第一章3

 翌日の昼。暇潰し用の小説雑誌が二周目に突入しようとしていた。さすがに狭い倉庫でじっとしているのにも耐えられなくなり、静かに倉庫から出る。


 気分転換だ。埃のにおいが混じる倉庫は、やはり気が滅入る。


 ダイニングの掃除に熱中するミュリヤを横目に外に出る。


 綺麗に刈り揃えられた芝生の庭。端には機関式の風呂桶が置かれている。一昨日は気付かなかったが、いかにも手作り風な屋根が申し訳程度に設置されており、雨の日でも入浴出来るらしい。もちろん、家に入るまでにびしょ濡れになるのだろうが。


 アルセレス方面へと目を向ければ、やはりそこにはアイスラーの町は存在しない。


 だがアルセレス殲滅が事実なのかを、この風景だけでは判断出来ない。落ち着いて考えれば、それが未だ信用に足らない情報だと思えてくる。


 何らかの災害によって、アイスラーの町だけが荒野になったのか。住民が町を捨てたのか。アルセレスは信仰深い国だ。イルヴァインの機関機械に興味を示すことなく、国民は昔ながらの質素な生活を守り、形の無い“神”に祈りを捧げ、想像上の姿をかたちにした偶像に頭を垂れると聞く。そんな彼らでも、先祖代々暮らした家を捨てることはあるだろう。


 “天使”はイルヴァインには珍しい信仰の対象だ。


 イルヴァインの国民は姿無きものや偶像を崇拝しない。イルヴァインの国民にとっての“天使”は、アルセレスの人間の“神”と同義だろう。人々は有り難がって“天使”に祈る。“天使”が、イルヴァインの国民を虫けらだと思っているとも知らず。唯我独尊のお姫様。国の金で贅の限りを尽くすのも、ゆえにということか。


「リィトさん、どこかに行かれるのですか?」


 突然の声に振り返れば、玄関扉の前にはミュリヤが立ち、俺を上目遣いに窺っている。エプロンドレス姿に、雑巾を片手に。気配を消して家を出たはずなのだが。


「少し散策をしてくる」


「私も、ついていっていいですか……?」


「雑巾を片手にか。掃除は一段落したのか」


「いえ……、まだ二階の掃除が丸々残っています……」


「ならばそちらを終わらせろ。少し一人にさせてくれ」


 ミュリヤは一瞬だけ頬を膨らませかけ、しかしすぐにしょぼくれた表情をするが、俺は無視して歩き出す。一人になりたいのは、ただの本音だ。


 フリューゲスの町は、想像よりも小さい。入口から外周を一周した。懐中時計で確認すれば、十五分も掛からない。赤煉瓦の家が並び、町の外周を取り囲むのはどこまでも広がる草原。見える景色は単調で代わり映えがしない。


 こうして田舎に来れば、俺は案外ヴァンケットでの暮らしが好きだったのだと自覚した。


 町の至る場所には様々な機関機械が設置される。薄黄色の霧。排煙に覆われた空。老若男女、貧富、健康不健康。様々な人間が暮らすあの街は、至る場所で俺の目的を思い出させた。


 だがこの町は、それを不意に忘却させる。無目的に歩くこの瞬間、俺は無思考だ。この国を良くするという目的。フリューゲスもイルヴァインの一部であるはずだが、この町は遠い異国の町のよう。


 排煙混じる薄黄色の空気は煤や灰の臭いであり、長くヴァンケットに住む俺でも未だ慣れない。しかし、ここにあるのは若草の匂いが混じる澄んだ空気と、暖かな陽射し。それら牧歌的な空気は、俺の今までの日常とは乖離し過ぎている。


 一昨日ナルルと交わした会話が、もう遠い日の思い出のようだ。


 ……目的を忘れるな。


 ナルルの念押しを、改めて心に刻みつける。俺は再び町の外周を歩き始め、この国を具体的にどう良くしていくか、その方法を考え始めた。


 だが、それは途中で遮られた。


 三分の一ほど歩いたところで、俺は先ほど見逃していた姿を見付けたからだ。


 家と家との間。ボロボロの木製の安楽椅子に座り、景色を睨む少女。


 シノだ。寝間着の白のワンピースのままスケッチブックを膝に置き、鉛筆を片手に無表情に景色を睨んでいる。


 そのまま素通りしようかとも思ったが、その似つかわしくない姿に興味が湧いた。


 後ろから近寄り、スケッチブックを覗き込む。


 白紙の項(ページ)が陽光を反射していた。


「何を描こうとしているんだ」


 シノは無表情に振り返る。その青い瞳にも感情は浮かばない。驚かせてやろうという気はなかったが、拍子抜けするほどの無表情だ。


「風景」


「具体的な物だ。家とか、空とか。色々あるだろう」


「空は描けない。絵の具が無いから」


 なるほど確かに、この空の青は鉛筆では表現できない。


「お前が絵を趣味にしていたとはな。らしくない、と言ったら失礼か」


「二人が、良いねって言ったから。私のスケッチブック、見られて、それで」


 ん、とスケッチブックを突き付けられる。受け取ってぱらぱらとめくれば、そこには沢山の風景が描かれている。


 彼女たちが暮らすあの家。廃墟となった商店街。以前のページを見れば、そこにはヴァンケットの二等区画のような風景もあった。人物画は描かれていない。どれも、子どもが描いたにしては上出来な部類だ。


