第二章5
しかし、俺に出来ることなど限られている。
愚直な俺にはひたすらリナリスに話し掛けることでしか、彼女との関係を繋ぐ方法がわからない。
「リナリス、待ってくれ」
起床して倉庫から出れば、今日も朝食を終えたリナリスが玄関に向かうところに出くわした。
昨日より二時間早く起きたのだが、リナリスの考えることも同じようだ。
現にぎょっとした彼女は、逃げるように外へと飛び出す。俺はせっかくの機会を逃さないために、彼女を追う。
彼女が逃げるのはあの広場だ。
思えば、俺はあの広場以外でまともに彼女と言葉を交わしていない。
セレウス、だろうか。
あの仔馬が近くにいることが、リナリスを気丈に振る舞わせるのだろうか。ならば、彼女が広場に到着する前に捕まえなければならない。
黒いワンピースを翻し、リナリスは青空の廃墟を駆けゆく。広場はそう遠くはない。ゆえに俺は彼女を捕まえられないだろう。そう踏んでいた。
だが、俺は走りながら彼女の意外な一面を見る。
石畳をパンプスで走っているのもあるだろうが、それを加味しても彼女の走る速度は遅かった。
走ることが苦手、という感じではない。それはむしろ、走ったことなど無いというような。快活そうな見た目の彼女にはひどく似つかわしくない姿だった。
だから俺は呆気なくリナリスを捕まえられる。
彼女の肩に手を置けば、リナリスは弾けるように振り返る。
それほどの距離を走っていないのに、息を上げ、涙目で俺を見上げながら。
「な、なんなの、さ……。朝っぱらから、こんな……」
いつもの飄々とした態度もどこへやら、こうして見れば淑女を気取る小生意気な少女にしか見えない。胸に下げたペンダントを握りしめ、悪漢を前にした無力な少女のように。
「いや、済まない……。これほど走るのが遅いとは思わなんだ……」
「運動は、苦手、なんだ……。まったく……」
そう言って、リナリスは目を瞑り一つ深呼吸をする。
まだ昇り切らない太陽から降り注ぐ陽射しが、彼女の身体を照らす。
黒いワンピースが強調する白い肌。開いた胸元は、少女にしては大きな胸を大胆に見せ、その上には汗の雫が浮いている。張った胸元を陽射しが照らし、きらきらと輝く。ブロンドの髪がふわりと風に靡き、少女特有の甘いにおいが俺の鼻をくすぐる。
リナリスはそうして落ち着きを取り戻し、俺を睨む。
「……で、聞いてほしい話とはなんだい」
語気は荒いが、俺は彼女の言葉に諦めの色を感じる。
しつこい俺をこれ以上無視したところで無意味だとでも言うような。
俺にしてみれば、願ってもいない展開だが……。
「あ、あぁ……。なんだ、その、アレだ」
「アレとはなんだ。はっきり言いたまえよ」
「あぁ、その……。走るのに夢中で忘れてしまったようだ……」
「あんたは私をバカにしているのか……?」
はぁ、と大袈裟に溜息を吐くリナリス。
俺も釣られて溜息を吐く。自分の間抜けさに呆れるのが半分と、すっかり彼女に話しかけるのが目的になっていた現状に呆れるのが半分。
「いや、違うんだ。俺はお前と対話しなければならないと思ったのだ。俺はお前に認めてもらいたいと、心の底から願っている。その為にはどうすれば良いかと必死に考えた結果、この行動に落ち着いたというわけだ」
「それで、きみはまるで蛇のように私に付きまとおうとした、というわけか」
「それは結果論だ。お前を追うことに意義があるわけではない。大事なのは対話だ。俺は、お前と話がしたいんだ」
「しかしきみは話題を失念している。これほど滑稽なことはないと思うね」
「それに関しては、何も言い訳できず心苦しく思うが……」
「バカだ、きみは本物のバカだよ、騎士様! もうちょっとは頭の切れる男だと思っていたけれど、あんたほど愚かな人間を、私は見たことがないよ!」
俺を罵倒しながら、リナリスは愉快そうに笑う。
だが、それは不思議と俺を不快にさせる笑い方ではない。
