第二章3

 七日もあればミュリヤの料理も多少に様にはなるが、俺とリナリスの関係は少しも改善されない。


 “天使”の言葉を鵜呑みにはしないが、目下彼女との関係が俺を悩ませる。


 フリューゲスへと帰れば、ガーニーの離れる音を合図にミュリヤが小屋の死角から顔を出す。


「おかえりなさい、リィトさん!」と声を掛けられ、ようやく安堵した気分になる。


 七日前の俺は、そう感じないように神経を張り詰めていたはずだった。


 だが今はミュリヤの笑顔を見れば、この生活も悪くないと思えてくる。


 ――もちろん、目的を忘れてはいない。


 焦ることに意味を見出せなくなっただけだ。


 思えばヴァンケットで暮らしていた俺は、日々を駆け抜けるように過ごしていた。


 意味が無い“天使”の護衛を終わらせれば、自宅ではその時間を取り戻すように勉学に励んだ。それが全て無意味だったとは言わない。


 ただ、現実を知らずに書籍や新聞を読み漁ったところで、それが俺の経験として上乗せされるわけではない。


 なんだかんだ俺は、ここでの暮らしを気に入り始めているのだろうか。


「ただいま帰った。まったく、汽車での往復だけで一日が潰れるのは気が滅入るな」


「終着駅《ターミナル》から終着駅への移動ですからね。私は汽車ってあまり乗ったことがないので、ここに来るときに乗らせて頂いたときは、飽きもせずに景色を眺めていましたけど。それも回数を重ねれば、退屈な時間になってしまいますね」


 ミュリヤは俺の隣に並び、困ったような笑みを浮かべる。


「売店で買った小説雑誌も三時間ほどで読み終えてしまったしな」


 そういえば、と俺は“天使”の言葉を思い出す。


「“天使殿”が仰っていたのだが、お前たちは“天使殿”とやり取りをしているらしいな。お前らがここを離れているのは見ないし、“天使殿”がこちらにいらっしゃるはずも無いが、どうやり取りをしているんだ?」


 俺の疑問に、ミュリヤは難しい表情で首を捻る。


「うーん、なんて言えば良いんでしょう……。とっても曖昧な表現になってしまうんですけど、こころの中で“お姉様”に呼びかけるんですよ。そうすると“お姉様”が答えてくれて、お話したりご報告したりできるんです。だから直接会ったりしなくて良いんですよ」