「絵を描き始めたのも、誰かに言われたからか」


「そう。お父さんが薦めてくれた。シノは、画家になれるぞって」


「画家になりたかったのか?」


「父さんがなれって言ったら、なったかもしれない」


「相変わらず、主体性が無いんだな」


 ん、と返事をして、俺からスケッチブックを取り上げる。そうしてもう俺からは興味を失い、先ほどと同じように無表情に風景を睨み始める。


 主体性の無い少女、シノ。彼女が何を考え、何を思うのか、俺には見当も付かない。


 消極的な人間は数多く見てきた。高等学校でも、軍でも。自信の無い彼らがなぜその場所にいるのか、俺にはさっぱり理解できなかった。


 主体性の無い人間も多少なら。だが、ここまで極端に自分が無い人間は初めてだった。目的も持たず、誰かに指示されなければ行動できない。目指すものも無いのだろう。そんな生活に、人生に意味があるとは到底思えない。


 握った鉛筆を、スケッチブックに走らせ始める。


 彼女はもうこのスケッチブックの上に、完成した絵を視ているのだろうか。


 子どもは気まぐれだ。作品は完成を待たずに飽きられることもあるだろう。俺は子どもたちの、そういった奔放さが苦手なのだ。


 目指した目標があるなら、そこに向かって進めば良いだけなのに。


 俺はシノから興味を失い、歩き始める。興味。そう呼んで良いのかもわからないほど、微かなものだったが。どうせ明日には忘れる些末なものだ。


 町中を歩く。どこまでも単調で、寂しげな景色。

 寂しい。思えば、なぜ俺はそう思うのか。建つだけの建築物に楽しいだの寂しいだの、感情は想起できないはずだ。


 人間か。ヴァンケットの街並みは、住民たちの往来を含めてヴァンケットたり得る。貴族たちが辻馬車に乗り、老紳士が杖を片手に歩き、学生たちが声高に明日を語り、労働者たちが目を輝かせて高層建築物を見上げる街が、ヴァンケットだ。


 この町には俺と、それと三人の〝妹たち〟しか存在しない。だからこの場所を町と呼んで良いのかわからない。ただ、廃墟とは呼べないだけなのではないか。


 そうして歩いていれば、どこからか馬の鳴き声が聞こえる。そう遠くない場所だ。

 一昨日も聞こえたその鳴き声は、取り残された飼い馬のものか。野生に還った馬に、俺は少し興味をそそられる。騎士の身ながら馬には乗れない俺だが、動物は嫌いじゃない。少なくとも、小生意気な子どもと比べるべくもない。


 鳴き声の方に歩みを進めれば、それに混じる声が聞こえた。少女の声だった。 


 申し訳程度に作られた広場が見えてくる。その端には簡易的な馬小屋が用意され、一頭の栗毛の仔馬が飼われていた。


 馬が野生ではない事実に驚くが、それより俺を驚かせたのは、その仔馬にじゃれて笑うリナリスの姿だった。だから俺は、広場の入口で歩みを止めていた。


「よしよし、セレウス、良い子だ」


 満面の笑みのリナリス。俺に見せた嫌悪感たっぷりの表情とはまるで別人のような楽しげな表情。着る服もそうだ。黒の身軽でシンプルなワンピース。大人になろうと背伸びした服装は、不覚にも似合っているなどと俺に思わせる。


「セレウス、聞いてくれよ。“お姉様”ったら非道いんだ。私が嫌だと言ったのに、あの忌々しい軍人の男を寄越してきたんだよ。ミュリヤは男手が欲しいと聞かないし、シノは興味なさそうだしさ。同票で不成立になるはずの勝負が、これだものな」


