序章2

 自宅である積層型高層共同住宅メガ・アパルトメントに戻り、機関昇降機で最上階へ。一等住宅区の、その一等地に建つこの建物の七十階のフロアは全て、エヴァル家の財産だ。


 父上は平民の出身だと聞く。若かりし父上は己の能力と知識のみで上流階級へと成り上がり、今では第一院議員でも一目置かれる存在だ。


 父上の口癖はこうだ。


「この国では能力のある者だけが生き残る。財産ももちろん、能力の内だ」


 幼少期を貧しさに堪え忍んだ父上は、金こそが全てだと言い切る。三年前に購入したこの家は、ヴァンケットの住宅街でも一際空に近い場所にある。


 安心や安全を金で買えるのなら、大金を払ってでも手に入れるべきだ。

 都市を覆う蒸気や霧が人体に有害なのは明白だ。議会は口を噤むが、最下層である三等住宅区の裏路地や貧民街スラムに脚を伸ばせば、公害による奇病で死にかける浮浪者たちがゴロゴロ転がると聞く。あの区画は機関工場が織り混ざるように住宅区画へと進出し、ゆえに排煙や霧の影響が一等区とは比べものにならない。


 高い場所に住むのは、少しでも霧や街路の通風管から昇る蒸気から逃れる為だ。

 雲と見分けが付かない上空の排煙よりも、それらから逃れる方が重要だ。

 周辺国は黄色い霧はヴァンケットの象徴だと言うが、住民からすれば文字通り煙たいお荷物でしかない。


「お帰りなさいませ、リィト坊ちゃま。昼食はどうなさいますか」


 玄関を開ければ住み込みの家政婦メイドが出迎え、恭しく声を掛けてくる。


「必要無い。またすぐに出る。あと、しばらくは戻ってこられそうにない」


 ぶっきらぼうに答えれば、「かしこまりました」と平坦な声が返ってきた。


 自室へと戻れば、家政婦の仕事が行き届くお陰か、今朝よりも部屋は整頓されている。俺は旅行鞄を用意し、旅行まがいの任務の準備を始める。


 “天使”の命令で、俺を頻繁に国内各所に向かう。例えば、用途不明の小型の機関機械や、低俗な三流新聞タブロイドの隅に載った地方の銘菓だ。目的の物をその日の内にお姫様に献上する任務が主だ。


 同僚からは「お姫様はリィトにご執心だ」とか「俺も日帰り旅行で賃金を貰いたいぜ」などとからかわれるが、俺からすれば一日中スイートの入口で棒立ちする方が万倍もマシだ。


 休憩時間に隣の議事堂を見下ろすのだ。

 霞む地上から父上の姿は見付けられないが、父上の近くにいる実感が俺を目的に近付けてくれる気がする。


 今回の行き先はフリューゲス。栄えた都市や政府や軍の規律とは無縁の地。

 廃墟の町で、任務は子守。機関製の安物のシャツやスラックスを数枚詰め込み、必要最低限の日用品を詰める。父上のお下がりの鞄は、はち切れんばかりにパンパンになった。


 机に置いた銀の懐中時計をポケットに突っ込み、ふと思い出して引き出しを開ける。


 そこには一丁の、小型の回転式拳銃リボルバーがある。


 しばし考えた後、俺はそれを鞄に無理矢理突っ込む。準備が過ぎて困ることはない。


 特に、自分の身を守るためならば。

 そう自分に言い聞かせて、俺は間もなく家を出た。


 機関昇降機を降りれば、広間にはなぜか見知った顔がいた。


「やぁ、リィト。もう準備は出来たのかい?」


 彼女、ナルル=ファイマはいつもの皮肉げな表情で俺を見上げる。


「あぁ。だが、ナルルが俺の心配をする理由は?」


「お姫様からの命令だよ。リィトの案内エスコートをしてやれってね。あの御方は君と事務的な会話をしたがらないだろう? 細かい説明も含めて、雑用はいつだって私任せさ」


 肩をすくめてそう言う彼女は、平時より気の抜けた表情だ。

 友人の機微くらいはわかる。大方俺の気苦労も知らずに、案内を小旅行と勘違いしているのだろう。


「まさか淑女レディに案内される日が来るとはな」


「騎士に淑女もないだろう。未だに私を女扱いするのは君くらいのもんだよ、リィト」


「で、俺の一日騎士様はいったいどこまで案内して下さるんだ?」


「目的地のフリューゲスまでさ。安心安全の旅を保証する」


 向こうに蒸気自動車ガーニーを用意してあるんだ、と彼女は言い、俺の手から鞄を取り上げ外に向かう。


 確かに、俺はガーニーを運転出来ないが。慌ててその女性にしては大きな背を追えば、彼女は通りで有料ガーニーを捕まえる。俺を無視してさっさと乗り込む図々しさは相変わらずだ。気心が知れているが故なのだろうが。