「そんな莫迦バカな話があるか。こころの中で会話ができるなど……。そもそもそんなことができるなら、俺がわざわざヴァンケットに戻る必要などないではないか」


 まるで空想小説の突拍子も無い設定のようだ。先ほど読んでいた小説雑誌にもそんなような話が載っていた。


 ……が、それは創作物だから許されるのだ。


 何より現実問題として、俺がミュリヤに言付けをして、それを“天使”に伝えれば、俺は貴重な一日を移動に費やさなくても済むはずだ。


「“お姉様”はリィトさんのお顔を見たいんですよ。それがちょっとの時間でも大事な時間なんです。面倒かもしれませんが、〝お姉様〟の言う通りにしてあげてください」


 手の掛かる姉の肩を持ち、申し訳なさげな表情をするミュリヤ。

 ここでの生活には慣れてきたが、やはり俺と彼女たちには“天使”への温度差がある。彼女たちは決して、“お姉様”へ悪態を吐いたりはしない。


 何を告げ口されるかもわからないから、下手な悪態を共有したりしなくて良かったと俺は少し安堵している。

 俺の顔が見たいなどと、あの我が儘な“お姫様”の、どこまでが本心かなど知る由も無いが。


「そうだな……。それも俺の仕事だ」


「ですよ。では夕ごはんの準備をしてしまいますので、ちょっとだけお待ちください」


 そう言って、ミュリヤはぱたぱたと小走りで家に入っていく。


 俺もダイニングで新聞でも読もうかと思うが、しかし無為に時間を浪費するのももったいないと考え、家に背を向ける。


 考え事をしながら歩いていれば、俺の脚はとある場所に向かって歩みを進めていた。


 あの小さな広場だ。

 石畳の隙間には逞しい雑草たちが青空を目指して生え、枯れた噴水はただ風化に身を任せたまま役割を放棄し、その奥には小さな馬小屋がある。


 セレウスと名付けられた仔馬と、気高き孤独な少女リナリス。

 小さな空間でじゃれ合う二人は、無粋な来訪者である俺を無視し、密やかに何事かを語り合っている。


 俺はずっと機会を窺っていた。


 リナリスに謝る機会だ。

 それは俺がこの生活に馴染むとか“天使”の命令に従うだとか、そういうものとは無縁だ。他人を侮辱したのなら、謝罪するのが道理だ。


 気配を消すことなく馬小屋へと歩み寄る。

 俺たちはあれ以来、一言も口を利いてはいない。


「リナリス、ちょっと良いか」


 喉から出た自分の声は、固く強張っていた。

 リナリスは振り返らず、小さな声でセレウスに語りかけている。当のセレウスは俺に気付き、しかしすぐに興味を無くした。


 この反応は想定済みだ。ゆえにここで諦めるわけにはいかない。


 彼女との距離を五ヤードまで詰めて、立ち止まる。


「話がある。少しでも良いから、耳を傾けてくれると助かる」


 返事はない。

 彼女は俺を無視して、セレウスの胴体を優しげな手付きで撫でている。


 俺は他人に謝るということが苦手だ。俺の無意識の態度が、誠意から程遠いと級友に言われたこともある。伝わらない誠意に意味は無く、だからそんな八方塞がりな状況から逃げられるのは少し助かる気持ちもあった。


 誠意に欠けた行いだとしても、謝罪しないよりは余程良い。


「先日は、すまなかった。お前の家庭事情を憶測だけで侮辱したことは、謝って済む問題ではないだろう。だが、それでも言わせてほしい。俺はもうお前たちと不用意に対立するつもりはない。お前とも、適度な距離でやっていきたいと思っている。だから俺の無礼を許してほしい。どうか、この通りだ」


 俺は心から謝罪の思いを胸に抱き、リナリスへと頭を下げた。


 頭を上げれば、セレウスの胴体を撫でるリナリスの手は止まっていた。


「リナリス」


「気安く呼ばないで」


 リナリスは強い口調で遮る。

 だが、それで諦める俺ではない。もう一度呼びかけようと口を開けば、それよりも速く、リナリスが振り返る。


 その碧色の瞳には、強い怒りの色が浮かんでいる。


 それは俺の口を閉ざし、俺を躊躇させるには充分な視線だった。


「自分で理解していることをやるなんて、騎士様ってのは随分と悪い頭でもなれるんだね」


 リナリスの顔は、侮蔑の笑みに覆われている。

 そのあからさまな侮辱の言葉に、俺は咄嗟に言葉を返せない。


「そうだよ、謝って済む問題じゃないんだ。それに何より、私はあんたがこの町にいる状況が一番気に食わない。あんたが謝ろうが謝るまいが、私の知ったことじゃない。だって今、あんたが視界に入っていることが、私には許せないんだから」


 なぜ、彼女はここまで俺を否定するのだろう。

 俺は彼女を理解したいと考えているが、現状俺たちは一方的な言葉を投げ掛けるだけで、ゆえに理由などわかるはずもない。


「なぜだ。お前らの“お姉様”の命令で来た俺に選択の余地はなかった」


「そうだね、うん、そうだよ。“お姉様”の言葉は絶対だ。私だって“お姉様”に逆らいたくない。あんたに非が無いとしても……。でも、それとこれとは話が別だ」


「ならば俺にどうしろと言う。命令を放棄して、イルヴァインに帰れとでも言うのか」


「そうしてくれたらありがたいね。父様と母様を侮辱されたことも、それでチャラにしてあげよう。でも、私は“お姉様”に叱られたくはない。あんたがイルヴァインに帰ったら、怒られるのは私だからね」


