第一章2

 ミュリヤが再三客間のベッドを薦めるのを断り、俺は倉庫の片隅で眠った。

 軍の訓練のお陰か、過酷な場所で眠るのには慣れている。機関工場の排水溝に侵入したことを思い出せば、どんな場所でも快適な寝床だと思えるようになったのは、果たして美徳とするかは考えものではあるが。


 浅い眠りから覚めれば、俺は自分がどこにいるのかを一瞬だけ見失う。


 倉庫には機関灯がない。

 昨夜は真っ暗だったこの部屋は今は朝陽に照らされ(陽の光も俺を混乱させる要因だった)、乱雑に物が置かれた状況を俺に見せる。


 特に、窓の横にある棚。


 その棚を埋める大量の木箱。

 ラベルもない木箱には二種類の大きさがある。

 大きめの酒瓶が入るものと、立たせれば俺の腰ほどもある大きなもの。


 何が入っているのだろう。

 手を伸ばし掛ければ、唐突に入口の扉が開いた。


「リィトさんおはようございます! 今日も良い天気ですね!」


 入ってきたのは、朝から無駄に元気なミュリヤだ。

 陽光にも負けない眩しい笑顔。まだ寝ぼけた俺は、その笑顔に目を細める。おはようと、無意識に返しながら。


 だがすぐに昨日とは異なるミュリヤのシルエットに気付く。


 義手が外され、右腕の肘まである生地がぷらぷらと揺れている。


 それは、俺の頭を覚醒させるには充分な光景だった。


 無骨さが消えれば少女らしさが戻るわけではない。

 四肢を欠損させた人間を、俺は初めてまじまじと見る。


 ミュリヤは俺の視線には気付かず、軽やかな足取りで棚に近寄る。器用に左腕だけで、棚から小さい方の木箱を取り出し、床に置いた。


 開ければ、そこには藁に包まれた金属の右腕が収められている。


「さっきレクトール河まで水を汲みに行ったんですけど、転んじゃって義手、壊しちゃったんですよ。ほら私、鈍くさいですから、ふふ。でもあんなに簡単に壊れちゃうとは思わなかったなぁ。アルセレスではもっと保ってくれたのに」


 もったいないもったいない~と自作の曲を口ずさみながら、ミュリヤは唐突に寝間着のワンピースを、左腕だけで器用に脱ぎ始める。


 俺が制止する間もなく、あっという間に薄手のキャミソールとドロワーズの下着姿になるミュリア。背中の小さな翼。まだ子どもとはいえ、女の下着姿など見慣れていない俺は咄嗟に視線を外そうとした。


 しかし、俺は視線を外せなかった。


 それはワンピースに覆い隠されていた。


 ワンピースを脱げば、断面が見えるのだ。


 未だ成長が訪れない胸部だとか、凹凸の少ない矮躯だとか。

 それらは注視するには値せず、俺は露出された彼女の右腕をまじまじと眺めてしまう。


 右腕には肩から握り拳分を残すだけで、先が存在しない。


 傷口を覆うように皮膚が集まり、八方に広がる痛ましい亀裂がある。


 ミュリヤ本人に気にする様子はなく、持ち上げた重たげな義手を左腕と脇に挟み、器用に僅かな右腕へと添える。「んっ……」と、僅かに艶やかな声を上げて、義手は嵌まる。


 残った右腕を覆う形状のそれは、正しくミュリヤのためにあつらえられた、ミュリヤの義手だった。


 ……だが、嵌まったからといって、義手が動く説明にはならない。


 しかしどうだ。添え当てられただけの義手は昨夜見たときと同じく、もうミュリヤの身体の一部だ。


 固定するものは無く、何らかの細工で僅かに残った腕と接続しているようにも見えない。義手は最初からそうであるように、肘を、指の関節を滑らかに動かす。


 握って、開いて。


 無骨な義手は、もうすっかりとミュリヤの腕として機能していた。


「よし、これで大丈夫です! さぁ、朝ごはんを食べてないのはリィトさんだけですよ。簡単なものですが、すぐに用意しますね」


 木箱とワンピースを両手に、ミュリヤは屈託無い笑顔を俺に向けて、倉庫から出て行く。


 頭に浮かぶ様々な疑問をぶつける暇もなく、俺は倉庫に取り残された。


 ともあれ、俺はゆっくりと頭を覚醒させながら着替え、ダイニングへと向かう。

 ソファに座れば、待ってましたと言わんばかりにミュリヤが朝食を運んでくる。


 いつの間に着替えたのだろう。黒と白の、簡易的なエプロンドレス姿のミュリア。

 用意されたのはバスケットに盛られたマフィン。それと半分焦げたスクランブルエッグと、端が全て焦げて丸まりはじめるベーコン。見覚えのある野菜スープ。


 運ばれてきたこれらに、俺は思わず眉根を寄せる。


「改めまして、おはようございます。今日は卵が届けられていたのです! この家には機関保冷機アイスボックスがないので、長時間保存しておくことはできないんですけど……」