偉そうぶって、俺を小馬鹿にしているのに。なぜか彼女のそれはそうするのが当たり前というような、板についたような笑い方だった。
「バカで結構だ。俺は自分が愚直だと自覚しているし、友人にはバカが付くほどの真面目だと散々言われている。それは俺の長所……、だとは思っているのだが、こんな単純な方法でしかお前に近付く手段が持てないことは、心苦しく思うが……」
結局、俺はリナリスの事情を何ら考慮していない。
俺を嫌うこと。軍を嫌うこと。亡くなった両親の事情。
それらを無視した俺の行動は、馬鹿だと言われても否定できない。
「もっとスマートに出来れば良かったが、ご存じの通り、俺にはこれしか出来ない。幼少から勉強の虫だった俺は同年代の女と接する機会も多くなかった。友人に一人女性はいるが、あいつは俺よりもよっぽど男らしい奴だ。……そんな俺の無礼の数々を許してくれ、と言うのもおこがましい話だが……」
リナリスとの関係を良好にしたい。
それは俺が今現在一番望んでいることだが、彼女はそう思ってはいない。
「俺は、どうしてこうなのだろうな。軍に入隊してからというもの、空回ってばかりだ。父上のような立派な人間になりたいとは常々思っているが、俺には難しいことばかりだ。知識だけを求めては無意味で、真面目は取り柄ですらない。しかし無知な道化など愚の骨頂だ。そもそも気持ちの伝え方というのが、よくわからん」
悪いことをしたのなら、ごめんなさいと言う。
良くしてもらったのなら、ありがとうと言う。
それらはただの言葉だ。
言葉は何も難しくはないはずなのに、なぜか気恥ずかしく感じてしまう。
「私に懺悔してどうするんだい」
「懺悔? それはどういう意味の言葉だ……?」
「神に自らの罪を話し、悔い改めて赦しを乞う、ということさ」
「アルセレスの概念か。お前は、神を信仰しているのか?」
「まさか。知識として知っている、ってだけだよ」
そう言って、リナリスは空へと視線を逸らす。
イルヴァインの国民がアルセレスの宗教に精通しているなど、そう考えられることではない。移民はそれなりにいるが、彼らは自らの宗教をこの国で布教しない。学べないわけではないが、この年の少女が他国の宗教を進んで学んだりするだろうか?
「親戚に長いことアルセレスに住んでいたひとがいてね。そのひとから色々と話を聞いたんだ。イルヴァインの技術信仰も悪くはないけれど、彼らの土着の信仰というものも、慎み深くて興味深いと思ったのさ。それだけのことだよ」
「なぜそんなことを説明してみせる」
「きみが疑り深い表情で私を見ていたからだよ。『イルヴァインの国民がアルセレスの宗教を知っているなんて変だ』とでも言いたげな表情でね」
「なるほど……」また、思考が表情に出ていたようだ。
「真面目なくせに嘘が下手となれば、まさに愚直という言葉はきみのために誂えたような言葉だ。……で、私に申し訳ないと思っているのは嘘なんだろう?」
「断じて嘘ではない!」
食い気味にくちを突いた言葉は、少女に向けるには相応しくないほど語気が荒くなってしまった。
「嘘ではない。嘘でこんなことができるほど、俺の表情は嫌悪感を露わにしていたか……? 俺は、俺の表情を自在に変えるなどできない。友人にもそれをからかわれたのだ。自分で言っていて恥ずかしくなるが、俺がそれほどに器用なら、こんな手段も断じて選ばなかった……」
俯き声を小さくする俺に、リナリスは堪えきれないとばかりに腹を抱えて笑い始めた。
さすがの俺も気付く。
この娘は、俺を玩具か何かと勘違いしている。
一頻り笑って、リナリスは涙を拭いながら口を開く。
「笑った笑った。本当に、きみはミュリヤよりも分かり易い男だね。どんな反応が返ってくるかわかっていても、笑わずにはいられないよ」
「俺で遊ぶな……。これでも大真面目なんだ」
「真面目だから面白いんじゃないか」
あーあ、と、突然リナリスは壊れたように声を張り上げる。
