第一章7

 ハンナット駅の改札を抜ければ、もう陽が暮れ始めている。


 俺の到着を待っていたガーニー。その運転手が俺に手を振り、俺は急いでガーニーに乗り込む。


 運転手はハンナット方面の軍関係者だ。毎朝五時にミュリヤたちへ食材や必要な日用品を届けるこの青年は朗らかで人当たりも良いが、自分が何者の為に食材を運ぶのかは知らされていない。天使近衛騎士のナルルですら面会禁止なのだ。ハンナット方面の末端軍人に事情が知らされるはずもない。


「それにしても大変ですねぇ。ヴァンケットじゃあのんびりもできなかったでしょう」


「そうですね。任務でもなければ自宅でゆっくりできたのですが」


 時折話しかけてくる青年に適当に相づちを打っていれば、それほど退屈することもなくフリューゲスに到着する。


 ガーニーから降りて、青年に礼を言いお辞儀する。これから何度彼の世話になるのかは知らないが、運んでもらえなくなったら困るから無碍には扱えない。


 町の入口。目印である木造の小屋を通り過ぎれば、視線を感じた。

 振り返れば、入口から死角になる壁を背にして、ミュリヤが俺を待ってくれていた。


「おかえりなさい、リィトさん」


 そう言って屈託無い笑顔を向けてくれるミュリヤ。その言葉と表情だけで、なんとなく帰ってきたという気分になってくる。


 ここは俺の居場所ではなく、帰る場所でもないのに。俺はそう思わないと、心に固く決めたはずなのに。


「あぁ、ただいま帰った」


「長旅でお疲れですよね。すぐにお夕飯をご用意しますね。今日は腕によりをかけてお料理させていただきます! 今日は丸一日料理の特訓をしていたんですから!」


「味の無いスープと焦げた料理でマフィンを食うのは、腹を膨れさせるという食事の在り方をよく表していると俺は思う。質素な暮らしらしくて悪くないと思うがな」


「もう、リィトさんはいじわるです! ただちょっと天然の食材の調理方法に慣れていないだけなんです! ミュリヤはやれば出来る子なんです!」


「だと良いんだがな」


 昨日の会話など無かったように、ミュリヤは表情をころころ変えて楽しげだ。

 小さな身体をぴょこぴょこと跳ねて、その動きを追ってさらさらの黒髪が宙を舞う。夕陽を反射して赤く輝く毛先。大きな青色の瞳は俺を捉えて離さない。足首まである黒いスカートを翻す様は、家政婦(メイド)というよりはじゃれてくる子犬を連想させる。


 三等区の住民だったと告白した彼女。

 どう見ても、車窓から見た浮浪児たちと同じ立場だったとは思えない。


 彼女が話した三等区の現実を、俺の貧相な想像力では想像できない。

 それは俺の知る生活ではない。そういう現実を知ろうと息巻いていたはずなのに、俺は俺の知らない現実を認めていなかった。何かを知る、ということが能動的な行動だとさえ知らなかったのだ。


 だから、ミュリヤとちゃんと接しようと思った、ということではないのだが。


 俺は流されやすい人間だ。加えて情にもほだされる。

 ティカとの一件を思い出す。絶対に関わらないと決めた少女を、俺は最終的に助けようとしていた。


 俺はその性質が悪いとは思わない。俺は自分が思うほど、自分の信念に対して誠実ではない。


 面倒事に関わらない、ミュリヤたちとは距離を置く。それらが俺の目的への道を阻害しているのなら、流されやすい性質を逆手に取るのも悪くないと思ったのだ。俺は俺の目的の為に、現実を知らねばならないのだから。