「バルメディエ駅まで飛ばしてくれ。昼の汽車に間に合うように」


 運転手にそう告げて、彼女は溜息を吐いて座席にもたれる。珍しく悪戯な表情で俺を見遣り、「リィトがのんびりしているからね」と悪態まで吐かれれば、俺にはもう何も言えない。


 ガーニーはヴァンケットの一等住宅区を駆ける。昼時の街中は人通りも多く、ゴミゴミとした印象が強い。今日は霧が濃く、時折道路にはみ出た老人や露商を轢きそうになるが、運転手は器用に、縫うようにそれらを避けていく。


 ガーニーの発明は機関機械の発達に伴う。道は急激に整備されたが、昔ながらの辻馬車が走る様子が、未だ市民たちが新しい技術に慣れない状況を表している。


「ヴァンケットの街並みも、ここ数年で一気に変わってしまったね」


 慣れないガーニーに乗り視線をあちこちに移す俺に、ナルルは感慨深そうに言う。


「リィトは快く思っていないのだろう? イルヴァインが機械化の影響で、こうして姿を変える様が」


「機関機械の発達に関しては、そう悪い感情は抱かない。イルヴァインがより良い国になるのなら、それは一市民として歓迎するべきことだと思う。……だが」


 二等住宅区まで延びるこのプラディネス大通りからは、無数の裏路地が延びる。一等住宅区とはいえ、裏路地に入れば大通りの清潔な雰囲気からは一気に懸け離れる。


 今し方通り過ぎた裏路地には、数人の浮浪児ストリートチルドレンがたむろしていた。


 俺の見間違いでなければ、浮浪児たちは倒れた男の身ぐるみを剥がしていた。


「ヴァンケットは、いや、イルヴァイン全体が疲弊している。機関機械が発達する以前には考えられなかった状況が、この国を病魔のように蝕んでいる」


 彼女も裏路地を見たのだろう、俺の言葉に少し表情を曇らせる。


「リィトの言いたいことはわかるよ。機関機械で得られる利便性は、この国に大きな格差を招いた。その恩恵を受けられる市民と、食い物にされる市民だ。私たちは運良く前者でいられるけど、リィトがその状況を良く思わないことも知っている」


 でも、とナルルは厳しい表情を俺に向ける。


「そんなのはリィトの父上たち政治屋が議論することだ。私たちみたいな軍人が考えるべきことじゃない。天使近衛騎士は、お姫様のことだけを考えればいい」


「俺はこんな職務に意味や意義を見出せない」


「寂しいことを言うんだね。リィトがこの仕事を足掛けにしか考えていないのは知っているけれど、友人である私も、同じように無意味だと斬り捨てるのかな?」


「……ナルルは大事な仲間だ。こんな仕事でも感謝すべきことがあるなら、それは君のような良き友人に出会えたことだ」


「ならば今はそれで良いだろう。君とは幾度も政治屋紛いの議論を交わしたけれど、君のそれは未だ感情的な理想論に過ぎないよ。こんな職務でも、見識を広める手段にするんだ。もっと国や市民を知れば、きっと父上も認めてくれるはずさ」


 彼女がそう言えば、ガーニーは丁度良くバルメディエ駅のロータリーに進入する。


「まぁ、リィトが仮に議員様になったとして、その時には是非私を付き人として雇ってほしいね。こうして君の予定を管理する私なら、きっと役に立てるはずさ」


「確かに君がいなければ、今頃俺は途方に暮れていただろう。……だが、君のような優秀な人間が俺の下で働く姿など、想像し難い」


「私たちは良き友人同士なのだろう? 心優しいリィト君は友人の申し出を簡単に断る非道い男じゃないと、私は信じているよ。……まぁ、それは冗談としても、私でよければ力になるから、いつでも頼ってほしいのさ」


 ナルルは先程の皮肉げな表情を再び俺に向け、運転手に料金を支払った。話はここでお仕舞いというわけだ。


 彼女が言う通り、俺は未だ何も知らない。理想論ばかりを振りかざす、国を憂えた気の若造に過ぎない。臆面無く本音をぶつけてくれる彼女がいなければいつまでも、俺は深くを考えない若造のままだったはずだ。


 ガーニーから降りて駅に向かう彼女の背を追いつつ、気付けば荷物はやはり彼女が持っている。だがやはりどう考えても、彼女が俺の付き人をする姿など想像できなかった。


 そうして俺たちはバルメディエ駅の構内を進む。ヴァンケットの中心である特区の、イルヴァイン一巨大な終着駅ターミナル。地方都市の終着駅から、ヴァンケット内を張り巡る地下鉄駅まで、国内のあらゆる主要地へと接続アクセス可能なこの駅は、今日も大いに賑わう。


 昔ながらの職人製ハンドメイドのスーツを着た老紳士。地方からの出稼ぎだろう、機関製のシャツとスラックスの中年男性。華やかなドレスを着こなし、煤避けの傘を手に持つ女学生。この駅を宿代わりにする浮浪児たちが俺の足下を駆け抜け、先頭の浮浪児がぶつかる中流階級的な身なりの男性が「財布を返せ!」と喚き立てた。人の流れは更に入り乱れ、男性の声は硝子ガラスの天井に反響して消えた。