「視界に入るな……、ということか」


「そうだよ騎士様。それが一番正解に近い」


「同じ町に住み、同じ家で暮らしながら視界に入らないなど不可能だ」


「じゃああの家から出て行けばいいだろう。ほら、幸いにも家だけは沢山ある。栄枯盛衰のフリューゲスに感謝したまえ。夜の寒さからも雨からも守ってくれる建物がこんなにも沢山ある」


「ミュリヤが、それを許すと思うか……?」


「それも気に食わないな。図々しくもあの子に付け入って、仲良しこよしを見せつけてくれちゃってさ。あんたなんかいなくても私たちの生活は成り立っていたのに、もうミュリヤの中ではあんた無しの生活は成り立たなくなってる」


 そうまで言われてしまえば、俺にはもう何も言えない。


 俺が要求に何一つ応えられないとわかって、彼女はそう言っているのだ。


「なぁ、少しくらいは事情を話してくれないか。なぜそこまで俺に敵愾心を剥き出しにする。俺が悪いのか、軍が悪いのか、それくらいでも良い。何も知らないままにそんな態度を取られるのは、さすがの俺でも堪えるぞ……」


「どうしてそこで軍が出てくるのさ。……まさか、ミュリヤから何か聞き出したの?」


 嫌悪感を隠さず、リナリスは強く俺を睨む。


 黒いワンピースの、胸の前にぶら下げたロケットペンダントを、ぎゅっと握りしめて。


「聞き出したわけではない。……話の流れでな。少し聞かされただけだ」


「ならそれで良いじゃないか。私の家族はイルヴァインの軍に殺された。それが全てだよ。これ以上話すことなんて何も無いと思うけれど」


「納得できん。俺は、曲がりなりにも軍人だ。そんな話が俺の耳に入らないはずがない。軍人が民間人を殺したとなれば隠蔽も難しい。この国の軍は、そこまで腐敗してはいない」


「軍人なら足並み揃えて隠すことだって出来る。あんたが何を言おうと、私の事実は揺らがない。私の家族は、この国の軍に殺された。それが全てさ」


 そう言って、リナリスは俺に背を向ける。もうこれで話はお仕舞いだと言うように。


「俺は、絶対に諦めたりはしない。お前に許してもらえるまで謝り続ける。こんな関係のまま、ここで暮らしていくことなどできない」


「私はそれでいいよ、騎士様。あんたがここにいる限り、私は絶対にあんたを許さない」


 俺はそう吐き捨てるリナリスの背に一礼して、広場から立ち去る。


 なぜこれほどまで俺は意固地になっているのだろう。

 リナリスに許してもらい、それが俺の何になる。少女一人と関係を良くして、俺の為になることなどたかが知れる。少なくとも以前の俺であれば、そう斬り捨てていたはずだ。


 だが、今はこうも思う。

 少女一人との関係を改善できないようでは、俺は俺の目的を成すことなどできないだろう、と。それらの積み重ねが大事だと、ミュリヤの件で学んだのだ。


 俺には、彼女に認めてもらえるものは何も無い。俺にあるのは父上に愚直とまで言わせた生真面目さと、軍で培った忍耐強さだけだ。


 家に帰れば、ミュリヤが玄関に立ち、おたまレードルを片手に頬を膨らませていた。


「リィトさん遅いです! せっかくの自信作が、すっかり冷めちゃうじゃないですか!」


 リナリスも呼びに行かなきゃです、と息巻くミュリヤの平常運転に、俺は一気に強張った身体の力が抜けた。


 対立する少女がいる反面、こうして懐いてくれる少女がいるのが、俺の救いなのだろう。

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