第一章

第一章1

 結局俺は、逃げ出して帰ることなどできなかった。


 フリューゲスからハンナットまではガーニーを飛ばしても一時間。途中には幾つかの町も点在するし、徒歩という手段はそれほど非現実的ではない。


 だが、俺がこの任務から逃げ出し、ヴァンケットまで帰ったとして。


 そこに待つものは、きっと俺の望むものではない。


 “天使”は命令を放棄した俺を殺すだろうか。ナルルは幻滅するだろうか。何より、父上はもう俺に何も期待してくれないだろう。逃げ帰れば、どれだけ微かな期待も水泡に帰してしまう。


 “妹たち”が入浴を終えた頃には俺の気分も落ち着いてくる。家に上がる少女たちの気配を感じ、よろよろと立ち上がる。


 結局、俺は無力な天使近衛騎士だ。あの少女たちへの疑念は絶えないが、任務の放棄は許されない。


 陽が沈み、夜が訪れる廃墟のフリューゲス。


 ベルを鳴らし、俺の来訪を知らせる。

 ぱたぱたと軽やかな足音が聞こえ、「はーい!」と気の抜けた少女の声が続いた。


「どちら様……、じゃなかったですね。お待ちしておりました!」


 扉が開かれ、顔を出したのは一人の“妹”であり“天使”だった。


 歳は十四くらいだろうか。

 背は小さく、寝間着だろう膝下まである白いワンピースを着る少女は、控え目な笑顔を俺に向ける。珍しい滑らかな黒髪は腰まで伸ばされ、瞳は車窓から見た空の青だ。廃墟の家はなぜか機関灯の光に満ち、少女の真っ白な肌を照らす。


 だが何よりも特徴的なのが、右腕の無骨な義手。

 ドアに掛けられた手は工場に設置された機関機械に似て、少女にはあまりにもそぐわない。金属音も鳴らさず滑らかに可動する関節部。無音ゆえに蒸気が動力ではないのだろうが、見れば見るだけ不思議だ。少女のあまりにも少女然とした雰囲気に、見た当初の驚きは薄れているが。


「あ、あのぅ……」


 俺は自分の目的を告げるのも忘れ、食い入るように少女を凝視する。

 こんなどこにでもいるような少女が、“天使”であることに驚きを隠せない。


 俺の視線を受ける少女は、徐々に笑顔から困惑の表情へと変わる。白い頬は林檎のような鮮やかな赤に染まり、視線は俺の足下へと落ちる。時折俺を見上げ、その動きに黒い毛先が僅かに揺れる。まるで小動物だ。お姫様のような、人間を上から見下す傲慢さもない。


「わ、私の顔に何かついていますか……?」


「いや。綺麗な顔をしている」


「き、きれい!? あ、あぅ、あのあの……」


 生返事で答え、俺は少女を見下ろし続ける。


 疑問は尽きない。

 “天使”、アルセレスの殲滅、動く機械の腕。俺は目的も忘れ、好奇心のままに少女を観察し続ける。


「ミュリヤ、早くこっちに来なよ」


 そんな俺の意識を遮る声が一つ。ドアを開けた少女の声は柔らかく大人しげだ。こちらの声は低く擦れてこそいるが、少女らしい快活さも含まれている。


 廊下の先から顔を出す少女。目の前の少女と同じ白いワンピースに身を包み、少女にしては少し高い背丈はナルルと同じくらいか。


 少年のように短く切られた薄黄金色の髪ブロンドと、両目は透き通る碧。肌は白い。首にはペンダントを提げ、黄金色のそれは古びたロケットペンダントだ。


 彼女の歳は十六くらいか。だが、俺はやはり目を奪われる。少女の左腕と右脚を代替する、義手と義足。やはり滑らかに動く機械のそれ。


 そんな俺の値踏みの視線に、ブロンドの少女は苛立った表情を浮かべる。ずかずかと歩み寄り、黒髪の少女をドアから引き剥がす。「ちょ、ちょっとリナリス!」と抗議する少女を無視し、そうしてブロンドの少女は俺に言う。