 この終着駅は、地方の国民の夢や憧れの的だ。貧富の差という現実から目を逸らし、貴族のような華やかな暮らしを夢見て。彼らが地下鉄で目指す三等区には、安い賃金と劣悪な環境を提供する機関工場しかないというのに。


「リィト、よそ見をしていちゃダメだよ。ほら、乗車券」


 人混みに流されて進む俺の前にナルルが現れる。シャツの胸ポケットに乗車券を突っ込まれ、そうして初めてこの場所に呑まれているのを自覚する。


 右手を掴まれる。「お上りさんや少年じゃあるまいし」そう言う彼女は俺を引っ張りスイスイと人混みを縫い、あっという間に改札へと辿り着く。


 駅員に乗車券を提示し、ハンナット行きの汽車が停車する歩廊プラットフォームへと急ぐ。駆け込み乗車すれば、間もなくけたたましい汽笛が鳴った。ナルルは大袈裟に溜息を吐き、俺に呆れた視線を寄越した。


 指定の座席に座れば、俺はようやく今回の任務に考えを巡らせる余裕が出てくる。


「しかし“天使”も無茶苦茶を言うものだ。フリューゲスがどんな町なのか、俺はよく知らない。今は廃墟だと聞くが」


「その程度の情報で充分だよ。機関工場の乱立に伴い、住民たちは質素な暮らしを捨てて首都を含む各都市へと移住した。彼らの現在はあまり考えたくないけれどね。あの町はもう町としての機能を果たさず、ただ風化に任せる廃墟さ」


 そう説明する彼女には調べる時間があったのだろうか。毎度のことだが、“天使”は面倒な話を全てナルルの口から話させる。


「だがさっきお姫様から聞いたと思うけれど、今はお姫様の“妹君たち”の内の三人が住んでいる。住民たちが残した家を使い、質素で慎ましい借り暮らしをされているそうだ」


「そもそもなぜ、その“妹たち”はフリューゲスなんかでそんな生活をおくっているんだ。あのお姫様と同じく、絢爛豪華で優雅な暮らしをしているべきじゃないのか」


 俺の根本的な疑問にナルルは少し呆けた表情になり、しかしすぐに皮肉げな表情を作る。


「リィト、ようやくやる気を出してくれたのかい。いつまでふて腐れているのかと、私は内心冷や冷やしていたんだよ」


「……別に俺は、職務に不誠実なわけじゃない」


「何を言っているんだ。君はやる気が出ると身振りがつくのを知らないのかい?」


 自分の手元を見下ろす。ボックス席の向かいに座る彼女の鼻先に突き付けるように、俺の右手は舞台役者みたいに伸ばされていた。


 ……自分にそんな癖があるなど、これっぽっちも意識したことなどなかった。


「まぁ、それは良いんだ。どうせ説明しなければならないことなんだから」


 ナルルはそう言い、その端正な顔を俺の耳に近づける。彼女の淡いコロンの甘い匂いが鼻をくすぐった。潜めた声は、汽笛の音に掻き消されることなく俺の耳に届く。


「……とは言ったもののね、“妹たち”の情報はほとんど知らされていないんだよ。お姫様も、意図的にその情報を避けていた」


 彼女は乗り出した上半身を元に戻し、申し訳なさそうな表情を作る。


「私の役目は、あくまで君を予定通りフリューゲスに送り届けること。お姫様が話さないのならば、少なくとも私が耳に入れるべき情報ではないのだろうさ」


 俺は、“天使”が口にした「アルセレスの殲滅」という言葉を思い出す。


 もしそれが事実ならば、それは確かにナルルが知るべき情報ではないのだろう。アルセレスが本当になくなったのなら、それは多くの人間を混乱に陥れるはずだ。


「……関係無い話だが、ナルルはアルセレスという国をどう捉えている?」


「どうしたんだい、藪から棒に」


「いや、大した意味はないんだが」


 俺の言葉に、ナルルは顎に手を当てて考える。


「そうだね……、心神深い国だな。イルヴァインとは正反対で、新しい技術に興味を示さず、昔ながらの質素な生活を守っている。あとは蒸気機関機械の動力源である石炭が豊富に取れる国だ。あの国との外交無しには、今のイルヴァインは回らないはずさ」


「では、もしアルセレスが一夜で無くなってしまったとしたら……?」


「物騒な話じゃないか。悲しむひとは多いはずさ。心神深い国でも、国民全てがそうじゃない。最近はアルセレスからの移民も多いという話だからね」


 なるほど、と俺は相づちを打って、与えられた情報について考える。

 だがそんなあり得るはずのない突飛な想像よりも、俺は俺自身の心配をするべきだ。


 フリューゲスには、いったい何が待つのだろう。


 俺が面倒をみるという“妹たち”は、果たして何者なのだろう。


 今更ながら、俺の胸の内には不安が渦巻いていた。

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