第一章5

 汽車から降りれば、バルメディエ駅は今日も変わらず溢れるひとで賑わう。


 三日ぶりにヴァンケットへと戻ってきた。ナルルから言われた七日に一度の“天使”への報告を、今日済ませてしまおうと思ったのだ。


 もちろん、目的はそれだけではない。


 足早に改札を抜け、ロータリーで有料ガーニーを拾う。行き先は最高級ホテル『メルン』。簡潔にそう伝えれば、ガーニーは軽快にヴァンケットの街中を走り出す。


 たった三日ぶりだというのに、ヴァンケットの空気は俺の目や鼻を刺激する。

 薄黄色の霧はいつもよりは薄い。だがそれは田舎の空気と比べるべきものではない。

 今日は機関工場群の休業日だ。遠くに見える三等区の煙突たちも排煙を吐き出すのをやめて休んでいるが、それが街の空気を唐突に綺麗にするはずはない。


 メルンに到着する。回転扉をくぐり、広間エントランスを進む。

 客の視線が妙に俺に集まるのを無視し、機関昇降機を呼ぶ。待っている間に、俺は自分の服装が安物の機関製だと気付いた。


 この場に相応しくない格好は、当然“天使”への謁見にも相応しくないが、着替える時間が勿体ない。何よりあの“天使”が、そんな些末に一々腹を立てるとも思えない。


 間もなく最上階へと到着し、同僚が護衛する扉をくぐる。


 絢爛豪華で駄々広い部屋の奥、寝室の天蓋付きのベッドには騎士たちが守る“天使”様が鎮座されている。


「あら、あたしの可愛いリィト。こんなに早く逢いに来てくれて嬉しいわ」


「私も光栄です。ご命令通り、フリューゲスでの生活をご報告申し上げに参りました」


 “天使”は今日も裸のままベッドで寛いでいる。俺はいつも通りそれを極力見ないように努め、レースの向こうから聞こえる、肌とシーツが擦れる音だけを耳に入れる。


「三日前に無事フリューゲスへと到着し、“妹君たち”の住まわれる家を来訪しました。そこで二日を過ごし、“妹君たち”とは多くない交流をさせて頂きました」


 俺の内容の無い報告に、“天使”はつまらなそうに鼻で笑う。


「それは良かったわ。でも、そんなことを報告するためにわざわざ戻ったのかしら?」


「はい。いいえ、僭越ながらミコト様に二、三ご質問申し上げたく参りました」


「そう。良いわよ、何でも訊いてちょうだい。可愛いリィトの頼みだものね」


 “天使”はレースを開き、ベッドの縁に腰を下ろす。恥じらいなく俺に真っ白な肢体を見せつけ、俺はそれを決して視界の中心には入れない。

 広い部屋には数々の豪奢な装飾品が置かれ、かつては気にも留めなかったそれらを見てやり過ごす。田舎の質素な一軒家で過ごしたせいか、それら壺、花瓶、絵画、美術品の数々が、生活に不必要な無駄な物に思えて仕方がない。


「では、遠慮無くご質問申し上げさせて頂きます。まずは一点。“妹君たち”が装着なされている鉄の義肢でありますが、あれらはどのような動力を用いて動いているのでしょうか。無知な私めに、どうかご教示賜りたく存じます」


 俺の質問に、“天使”は噴き出したように笑う。何がそんなにおかしいのだろうかと疑問に思うも、“天使”はすぐに口を開いた。


「そんなのどうでも良いじゃない。あの子たちに訊いた方が早いんじゃない?」


「はい。いいえ、“妹君たち”が機関機械や義肢技術に精通されているとは私にはどうしても思えず、ゆえにこうして恥を忍んでミコト様にご質問申し上げたのです」


「それもそうねぇ。ミュリヤもリナリスも……、あともう一人、なんて名前だったかしら……。確かに彼女たちにはわからないことね。でも、あたしもよくわからないのよ。だってそういうものなんだから」


「そういうもの、と申しますのは……」


「あたしたち“天使”はね、失った手足を別の物で代替することができるのよ。そういう風に出来ているの。理屈や仕組みなんて知らないけれど、便利なものよね。だから手足の形をした物なら、手足として動かすことができる。これで良い?」