 仔馬は相づちを打つように小さく鳴き、リナリスは「私を慰めてくれるのはセレウスだけさ」と諦めた口調で言う。俺は一歩後退り、この場から立ち去ろうとする。


 だが踵を返す俺の革靴が、煉瓦の道を擦った。


 ジャリと、僅かな音が響く。


「誰だ」と、リナリスの険しい声が広場に響いた。聞こえるはずはないと思ったが、それでも俺は自分の不覚さを噛み締めつつ、馬小屋へと振り返る。

 リナリスはすっかり見慣れた嫌悪感たっぷりの表情で、俺を睨んでいた。


「盗み聞きなんて趣味が悪いね、騎士様。あんたの隊にはそういう規律があるのかな。他人の私生活を覗き見よ、ってさ」


 仔馬から離れ、リナリスは俺と対峙する。まるで俺が、彼女たちの生活を壊すために訪れた悪漢だと言わんばかりの表情で。


「ただ町を散策していただけなのだが……。ならば俺も訊こう。お前には俺が出歩く許可を出す権限があるのか? そんな権限があるのなら、最初から言っておいてほしいものだ。町中をうろつくな、この広場には近付くな、とな」


 俺の言葉に、リナリスは表情を変えない。子どもらしく少しは噛みついてくるかと思ったが、拍子抜けしてしまう。


「私にそんな権限は無いよ。だってそれは“お姉様”に逆らうってことさ。あんたをここに寄越したのは“お姉様”。私は“お姉様”に逆らったりはしない」


 でも、とリナリスは強く俺を睨む。


「邪魔されたくない時間ってのは誰にでもあるものだよ。私でいえば、この子と一緒にいる時間とか。それをあんたの無粋な声や姿で邪魔されたくはないんだ」


「だから今言っただろう。あらかじめ広場には近付くなと言っておけと」


「そんなの言わなくてもわかるはずさ。私は最初からあんたに、そういう態度で接していたじゃないか。近寄るな、話しかけるなって」


 だから広場から私の声が聞こえたら引き返せ、などと無茶苦茶な言葉を付け加えて。


 何度も言うが、俺は子どもが嫌いだ。リナリスのような小生意気なガキは特にだ。


 それに、こうまで一方的な嫌悪感を突き付けられれば、黙ってはいられない。

 断じて、彼女の理不尽な態度に苛ついたわけではない。道理が通じないのであれば、わかるまで教えてやるべきなのだ。


「一昨日会ったばかりの人間に対して、態度で示したからわかれ、と言い切れてしまう傲慢さが、俺には心配に思えてならない。受けた教育の底が知れるというものだ。きっとお前の周りにはお前の身勝手さに寛容な大人が沢山いたのだろうな。お前の意図を全て察してくれる、絵に描いたような善人ばかりが」


 リナリスは眉を怪訝に動かすが、俺は構わず言葉を続ける。


「だが、彼らも思っていたはずだ。お前がどんな大人になるのか心配だと。理不尽と身勝手さで周りを振り回す人間のままでは、きっと苦労するはずだと。だが、幸いにしてお前はこのフリューゲスにいる。ミュリヤもシノもお前に教育などできない。ならばここはお前の王国だ。さぞ楽しい王国だな。お前だけが楽しい王国だ」


 冷静さを保っていたリナリスの表情は、俺が言い終える頃には怒りに赤く染まる。視線で人間が殺せるのならば、俺は今まさに彼女に射殺されているだろう。


「………………るな」


 彼女が、ぼそりと何かを呟いた。彼女と俺は、小さいとはいえ広場の端と端にいる。距離にして十五ヤードほどか。彼女の言葉は、俺には届かない。


 彼女が一歩を踏み出す。

 俺は瞬きをし、一秒にも満たない後に目を開く。


 ――その一瞬後の光景を、俺は正しく認識できなかった。


 パァンと、破裂音に似た音が広場に響いた。


 俺はあらぬ方向を見ていて、数秒の後にやってくるのは左頬の痛みだ。左手で頬を押さえ、無意識に正面を見下ろす。


 そこには十五ヤード先にいたはずのリナリスがいて、俺を下から睨んでいた。


「父様と母様を侮辱するな。侮辱するなら、私だけを侮辱しろ」


 その言葉だけを残し、リナリスは俺に背を向けて馬小屋に歩いていく。


 俺には、今起きたことの全てが理解できない。十五ヤードの距離を一瞬で詰めた、彼女の動きが。俺は頬をぶたれたのか。どうやって? わからない。到底人間の動きとは思えない。人間? 彼女は人間ではなく“天使”だ。


 “天使”にはそれが可能なのか。俺が瞬きしている間に距離を詰め、俺の目が開かぬ内に俺の頬をぶつことが。


 アルセレスの殲滅も、そういう人間離れした力を行使したのならば――。


 そこまで考えて、頭を振って思考を追い出す。

 左頬を擦りながら、俺はぼんやりと思い返す。彼女の義手は、そういえば左腕だったと。


 どうせならそちらで殴れば良いものを。

 こんな子どもに手加減をされたという事実が、俺をひどく苛つかせた。


 リナリスは寂しげな背中を俺に向け、穏やかな手付きで仔馬を撫でている。

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