第一章6

「私は三等区の、浮浪児ストリートチルドレンだったんです」


 そう言うミュリヤの顔を、俺はどんな表情で見つめていただろう。


「やだリィトさん、そんな怖い顔しないでくださいよ」


 茶化すようにそう言うミュリヤに、「怖い顔などしていない」と無愛想に答えることしか出来ず、すっかり冷めてしまった珈琲を啜った。ミュリヤが淹れた珈琲は冷めても美味かった。僅かな酸味が、頭を冴え渡らせてくれる気がする。


「そんなに珍しい話じゃないと思いますよ。ヴァンケットには沢山のひとが住んでいて、住宅区画は三等区まであるんですから。一番広くてひとが多いのは三等区です。だから私みたいな境遇の子は、やっぱり沢山いるんです」


 抱えたお盆を強くぎゅっと抱き締め、ミュリヤは窓の外に目を遣る。


「私は元々、アルセレスに住んでいました。ですが、私が十歳になる前に、ヴァンケットに憧れた父に連れられて移住してきたんです。元々裕福な家庭ではなかったのですが、こちらに越してきたらもっと貧乏になってしまいました。機関工場の稼ぎなどたかが知れていますよね。私たち家族はここの生活が豪華と呼べるほどに、貧乏な暮らしをしていました」


 ミュリヤはそう言って笑みを浮かべ、俺に視線を戻す。

 面白くもない話だ。話す本人が一番面白くもないだろうに。


「知っていますか? 三等区には食材が二種類あるんです。天然の食材と、機関工場で大量生産される合成食材です。三等区で食べられているのは、ほとんどが合成食材。ぱさぱさの食パン。合成バターを塗って、それを味が付いていない豆のスープで飲み込むんです。父が稼ぎを貰った日は合成珈琲を飲めますが、それを淹れるのが私の当番でした」


 だから珈琲を淹れるのは得意なんです、とミュリヤは嬉しそうに笑う。

 俺には普通の珈琲と合成珈琲の違いがわからないが、ミュリヤは現に美味い珈琲を淹れる。


「そんな生活でも、私たち家族はまだ幸せだったんです。父と母と、それと私の三人。父と母は別々の機関工場で働き、私は家事の全てを任されていました。私はお掃除もお洗濯も好きでしたから、夜遅くまで働いて帰ってきた両親の笑顔を見られれば、それで楽しかったんです。お料理は、ご存じの通り苦手だったんですけど……」


「学校には通っていなかったのか」


「三等区に住む子どもで、学校に通える子は僅かなんですよ。学校があっても、通うお金がないんです。お金があっても学校には限りがありますから、三等区に沢山いる子どもを全員通わせることはできません。それが三等区なんです」


 そう言って困ったように笑うミュリヤの容姿を、俺は改めて見る。


 とても育ちが悪いようには見えない。


 そこで俺は気付く。


 俺はこの三日間、ちゃんと彼女たちを見てはいなかったのだと。


 どこにでもいる少女たちだと思った。

 彼女の話を聞いても三等区の印象は浮かばない。いや、三等区の印象とはなんだ。区画によって暮らしている人間が変わるわけなどないのに。


 この短い半生の大半を一等区で過ごした俺は、区画で人間の種類が変わるとでも考えていたのだろうか。


「でも、楽しい暮らしはそう長くは続きませんでした。両親の稼ぎだけでは生活できなくなってしまって、私も機関工場に出稼ぎすることになったんです。繊維工場でした。朝から晩まで機関製のシャツを作る工場で働き、私は次第に、両親と顔を合わせる時間も僅かになりました。機関工場は忙しく、工場長さんは厳しいひとで、私は頻繁に怒られました。ほら、私って鈍くさいですから……。ノルマをこなせない私は賃金泥棒と言われて、でもその賃金は大切な私たちの生活費でした」


 そして、と、ミュリヤは浮かべていた笑顔を悲しげに歪め、続きを口にする。


「私の十五歳の誕生日でした。その朝、私と両親は味のないオートミールを食べていました。静かな食卓でした。両親は、神妙な顔で私に言いました。『ミュリヤ、俺たちはもうお前を養ってやれない』と。母は薄らと涙を浮かべていました。『だから、お前は今日から貴族様の家に住み込みで働くんだ。これはとても喜ばしいことなんだ』父は無表情でしたが、大きな手を真っ白になるくらい握っていました。『不甲斐ない父さんで、済まない。全部、父さんが悪いんだ』父の悲痛な声に、私は何も言えませんでした。だって父を責めたところで、何の意味があるというのでしょう」


 ミュリヤはそう言って、真剣な眼差しで俺を見つめた。


「それから色々あって、私はここで暮らしています。これ以上語ったところで聞き苦しい話でしかないので、詳しくは語りませんが。でも」


 ――でも。


「私みたいな子を、リィトさんはどう思いますか? リィトさんが議員さんになったら、私みたいな子たちを全員助けてあげられるのでしょうか」


「それは……」


 恐らく、この言葉の先に続く言葉は一つだった。


 だから俺は何も答えられず、逃げるようにミュリヤから視線を逸らしてしまう。


「いじわるなことを言ってごめんなさい。でも、リィトさんが知りたいと言うヴァンケットの現状というのは、こういうことなのですよ」


 こういうこと、だったのだろうか。俺が知らねばならないと思ったことは。


「ミュリヤは、最初から“天使”だったのか……?」


 ミュリヤはふるふると首を振り、また困ったように笑う。


「私は無力な人間でした。でも“お姉様”のお陰で、未だこうして生きていることができます。“お姉様”と、この鉄の右腕のお陰で、です」


 そうして壊れ物を扱うように右腕の義手を撫でるミュリヤの表情は、悲痛な色だった。


 ――だから、俺は“天使”に訊かねばならないと思ったのだ。


 ミュリヤはもう、現状彼女が話せる全てを話してくれたのだと思う。だからそれ以上を知るには、その“お姉様”本人に訊くしかない。


 結果は言うまでもなく、俺は未だ知りたいことの一部も知らないままだ。

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