近くに止まった小鳥たちが空に飛び立ち、リナリスは両手を広げる。
機械の左腕が、陽光を反射して煌めいた。
「これじゃあ私がバカみたいじゃないか。こんなにも分かり易い男の言葉を嘘だと決めつけて、遠ざけて。私はきみと馴れ合いたくなんかないのに、きみを避ける私が間違っているみたいじゃないか。どうしてくれるんだ。これじゃあ余所から見たら私が悪者だよ」
「お前は間違っていない。お前は、正当な理由で俺を拒絶している」
「それをきみが言うのかい。言葉と行動が食い違っているよ」
その矛盾を自覚したとしても、それが免罪符になるわけではない。
「俺は、どうしたいんだろうなぁ……。お前との関係を良くしたいのに、そうすると決意したはずなのに、お前と話すことで自分の正しさがわからなくなる。お前が俺を拒絶する理由はわかる。俺には、お前の記憶は否定出来ない。お前の事実を否定することなどできるはずがない。しかし諦めたくはない。それは俺の利己だ。それをお前に強要するのだとしたら、間違っているのは俺だ。俺は間違いを犯してまで、お前と関係を改善しなければならないとは思えない」
今まで間違いを犯していたのだとしたら、尚のことだ。
そうして苦悩する俺に、リナリスは小さな溜息を吐く。
「その知人の言葉を思い出したよ。『バカほど愛してやれ』って。当時の私にはこれっぽっちも意味がわからなかった言葉だけれど、今ならなんとなくわかる気がする」
「それはアルセレスの神の言葉なのか……?」
「その知人の口癖さ。人間は等しくバカな生き物で、それは自分も例外ではない。ならば諦めるしかないってさ。自分も諦められていると考えれば、どんな他人でも憎んだり嫌悪したりする必要はない、という話さ」
「その知人とやらは、随分と諦観した人間だったのだな」
「そうでもなかったよ。人間の汚い部分を沢山見てきたくせに、それでも信心深くて、何より他人が大好きなひとだった。どれだけ騙されても貶されても、あのひとは他人を憎んだりはしなかった。ああはなれないって、幼い私の気持ちは今でも変わらないよ」
リナリスはそう言って、胸のペンダントを握りしめる。
彼女がそうするときは、決まって何かに不安がっている時だと気付く。
俺が彼女の事情を知っていた時。先ほど俺に掴まえられた時。
今、彼女は何を不安がっているのだろう。
それとも、そこに収められている両親を思い出しているのだろうか。
「私は、私の考えを改めるつもりはないよ。きみは相変わらずここには不要だと思っているし、私の両親のことも許すつもりはない。私の中の事実は変わらない」
――でも。
「きみが悪い人間ではないことは明白じゃないか。バカが付くほどの真面目で、小細工にも頭が回らないほどの大バカ者だ。それにきみが言った通り、きみは“お姉様”の言いつけに従ってここに来ただけなのも確かだ。“お姉様”の顔にこれ以上泥を塗ったら、さすがに怒られてしまう」
「それは……」
「まさかきみは、私に皆まで言わせる気じゃないだろうね」
「い、いや……」
俺は、この状況に頭が追い付かない。
リナリスが言わんとしていることはわかる。
なぜなら、それは俺がずっと求めていた答えなのだから。
「もう一度言う。私は、きみを認めたわけじゃない。この判断は、私の保身の為でしかない。“お姉様”に怒られないためであり、これ以上きみに付きまとわれないためだ。私は最初から、きみとままごとをするつもりなどないことは努々忘れぬように」
「あ、あぁ……」
「返事はハキハキとするものだ。きみは“お姉様”にもそうしているのかい?」
彼女は小さく溜息を一つ吐き、俺の横を通り過ぎる。そちらは広場とは反対の方向だ。
「何をボサッとしているんだ。ついてきたまえよ」
そう言うリナリスに、俺は言われるがままに従う。
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