「話は“お姉様”から聞いてる。さっさと上がれば」


 そう言い捨てて、俺を置いて突き当たりの部屋に入っていく二人。

 黒髪の少女は何か言いたげな表情をするが、ブロンドの少女の強引さには敵わない。


 残された俺はしばし呆然と立ち尽くし、しかしすぐに少女の言葉に従って家に上がった。


 こざっぱりとしたダイニングにはソファが二つ置かれ、そこに座った三人の少女は俺を、それぞれの表情で見上げている。


 黒髪の少女は申し訳なさげな表情で俺を見上げ、ブロンドの少女は不機嫌に俺を下から見下す。


 三人目の少女は特に感情も浮かべず動物の縫いぐるみを抱いたまま、風景でも眺めるように俺を見上げている。


 こちらの少女も綺麗なブロンドだが、肩胛骨あたりまで伸ばされた髪は緩いウェーブだ。瞳は青。白い肌。代替されるのは両脚。床に届かない義足を器用にぷらぷらと動かす様は、動きだけ見れば普通の脚と同じだ。

 歳は一番幼いのだろう。揃いのワンピースは一人だけ丈が合っていない。


 剣呑な雰囲気が、この部屋を包んでいる。その発生源は先ほどから敵意を剥き出しにする、一番年上であろうブロンドの少女に違いない。


 どうやら俺は、招かれざる客であるようだった。


「あ、あのぅ……」


 そんな空気を払拭するように、黒髪の少女が控え目に挙手して口を開く。


「リィトさん、ですよね……? わざわざヴァンケットから、こんな場所までお越し頂いてありがとうございます。何もないですし、お持てなしもささやかにしか出来ませんが、どうかご自宅のようにくつろいでください!」


 まるで台本を読んだような台詞だが、少女は満足そうに笑う。自分の役目を忠実に果たした、とでも言いたげだ。しかしすぐにハッと口元を押さえ、申し訳なさげに俺を窺う。


「あう、自己紹介がまだでした……。ミュリヤ、です。よろしくお願いします……」


 少女、ミュリヤにとってそれは大層な失態らしく、言い終えた後に「ばかばか、私のばか……」と自分の膝をぽかぽか叩いた。何がなんだかわからないが、俺はとりあえず一礼して、それを返事とした。


「シノです。よろしくです」


 ミュリヤがぶつぶつ自分を責めているのも余所に、次に口を開いたのは一番幼い少女。簡潔にそれだけを述べ、すぐに俺から興味を失い、抱いた縫いぐるみで遊び始める。


 シノ。つかみ所のない少女だ。小説雑誌ダイムノベルで読んだ空想上の存在、自動人形オートマトンのようだと思った。


「リナリス」


 最後に残った少女は、そっぽを向きながらそれだけを自己紹介とした。


 リナリス。俺に敵意を向ける少女。なぜ、出会ったばかりの少女にこんな対応をされなければならないのかと思うが、それはそっくり自分に返すべき言葉だと思った。


 俺の態度は、リナリスのそれと何ら変わらないはずだ。


 ならばリナリスが俺にこう接したとして、文句は言えない。


 これも任務だ。

 考えるべきことは山ほどあるが、この少女たちが見た通りの少女なのは確かで、ただの少女に怯えていても仕方が無い。


「俺はリィト=エヴァル。中央軍所属の天使近衛騎士。ヴァンケットにおわす“天使殿”の従者だが、今日からここでお前たちの面倒とやらを見ることになっているらしい。何をすれば良いか皆目見当は付かないが、よろしく頼む」