 作った本人は、出来映えには頓着しないようだった。


「ミュリヤ」


 食器を手に取ること無く、彼女の名を呼ぶ。「は、はいっ!」と元気だけは良い返事だ。

 睨むように見上げれば、ミュリヤは暑くもないのに額に汗を浮かべている。


「な、なんでしょうか! 早く食べないと冷めちゃいますよ!」


「問題無い。それより訊きたいことがある。お前は、料理の経験はあるのか?」


 指差すのはスクランブルエッグ。

 通常、スクランブルエッグに黒色は混じらない。


「あ、その……、えぇと……。あの、その……」


「あるのか、無いのか」


「あり、ますけど……。その、ほとんど無いです……」


 俺は溜息を吐き、哀れむ視線をミュリヤに向ける。

 俺の態度に彼女は呆気なく先ほどまでの元気を失い、俯いて涙目になった。


「ならばどうして料理などをしようと思った。リナリスとシノはどうした」


「あの子たちはキッチンナイフを握ったことも無いんです……。だから、その……。ちょっとだけ経験がある私が、料理を担当することになったんです……」


 ならば仕方の無いことかと、俺は不機嫌ながらに考える。

 元よりヴァンケットのレストランやメイドの完璧な料理が、こんな場所で食べられるとは思っていない。


 ……しかし、それにしてもだ。


 俺は焦げたスクランブルエッグを口に運ぶ。

 焦げの苦みが口に広がり、スープで流し込む。味の無い野菜スープ。

 ベーコンも本来の味のみ。出来合いのマフィンだけがまともな料理だ。卵もまともに焼けないミュリヤに、こんなマフィンが焼けるはずがない。


「む、無理して食べなくても大丈夫、ですよ……?」


 涙目のミュリヤは、身を乗り出して俺の食事を止めようとする。

 だが、俺は不格好で無味乾燥な料理を黙々と食べ続け、あっという間に平らげた。


 腹はいっぱいになった。ならばそれ以上に求めることなど何も無い。


「食材を無為に捨てる必要は無い。出されたものは何でも食う。期待など、最初から何もしていないのだからな」


「ごめんなさい……」


 と、ミュリヤはともすれば俺の方が罪悪感を抱くような、申し訳なさげな表情を向ける。何度も頭を下げて、しかし最後に顔を上げれば、そこには強い意志を感じさせる表情があった。


「でも、もっと上手になってみせますから!」


 もう一度深々とお辞儀をして、ミュリヤは空いた食器を手早くキッチンに運んでいく。


 子どもというものが、本当にわからない。

 キッチンで忙しなく洗い物をするミュリヤ。彼女が俺のどの言葉にやる気を刺激されたのか、俺には皆目見当が付かなかった。


 ソファに深々ともたれ、深い溜息を吐く。

 見計らっていたように、俺の前にはカップが置かれる。


「でも、珈琲には自信があるんですよ!」


 食後の珈琲とは気が利いているが、俺は訝しげにミュリヤを見遣る。言葉通り自信に満ちた瞳が、俺に早く飲めと急かしている。


 おずおずとカップを手に取り、覗き込む。

 見た目は普通の珈琲だ。匂いも悪くない。

 が、数少ない経験上、彼女の言葉をはいそうですかとは信じられない。


 恐る恐るカップに口を付けて、一口含む。


 ――美味い。


 思わずそう言いかけて、俺は慌てて不機嫌な表情を形作る。


「……自惚れるな。ヴァンケットには、この程度の珈琲を出す店など山ほどある」


「そう、ですよね……! リィトさんは一等区に住んでいるのですから、これくらいで自惚れていてはダメですよね!」


 両手を、普通の左手と鉄の右手を握りしめ、ミュリヤは何度も頷く。


 不覚にも美味い珈琲の味に僅かばかり悪くないと思い、だがすぐに頭を振った。


 それから俺は寝床と決めた倉庫に戻り、一日の殆どをそこで過ごした。


 未だここに来て二日目だ。

 いつまでこの場所にいるのかわからない現状、時間はありすぎると言っても過言ではない。彼女たちと積極的にやり取りをする必要もない。


 夕食の時にはミュリヤが呼びに来た。食卓はほぼ無言で、時折ミュリヤが焦ったようにぽつぽつと喋り、リナリスが打ち切るように「そうだね」と言った。


 食器のぶつかる音。対面に座るシノの咀嚼音も聞こえる食卓。


 さすがの俺でも不安になる光景に、俺は早々にダイニングを後にして、倉庫に戻った。

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