だろう。


「俺は思うのだ。たとえ食事が美味かったとしても、食卓が楽しくなければ美味い食事は成り立たないと」


 俺の言葉に、ミュリヤは何も答えない。

 顔を上げれば、相変わらず心配そうな表情が俺を見つめている。彼女は、俺の言葉の続きを待っているようだった。


 少し自分語りをするのも、悪くはないと思った。


「俺は元来、食事が楽しいものだとは知らなかった。自宅では毎晩帰らず、珍しく帰っても夜遅くになる父上を待たず、俺と母上の二人、家政婦が見守る中で黙々と食事をした。食事は美味かったが、俺はそれが楽しいと思ったことなど一度もなかった。食卓とは食事を摂るための場で、会話が弾んだことなど無かった。母上は気に入らなかったのだ。俺が父上と同じ道を志していることがな」


 言いながら、ミュリヤの言葉を思い返す。

 彼女は言った。質素だが、両親と囲む食卓は楽しかったと。それは俺が感じていたものとは真逆のものだ。


「だが軍に入隊してからは、何かと構ってくれる先輩や同僚と、美味くもない食事を撮る機会に恵まれた。彼らのバカ騒ぎは苦手だったが、それでもその食卓は楽しいと感じたのだ。その時に知った。食の楽しさが料理の質に依存しないことを、な」


「リィトさんは、今日の夕ごはんを楽しくしてくれようとしたんですね」


「あぁ。だが、俺には到底無理だったようだ。こんなことでリナリスが俺に心を開いてくれるのなら、俺はとっくにリナリスと良好な関係を築けているのだろうしな」


「リナリスはああいう子ですから……。正直リィトさんのやり方は見ていてちょっと危なっかしくて、何より全然らしくないですし、私もびっくりしちゃいましたけど」


 そのダメ推しの言葉の数々に、俺はぐったりと項垂れる。


「でも、リィトさんの気持ちはきっとリナリスにも伝わっているはずですよ」


 それが何の慰めになる、と顔を上げれば、そこにはミュリヤの柔らかな笑顔がある。


「だって、こんな一生懸命のリィトさん、初めて見ました。来たばかりの頃はずっと不満そうな顔でしたし、無気力でしたし、何より一刻も早く帰りたいんだろうなぁって感じだったのが、やり方は正しいとは言えないですけど、こんなにもリナリスと仲良くなるために頑張ってるんですから」


「俺のやり方は、やはり間違っているのか……」


「そこは気にするところじゃないです。リィトさんは真面目な方ですから、変に盛り上がったりするのはあまり似合わないですけど……。でも、いつかリナリスもきっとわかってくれるはずです! あの子もそこまで分からず屋じゃないはずですから!」


 ――つくづく俺は、ミュリヤの励ましでやっていけているのだろう。


 笑顔で言い切るミュリヤの言葉を聞けば、それがどれだけ根拠に欠ける助言でも、そうであるかのように感じてくる。


「本当に、ミュリヤには感謝してもし尽くせないだろうな」


「そんなことないですよ。なんの助言も出来ていないですし……」


「いや、こうして励ましてくれるだけで、俺は心強いと感じている。それは十二分に感謝に値することだ」


「いやいや、そんなことないですって! 私は本当に何もしてないんですから!」


「いやいやいや」


「いやいやいやいや」


 などと押し問答を続けること五分。

 俺たちはようやく謙遜し合うのをやめ、しばし笑い合った。


 話が途切れたのもあり、俺は珈琲を飲み干し、少し散歩に出ることにした。


「日中はまだ暖かいですけどさすがに夜は冷えますので、体調を崩さないように、です!」


「軍人を舐めるなよ。心遣いには感謝するがな」


 そう言って外に出れば、庭の中心にはシノが立ってる。引きずりそうなワンピースの裾を、夜風に靡かせて。


 満点の星空の下、機関街灯に照らされる彼女の無表情は空へと向けられていた。


「どうした、シノ。この地で星空は珍しくもないだろう」


 声を掛ければ、無表情がこちらを向く

「星空は嫌いじゃない。見ていても飽きないから」


「……そうだな。こんな光景は、ヴァンケットでは絶対にお目に掛かれない」


 この廃墟の町フリューゲスも、いずれは機関化の影響で青空や星空を眺められなくなるだろう。


 三等区に乱立する工場は急激な勢いで数を増やし、ヴァンケット外にまで進出する勢いだ。煙突から吐き出される排煙はそう遠からずイルヴァイン全土を覆い、内陸国であるイルヴァインを囲う周辺国も影響を免れられなくなるだろう。


「なぁ、シノ。少し訊いても良いか」


「ん」


「リナリスの件だが、どうしたらあいつは俺に心を開いてくれると思う?」


 俺の質問に、シノは視線を夜空へと戻す。そうして「わからない」とだけ答え、口を閉ざす。


 それもそうだ。主体性の無い彼女に答えを求める俺は、よほどこの状況に苦悩しているらしい。俺はゆっくりと歩き出し、本来の目的である散歩に出ようとした。


「でも」と、そんな俺を遮るように、シノは珍しく口を開く。


「わたしは、リィトが来てから困惑している」


「それは、どういうことだ?」


 歩みを止め、シノへと問い掛ける。

 シノに困惑は似合わない。それに、彼女が困惑している様子など、俺は一度も目にしたことがない。


「リィトが来てから、ミュリヤとリナリスの意見が合わなくなった。わたしはどうしていいかわからない。二人が違うことを言うから、何をしたらいいかわからない」


 聞いてみれば納得する。それはあまりにもシノらしい着眼点だ。


「わたしは、わたしがどうしたらいいか、わからなくなりたくない。二人が元通りになってくれれば、それが一番いい。リィトならそうしてくれる?」


 見上げるシノの無表情に、俺は不意を突かれる。


 このシノから、こんなことを言われるとは思わなかった。


「……つまり、俺にリナリスと関係を良くしてもらわないと困る、ということか。そうすればミュリヤとリナリスの意見も合うだろうと、お前は踏んでいるわけだな」


「ん」と返事をして、シノはそれ以上何も言わなかった。


 まさかシノから圧力を掛けられるとは思わなかったが、確かに俺という存在が介入したことで、彼女たちの生活も一変したのだ。


 俺は、リナリスに認めてもらえるのだろうか。


 自信は無い。だが諦めていては始まらない。


 なんとしても、認めてもらうのだ。今やそれが、俺の使命だとさえ感じるほどだ。


 この道は険しいだろう。嫌われた人間から信頼を勝ち取ることがどれだけ困難か、俺は散々目の当たりにしてきたのだから。


 もう、俺の中には彼女たちを子ども扱いして、理解を放棄するという考えはなかった。


 星空に照らされた暗闇の廃墟を歩きながら、俺は一人やる気に満ち溢れていた。

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