序章4
ナルルの言葉通り、フリューゲスには十八時に到着した。
町の入口にガーニーが停まる。
ナルルはそのまま、十九時の汽車に乗ってヴァンケットに戻るとのことだ。
俺は礼を言い、ガーニーから降りる。
「私の案内もここまでだ。君が無事に帰ることを祈っているよ」
「まったくその通りだと俺も思う」
「あぁ、それと。七日に一度はメルンに戻るように。ここでの生活を報告しろとのことだ。お姫様の意図はわからないけれど、忘れないよう心に留めておいてくれ」
「……相変わらず、あの“天使”は無茶苦茶を言う」
「それが私たち天使近衛騎士の役目だからね。……ともあれ、そろそろお別れだ」
ナルルは左手を挙げ、俺も同じようにして応える。
そうして歩き出せば、リィト、と、ナルルの声が背中に届いた。
ナルルからお別れだと言ったくせに、彼女は心配そうな表情を俺に向けている。
「君の今回の仕事の詳細はわからないが、あまり無茶はするな。君には君の目標があるんだ。これも勉強だなんて偉そうに言ったけれど、それでも本来の目的は失念しないでくれ。この仕事は、君の通過点でしかないんだから」
意外と心配性な友人なのだ。それがナルルの良いところだとも。
「あぁ、大丈夫だ」
迷うことなく、そう答える。
大丈夫だ。俺は絶対に、俺の目標を失念しない。父上に認めてもらえるその日まで、絶対に立ち止まらないと決めたのだから。
ナルルは俺の言葉に安堵したのか皮肉っぽく笑い、ガーニーを走らせ、あっという間に離れていく。
俺はフリューゲスに一人取り残される。
ここは町の入口だ。
小さなフリューゲスの町は確かに廃墟で、人間の気配を感じない。建物はそれほど劣化していないが、放置された町は至る場所が雑草だらけだ。革靴で来たことを後悔する。ヴァンケットが恵まれた街だったのだと、俺は今更のように思い知る。
町は人間がいて、始めて町として存在する。建物が並ぶだけの場所を町とは呼ばない理由は、手入れをされない建物たちが、ただ朽ちるに任せるだけだからだ。
イルヴァインでは一般的な、赤煉瓦の一軒家たち。共同住宅は一軒もない。
かつては商店があったのだろう、一際広い大通りを歩く。雑草に覆われゆく廃墟を進み、“妹たち”が住む家を探す。鳥たちの囀りが聞こえ、どこかで馬が鳴いた。かつて飼われた動物たちは野生に還ったのか。どこからか、河の音も聞こえてくる。
本当にこんな場所に、誰かが住んでいるのだろうか。
それほど広くない町を少し歩いただけで、俺の中には疑念が渦巻いてくる。
やがて入口の向かい側まで来れば、町外れのその場所には、これまで何軒も見てきたのと同じ、古びた赤煉瓦の一軒家がぽつりと建っていた。
その家の背後にあるのは、一面の大草原。
俺の記憶が正しければ、そこがアルセレスとの国境線。すぐ向こうにはアルセレス最南端の町、アイスラーがあるはずだが。
しかし、俺はその景色からすぐに意識を離す。
目の前のその一軒家から、少女たちのはしゃぐ声が聞こえてきたからだ。
廃墟とは無縁の、まるでかつて通った
向かい側の玄関から聞こえてくる。気配を消して、家を壁伝いに回り込んでいく。すると少女たちの喧噪に混じるように、軽やかな水の音が聞こえた。
恐る恐る、壁からそちらへと顔を出す。
そこに広がっていた光景に、俺は思わず息を飲んだ。
そこはきっと、楽園と呼ぶべき場所なのだろうと、俺は真っ先に思った。
庭に置かれた、旧式の機関給湯機の小さな風呂桶が一つ。
その風呂桶を囲み、今まさに入浴する裸の少女が三人。
しかし、それはやはりただの少女ではない。“天使”の力を分け与えられた少女たち。
背中にはお姫様のそれよりも随分と小ぶりな翼を一対。
三人が三人とも生やし、夕焼け色に照らされた肌は絹のように白く滑らかだ。
だが、俺にはそれ以上に目を奪われるものがあった。
楽園だと感じた印象は、それらのせいで、もう完全に消え失せていた。
彼女たちの四肢は、全員がいずれかを欠損させていた。
腕、脚。それだけならば、俺はただ驚いただけだろう。
その代わりに付けられていたモノ。
見たこともない金属製の代替物。義手、義足。
本来なら人間のカタチを整合するだけの代替物が、元からそうであるように動いている。
動く義手など知らない。機関機械の技術を集めても、そんなものは作れない。
裸の少女たちを見た罪悪感以上に、俺はそれらを目撃した衝撃に崩れ落ちる。
脳裏に浮かぶ疑問。
それは、根本的な疑問。
“天使”とはなんだ。そして、この場所には何がある? あり得るはずのない動く代替物を備えた彼女たちは、紛れもない“天使”だ。
“天使”。それが示すものは――。
家の影に隠れ、外壁を背にして、空を仰ぐ。
空は橙色に染まり、地平線の向こうに陽が沈む。排煙に覆われない、綺麗な空。
俺にはこの空が、陽光が、俺を嘲笑っているようにしか見えない。
ふと、今更のようにこの景色に違和感を覚え、改めて草原の向こう側へと意識を向ける。
入浴する彼女たちの向こう。広がる大草原。
そこにあるはずのアイスラーの町を探す。草原を隔てた先。フリューゲスとは違い、活気に満ちるはずの、その町を。
あるはずのアイスラーの町を、俺は見付けられない。
なぜなら、そこにあるのは
大草原は、国境線を境に消え去っていた。
代わりに広がるのは荒野だ。陽が沈みゆく地平線の果てまで広がる瓦礫の山。
……アルセレスの殲滅。
大逸れた計画だと鼻で笑ったその言葉を、現実的ではないと思考を放棄した“天使”の言葉を、俺は今更のように思い返す。
投げ出して帰るのなら今だと、俺の頭が訴える。しかし俺は一歩も動けない。
呑気に入浴し始める、“天使”の少女たち。
俺はいったい、これから何をするのだろう。
その疑問に答えてくれる人間は、ここには誰もいない。
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