 例え、憎むべき“天使”の命令だとしても。


 それを逆手に取るくらいでなければ、俺は議員などには到底なれないのだろう。


「もう、なんですかリィトさん。私の顔に何かついてますか?」


 気付けば俺は、考え事をしながらもミュリヤの一挙一動を逃すまいと彼女を見つめていた。恥ずかしそうにもじもじと俺を窺うミュリヤは、年相応の少女だ。


「いや、なんでもない」


「ほんとですか? リィトさんはいじわるなので信用できないです」


 そう言って、ミュリヤは器用に足踏みしながら俺の前に躍り出る。


 振り返れば、夕陽を背に立つミュリヤの表情は、逆光で俺には見えなくなる。


 しかし影になった彼女は、先ほどまでの楽しげな雰囲気からは一変していた。


「今更こんなことを言っても、リィトさんを困らせるだけだってわかっています。でも、それでも言わせてください。昨日は、お聞き苦しい話をして、ごめんなさい」


「なんのことだ。お前は別に謝るようなことを話してはいないが」


「いいえ、私はずるをしました。私は自分の、世間一般的に不幸だと思われる境遇を都合良く使って、リィトさんの心に付け入ったのです。リィトさんが私に同情して、普通に接しざるを得ないように仕向けたんですよ。それが謝らなくて良いことだとは、私には思えません。だからごめんなさい……。私は、悪い子です」


 ごめんなさい、ごめんなさいとミュリヤは何度も頭を下げる。


「……確かに、俺はまんまとお前に付け入られたことになるのだろうな」


「そうです。でも、リィトさんはリィトさんのままで良いんですよ。気に入ったヴァンケットでの暮らしを無理矢理奪われて、こんな場所に連れられて、苦手な子どもの相手までさせられて……。リィトさんは今まで通りで良いんです。私はリィトさんと仲良くなりたいですけど、それは私が無理強いできることではないのです」


 だから再び距離を置けと、ミュリヤはそう言いたいのだろうか。


 今、俺はミュリヤがどんな表情をしているのかを窺えない。悲しげな顔をしているだろうか。困ったように笑っているだろうか。


 だがミュリヤの思惑は関係無く、大事なのは、俺がどう思っているかに他ならない。


「正直に言わせてもらう。俺はお前が知っての通り、今すぐヴァンケットに戻りたいし、お前たちと一緒に暮らす現状にも納得していない。俺は父上に認めてもらわなければならない。その為には、こんな辺境で時間を潰している場合ではない」


 俺の言葉に、ミュリヤは小さく俯く。

 仲良くなりたいと思う気持ちと、今まで通りで良いと言葉にする気持ちは、どちらも本心なのだろう。だからミュリヤの提案に従えば、それは彼女を落ち込ませる要因としては充分過ぎる。


「……だがな、俺は自分が情に弱いと自覚している。自覚したうえで、お前とこうして話している。この場所は俺の目的からは遠すぎる。……だが俺はお前たちを知ろうと思った。それが俺の目的に不要ではないと、俺が判断した。遠いかもしれないが、無関係ではないと判断したのだ。その気持ちもまた、俺の本心だ」


 俺はそう言って、自分でも自覚できるくらいに表情を緩める。


 右手を差し出して、口を開く。


「改めてになるが、どうかよろしく頼む」


 俺の言葉に、ミュリヤの俯いた顔が持ち上がる。


 肩を震わせ、両手を合わせ、しゃくるような声を上げて。


 何を泣いているのだろうかと、一歩近付けば。


「リィトさん!」


 と、大声で俺を呼び、ミュリヤは俺に飛びかかってくる。


 俺の胸板にミュリヤの顔がぶつかり、背中には手を回され、構えていなかった俺は後ろに倒れ込む。尻餅をついて手を後ろにつけば、「ありがとうございます! リィトさん大好きです!」とミュリヤは俺の胸に顔を押しつけながら言う。


 それは、あまりにも大袈裟な反応だ。だが、俺は悪くないと感じているようだ。


 だから彼女の身体を起こして、俺は改めて右手を差し出した。


「よろしく頼む、ミュリヤ」


 俺の言葉に、ミュリヤは左手で涙を拭い、泣き顔を無理矢理笑顔に変えて、その無骨な鉄の右手を差し出した。


「はい、よろしくお願いします、リィトさん!」


 ミュリヤの右手は、見た目通りの冷たく硬い感触だ。


 だが、俺は知っている。


 彼女がこの右手を意識させないほど温かで優しい心を持った、普通の少女であることを。


 だからこそ俺はこうして右手を差し出したのだ。


 俺はここで、“天使”の命令が終わるまで暮らしていくことを認めた。


 それを歓迎するミュリヤの表情は、正しく言葉の通り、天から使わされた、この疲弊しきったイルヴァインを照らす輝かしい笑顔だった。

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