序章3

 ヴァンケットからハンナットまでは五時間。

 ハンナットからはガーニーに乗り、一時間ほどでフリューゲスに着く。駅が近くに無いほどのド田舎ゆえに、到着は十八時頃だ。


 俺たちはこの長い旅路を、ひたすらお喋りに興じた。

 会話が途絶えれば窓の外の景色に目を奪われた。

 何度も見た一等区外の光景を、俺は飽きもせず記憶に刻み続けている。


 一等区には高層建築物メガ・ビルディングが林立し、車窓からでは街の全景を見渡せない。


 街の中心である特区の、議事堂と併設される大時計台やメルンを始めとした建築物たち。それを過ぎれば馴染み深い一等区へと突入し、未だ建築物は空に近い。


 二等住宅区に突入すると景色は一変し、建物は車窓からでも全景を臨める。

 中流階級が住むこの街には低層の共同住宅アパルトメントや一般的な一軒家が並び、面白味のない景色が続く。

 特区を中心に区画は同心円状に分かれ、二等区画は一等区画の倍ほどもある。


 それを過ぎれば、貧民街であり工場区である、三等区だ。この街がヴァンケットの大半を占める。


 再び景色は一変し、窓の向こうには今にも崩れそうな建物がちらほら目に入る。浮浪児だろう子どもたちの姿も。

 安い共同住宅ばかりのこの街だが、その間からは空を目指す機関工場の煙突が生え、そこから排出される煙が空を灰色に染め上げる。幼少の頃には青かった空は、今やただの一日も晴天を見せない。


 貧民街の惨状を、俺自身が見たことはない。

 知り合いは誰も近寄るべきではないと言う。どれほどに危険な街だとしても、一度は訪れておくべきだとは考えている。


 そんな道中だが、ハンナット行きの汽車には付き添いがいる。

 アルセレスから流れるレクトール河だ。イルヴァインを縦断するこの河の変化もまた、イルヴァインの現在をよく表している。


 三等区画を境に、河はただの汚染水に成り下がる。

 機関工場が垂れ流す工場排水の所為で、誰も河には近寄らない。あの腐敗臭は服にさえこびり付くと言われている。


 しかしヴァンケットを抜ければ、同じ河とは思えないほどに澄んだ透明色になる。

 その変化を見るのが、俺の密かな楽しみだった。


 長いこと景色に目を奪われていれば、ナルルからの視線を感じた。

 何がそんなに面白いのだろう、彼女はにやにやした表情で俺を見つめている。


「いいね。リィトとの議論はいつも私に刺激を与えてくれるけど、そうして見識を広げようとするリィトの姿も、それはそれで刺激になる」


「ナルルはたまに、よく意味のわからないことを言う……」


「そうかな。まぁ、汽車の旅ももうすぐ終わってしまうけれどね」


 ナルルが言うのと同時に、ロウエン山脈を抜ける長大な隧道トンネルは終わりを迎え、技術大国イルヴァインとは思えないほどに長閑で穏やかな風景が広がる。


 機関機械とは無縁な田舎の風景。

 それと薄黄色の霧や分厚い雲とは無縁な空は、呆れるほどの蒼天だった。


 間もなく、汽車は終着駅であるハンナット駅に到着する。

 けたたましい汽笛を合図に、乗客は歩廊へと降りてゆく。


 俺たちも続けば、歩廊では一人の女の子が泣き声をあげて立ち尽くしていた。


「うわあぁぁん! おかあさあぁぁん!」


 母を呼ぶ女の子の声が響く。

 終着駅とはいえ、ド田舎のハンナット駅にはそれほど客の姿はない。多くない乗客たちは女の子を無視し、さっさと改札へと向かっていく。


 それを眺める俺も、女の子に声を掛けたりはしない。


 ……なぜなら俺は、子どもが致命的に苦手だからだ。


 だが、ナルルはそうではない。

 俺のように無視を決め込まず、すたすたと女の子へと歩み寄り、その前にしゃがみ込む。


「よーしよし、良い子だね。母上とはぐれてしまったのかい?」


 小さな手を取り、ナルルはにこやかに笑って問い掛ける。俺には絶対に見せない、皮肉さとは無縁の明るい笑顔だ。


 対称に、涙を流し頷く女の子の様子はとても痛々しい。


 女の子は職人製ハンドメイドの純白のドレスを身に纏う。

 それは上流家庭の子女であることを示し、何度も呼ぶ母親からは沢山の愛情を注がれているのだろう。


 だが、ナルルがなんとかしてくれるのなら、俺は知らぬ存ぜずを貫くことにする。


「それは困ったね。でも大丈夫。私と、あのお兄さんがなんとかしてあげるからね」


 ……聞き間違いでなければ、ナルルは今、確かにそう言った。


 驚きを隠せずナルルを見れば、もう俺の手は強引に引っ張られている。


 女の子の前に立たされれば、きょとんとした表情が俺を見上げる。


(お、おい、ナルル。君は、俺が子どもが苦手だと知っているはずだ)


 声を潜めて抗議すれば、ナルルは怖い表情で俺を睨む。


(リィト。君は国を知らなければならないのだよ。国を良くするのだろう? なら手始めにこの女の子を助けてあげるべきだろう?)