 そう言って“天使”にするように恭しく一礼をした。


 顔を上げれば、リナリスがつまらなそうに俺を睨んでいた。


「何それ。嫌なら帰れば良いじゃん。あんたみたいな無礼な人間に面倒なんか見てもらいたくないね。“お姉様”の命令だからって、無理に従わなくてもいいんじゃないかな」


「ちょっとリナリス! そんな言い方しちゃダメだよ!」


 睨み合う俺たちの間にミュリヤが割り込む。


「リィトさんごめんなさい!」


 俺に困った笑顔を向け、


「ねぇリナリス、なんでそんな怒ってるの?」


 リナリスの手を握り、不満げな顔を覗き込む。

 その真剣な眼差しに、リナリスはミュリヤから視線を外す。


「こいつが悪いんだ。なんだあの態度。騎士のくせに全然礼儀がなってないよ」


「礼儀がなってないのはリナリスだよ! 私たちお世話になる身なのに、そんなのダメ!」


「お世話? 私たちだけで問題ないのに、そんなのが必要なのかい? いくら“お姉様”の言うことだって聞けることとそうじゃないことがある。違う?」


 リナリスの言葉に、ミュリヤは「でも……」と歯切れ悪く食い下がる。


「“お姉様”の言葉は絶対だよ……」


 俯くミュリヤの言葉に、リナリスは呆れたように溜息を吐いた。


「そう、そうだね。“お姉様”は絶対だ。ミュリヤは何も間違ってない。でも、それが正しいことだとも、私には思えないんだよ」


 リナリスはそう言って立ち上がり、ミュリヤの手を振り解き、わざと俺にぶつかり部屋から出て行く。その後を追ってミュリヤも立ち上がり、わざわざ俺に一礼して、階段を上っていくリナリスの後ろ姿に声を掛ける。


「リナリス! ……夕飯は!?」


 部屋の前に置いておいて、と、掻き消えてしまいそうな声だけを残して。


 ミュリヤだけが部屋に戻り、もう一度俺に一礼する。

 上げられた顔には、申し訳なさが滲み溢れていた。


 シノなど、この剣呑な雰囲気でも縫いぐるみで遊び続けているのに。


「リィトさん、ごめんなさい……。リナリス、普段はあんな子じゃないんですけど……」


「いや、構わない」


 この幸先の悪さは、間違いなく褒められたものではないだろう。


 彼女たちと一緒に暮らすのならば、友好的な関係を築くべきだ。俺の子ども嫌いなど無視しなければならないはずだ。


 しかし俺は歓迎されていないようだ。仲良しごっこも望まない。


「夕飯、用意しますね。長旅でお疲れですよね? 大したものは用意できませんが」


 そう言って、ぴょこぴょこと頭を下げてキッチンへ向かうミュリヤ。「どうぞ、ソファに掛けてください」との言葉に従って、俺はシノの対面に腰を下ろした。


 シノは相変わらず、縫いぐるみで遊び続けている。


「シノ、といったか」


「ん」


「お前はどちらの味方もしないのか?」


 俺が口出しする理由はないが、言い争う二人を無視するその態度が少し気になった。


「ん……。わたしは、ふたりがそうするならそうするだけ」


 聞き取るのがやっとの声で、シノは言う。


「それはどういうことだ?」


「ふたりが違うことを言うとき、どうしていいかわからない」


「主体性が無いんだな」


「わたしはわたしがどうしていいか、よくわからない。ずっと、そうだったから」


 俺は心の底から素直に、シノが何を言っているのかわからなかった。


 ここにいるのは、俺の苦手な子どもたちだ。それもとびきり我が強いのと、子どもにしては気を遣いすぎるのと、主体性が無いのが一人ずつ。

 俺は変人学校の教師にでもなれば良いのだろうか。


 ふとキッチンに目を遣れば、ミュリヤが小さな身体を忙しなく動かして必死に料理を作っている。白いワンピース。その肩胛骨の生地が僅かに浮いている。


 “天使”の証。一対の翼。それは異形の証だ。


 俺がするのは、ただの子守ではない。異形の少女たちの子守なのだ。


 やがてミュリヤは用意した料理をテーブルに配膳する。野菜スープと、バスケットに盛られたマフィン。質素な食事だ。ヴァンケットでも三等区寄りの二等区辺りでなければ、こんな食事にはありつけないだろう。


「都会の味ってよくわからないので、いつも通りのスープなんですけど……」


「いや、問題無い。腹に入れば同じだ」


 一口含んだスープの味は、調味料とは無縁だと言わんばかりに薄かった。


 何も言わずにスープを口に運ぶ俺を、何度も不安げに見るミュリヤを無視し。


 俺はこの奇怪な生活に馴染まないようにと、強く心に刻んだ。

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