「なるほど……」


 そう頷いたが、それは俺を納得させてくれる説明ではない。説明とさえ呼べないだろう。お姫様が白と言えば、全てが白色。そういう類いの圧力だ。


 これ以上説明を求めても無駄だ。俺は再び口を開く。


「では、もう一点。“妹君たち”は、以前にどの地域に住まわれて、どのような生活をおくられていたのでしょうか」


「さぁ、知らないわ。彼女たちが私の“妹”になる前の情報に意味なんてある? とても些末な問題だわ」


「些末な問題、でしょうか」


「そうよ、あたしの可愛いリィト。そんなことに意味は無いの。それこそあの子たちに訊いた方が早いわ。それとも、本当はちょっとくらい聞いてるんじゃないのかしら?」


 そう言って“天使”は、意地の悪い小さな笑い声を上げる。


「例えば……、彼女たちが三等区画の浮浪児、であるとか」


「はい。……いいえ」


 俺は無感情にそう答えて、表情を殺すよう努める。


「……では、最後の質問を申し上げます」


 俺はそこで初めて、“天使”の顔を見据える。


 露わになった首から下には焦点を合わせない。見つめるのは“天使”の顔だけ。愉快げに笑みを浮かべるその表情を、射貫くように睨む。


「アルセレスは本当に、“妹君たち”の手で殲滅されたのでしょうか?」


 “天使”は表情を変えない。

 愉快げな表情をそのままに、口を開く。


「さぁ。あの子たちに訊いてみたらいいんじゃない?」


 俺と“天使”はそのまま睨み合う。


 しかしきっちり三秒を数えた後、俺は深々とお辞儀をし、


「無知な私めにご教示申し頂き、誠に有り難く存じます。ミコト様の貴重なお時間を頂戴してしまったことを、どうかお許し下さい」


 そう言って頭を上げる。


「別にいいのよ、あたしの可愛いリィト。訊きたいことがあればなんでも訊くと良いわ。だって、あたしの可愛いリィトの頼みですもの」


 無垢な少女の皮を被り、“天使”はふふ、と不気味に笑う。


「ただ、あたしが答えてあげるとは限らないのだけれど」


 じゃあ“妹たち”によろしくね。その別れ際の言葉を無視して、俺は最上階を後にした。


 機関昇降機に乗り、俺は形式だけの報告会が本当の徒労だったことに憤りを覚える。目的は何も果たせず、我が儘なお姫様との無駄な言葉の応酬だけがあった。


 あたしの可愛いリィト。

 俺にそう言い続けるあのお姫様は、その言葉通りに俺と言葉を交わすことだけを楽しみにしているらしい。天使信仰に熱心な同僚は返事も無いと嘆いていた。

 ナルルのような事務的な会話のみの場合も多い。なぜか俺だけが、一番にお姫様を嫌う俺だけが、こうしてまともに会話できている。


 そういえば、今日はナルルはどうしているのだろうか。

 部屋の前にいたのは別の同僚だった。会えるのなら少し会話でも出来れば良いと思ったが、広間の回転扉をくぐるまでに姿を見掛けることはなかった。


 徒労だ。それ以外の何ものでもない。ヴァンケット行きの始発に乗って遙々やって来て、もうハンナット行きの汽車に乗らなければならないのだから。


 今回関わっているこの任務に関して、俺は未だ何の情報も得ない。


 普通の、こうしてプラディネス大通りを歩いている少女たちと何も変わらないあの“妹たち”が一体何なのかを、俺は未だ何も知り得ていない。


 お姫様は軽々と言ってみせた。あの子たちに訊いてみれば良いと。


 だが、それは言うほど簡単なことではない。


 困った表情で自分の過去を語ってみせたミュリアたちは、どこにでもいる普通の少女だ。そんな不躾で言いがかりのような質問をぶつけて良い存在とは思えない。

 あんな表情ができる少女がたとえ“天使”であっても、国を滅ぼす力を持ち、それを行使できる存在には、俺には到底思えないからだ。

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