 なんという論理の飛躍だ。

 更に抗議を続ける俺を遮り、にやにやした笑みを浮かべ、五歩分後ろに退いた。決して声が届かない距離ではないが、俺の抗議は声にならなかった。


 スラックスのポケットが引っ張られたからだ。見下ろせば、涙目の女の子は不思議そうに俺を見上げていた。


「おにいさんが、わたしをたすけてくれるの……?」


「いや、俺は……」


「ふぇ……」


 再び泣き始める女の子。どうしたら良いのかわからず慌ててしゃがみ込み、小さな頭に手を置く。さらさらの髪を優しく撫でてやれば、女の子は泣くのをやめる。

 安堵して手を離せば、また「ふぇ……」と泣き始める。再び撫でる。離せば、再び泣き始める女の子。


 何がどうなっている。

 縋る視線をナルルに向ければ、彼女はまだにやにやした表情で俺を眺めている。今度は抗議の視線を向けるが、彼女は我関せずと笑う。


「ふふん、リィト。君は本当に子どもの扱いが上手だね」


「なぜ俺がこんなことをしているんだ。こういうのは、ナルルの方が得意だろう」


「不得手は克服しないとね、リィト。君はこれからお姫様の“妹君”と生活する。ならば願ってもいない状況だ。その子を助けられたのなら、君の任務もきっと上手くいくはずさ」


 ただ、その仏頂面は直した方が良いね。そう付け加えるナルルだが。


 表情はともかく、それはそうなのかもしれないが……。


 女の子の、キラキラとした大きな瞳が俺を捉えている。


 俺は子どもが苦手だ。だが、子どもたちは俺を苦手だとは思わない。

 メルンの最上階で“天使”の護衛をする時もそうだった。時折迷い込む子どもたちは、なぜか俺を一直線に目指してまとわりついてくる。俺はその度に困惑し、ナルルはそんな俺を見て笑うのだ。結局はナルルが親の元に帰してやるのだが。


 女の子が俺を見上げる。ナルルは相変わらず助けようとはしてくれない。


 どうやら本格的に、俺がこの子の面倒をみなければならないらしい。


 腹を括る。面倒で面倒で仕方がないが、ナルルの言い分も一理ある。だが俺に出来ることなど限られるので、流されるままの自分に辟易しながら駅員室に向かう。


 その、矢先だった。


「ティカ!」


 誰かの名前を呼ぶ、職人製のドレスを着た、俺の一回りは年上に見える淑女。慌てた様子で歩廊を駆けてくる淑女は俺たちの……、いや、女の子の元へと駆け寄ってくる。


「おかあさん!」


 女の子は淑女を母と呼び、掴んだ俺のスラックスを離して淑女に駆け寄る。今にも転びそうな危なっかしい走り方で、実際に転びかけたその瞬間に淑女が女の子を抱き寄せた。


「もう、だからお母さんの手を離しちゃダメって言ったでしょ!」


「ごめんなさい……」


「知らないひとにも話しかけちゃダメでしょ? お兄さんも困ってるじゃない」


「うぅ……。でもおにいさんは、わたしをたすけてくれようとしたんだよ……?」


 女の子の言葉に、母親は驚いた様子で俺を見る。俺は困惑を隠せず一礼して、否定も肯定もしない。ティカと呼ばれた女の子の言葉は間違っていないだけだ。


「あら、それは申し訳ないことをしたわ。落ち着きのない子だから……」


「いえ、お母様がいらっしゃったのなら、それが一番喜ばしいことです」


「そう……、そうね。ともあれ、ありがとうございました」


 ほら、ティカもお礼を言うの。そう促されて、ティカも「おにいさん、ありがとう!」と言った。もう世界の終わりのような剣幕で泣く様子はどこにもなく、ティカの表情はこの青空のように晴れ渡っていた。


 そうして親子を見送り、俺たちも改札へと向かう。


「勿体ないことをしたね、リィト。君が苦手を克服できると思って楽しみにしていたのに」


 いつの間にか隣に並ぶナルルがそんなことを言う。


「物騒なことを言わないでくれ。親子が再会できたのは喜ばしいことだろう」


「君の子ども嫌いも大概だ。それじゃあ浮浪児の一人も助けられない。“妹たち”なんて以ての外だよ」


 ナルルの言葉は尤もだが、面白くなさそうに唇を尖らせる彼女の言葉を額面通りには受け取らない。友人とはいえ、俺に苦手な子どもを押し付けた所業を許せるはずなどなかった。


 改札から出れば、再び親子と出くわした。


 ティカが俺に手を振った。呑気なナルルは手を振り返し、俺は母親に一礼するだけ。手を繋ぐ親子は、俺たちに背を向けて歩いて行く。


 ふと、思う。この光景はイルヴァインにおいて、そうありふれているものではない。


 汽車から見えた、三等区の浮浪児たちの姿を思い出す。

 あの場所には、親を亡くした子どもたちが沢山いるだろう。親の顔を知らない子どもたちもまた沢山。明日を迎えれない子どもたちも、同じく。


 俺はその子どもたちが哀れでならない。国の発展と共に手に入れたのが三等区に住む彼らの不幸ならば、それはやはり早急に解決しなければならない問題だ。


 だが、俺は苦手をすぐには克服できないだろう。見識を広めるのとはわけが違う。

 ナルルは同じだと言うのだろうが、俺には到底そうは思えない。


 俺たちは用意してあったガーニーに乗り込み、フリューゲスへと急ぐ。


 予定通り着けそうだと、気分良くハンドルを握るナルルが言った。俺はそうか、とだけ答え、流れるハンナットの景色を眺めていた。

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