序章

序章1

「じゃああたしの可愛いリィトには、今からフリューゲスに行ってもらいましょう」


 “天使”のその一言は間違いなく、俺を暗闇のどん底に突き落とす言葉だ。


 証拠に、“天使”は俺の表情を愉快げに見下ろす。

 極薄のレースの向こう、天蓋付きのベッドにおわす異形のお姫様こと“天使”は、従者の俺の困惑を生き甲斐とする。


 首都ヴァンケットの最高級ホテル『メルン』。その最上階スイートを五年先まで独占する“天使様”は、さぞ箱入り暮らしに辟易される。退屈なのはお互い様だ。俺だってお姫様と二人、絢爛豪華でだだっ広い部屋に閉じ込められるのは嫌なのだ。


「北方の隣国、アルセレスとの国境沿いにある、あのフリューゲスですか」


「そう。何も無い辺境の、退屈で死にそうな、あのフリューゲス」


「ですが、天使殿――」


「ミコトと呼びなさいって、いつも言っているはずだけれど」


 不満を押し殺した声は遮られる。


「……ミコト殿」


「あたしとリィトの仲でしょ? ともあれ、そんなことはどうでも良くてね」


 四つん這いでにじり寄る“天使”。

 レースの間から顔だけを出し、蠱惑的な表情で俺を見上げる。


 “天使殿”は服を嫌う。だから一糸纏わぬ白い柔肌と、背中の一対の、身体を覆うほどの純白の翼が薄らレース越しに見えるが、俺は極力見ないよう視線を逸らす。


「フリューゲスに行って、あたしの“妹たち”の面倒を見てきてほしいの」


「ミコト殿にご姉妹がいらっしゃるとは、存じておりませんでしたが」


「血の繋がった妹ではないわ。あたしの力の一部を分け与えた子たち。彼女たちにはアルセレス方面の殲滅を任せていて、それももう一段落しているはずね」


 どうでも良さげに言い放つが、俺には“天使”の言葉が理解できない。


 アルセレスの殲滅。そんな大逸れた計画を、父上が黙認するはずがない。議員たちが真しやかに囁く周辺国制圧計画は噂だけの空論で、その準備が進められているとして、そんな大規模な軍備を国民に隠し通せるはずがない。


「アルセレスの殲滅などという話を、私は寡聞にして存じません」


「そりゃそうよ。だってあたしと王様の二人で決めたことだもの」


 象徴だけの王にそんな権限があることにも驚きだが……。不服そうな表情をしているだろう俺を見て“天使”はまた愉快げに表情を歪める。


 突拍子もない話だ。“天使”の“妹たち”然り、アルセレスの殲滅然り。


 そもそも、俺が“天使”の世話係を務める現状こそが何よりも突拍子がないことには目を瞑るとしても。


 しかし俺がフリューゲスに行って、それが何になるというのか。


「アルセレスの殲滅を担当したのは三人の“妹たち”。彼女たちはそこで質素な暮らしをしている。次の作戦に備えている、とも言えるわ。だからあなたを彼女たちの世話係に任命してあげるの」


「ですが、そうなるとミコト殿のお世話は……」


「代わりは幾らでもいるでしょう。リィト一人があたしの騎士様ナイトじゃあないのだから」


 “天使”はベッドから立ち上がり、ゆっくりと俺に近寄る。

 豊満な胸を揺らし、形の良い腰を扇情的に振って。そうして俺の左肩にしな垂れかかり、蠱惑的に俺を覗き込む。


 それらを見ないよう心がけても、どうしても視界に入る。異形のお姫様と呼ばれるくせに、その翼から目を逸らせば普通の少女のようだ。


「それともあたしの夜の相手をしてくれるのかしら? どうしてもって言うなら、あたしはリィトをここに住まわせてあげてもいいのだけれど?」


「いえ、それはあまりにも勿体ない申し出であります」


「あたしが良いって言ってるのに?」


「はい。私のような下賤な一般人が、ミコト様に触れるなど滅相も御座いません」


「本当はそんなこと、少しも思っていないくせに」


 つまらなそうに唇を突き出し、“天使”は再びベッドに腰を下ろす。そうして足先で扉を指して、興味を失った表情で俺を見上げた。


「じゃあさっさと行きなさいな、あたしの可愛いリィト。昼の汽車に乗らないと、今日中にフリューゲスには辿り着けないわよ」


 俺は深々とお辞儀をして、“天使”の言う通りに退室した。去り際の「“妹たち”によろしくね」という言葉を無視したのは、俺に出来うる最大の反抗だった。


 長い廊下の突き当たりの、機関エンジン昇降機エレベーターを呼ぶ。最高級ホテルに相応しく、メルンには最新式の機関エンジン機械マシンがあちこちに配備される。


 百階を超える最上階まで数十秒で到着する機関昇降機これもその一つだ。到着した筺に乗れば、間もなく地上に到着する。大勢の客で賑わう広間エントランスを素通りし、ドアマンに会釈して回転扉をくぐり、外に出る。


 正面のプラディネス大通りは、今日も人通りが多く賑わう。人混みに紛れて歩き出し、しかし緊張から逃れたゆえに、大きな溜息を吐いてしまう。


 俺は、俺の目指す目標から日に日に遠ざかっている。


 父上の志を継ぎ、立派な議員となり我が国イルヴァインをより良くする、という目標だ。


 俺はまだ十八歳の若造だ。しかし議員にはなれずとも、父上の仕事を間近で見聞し、僅かでも補佐できるはずだ。そのための勉強を惜しまなかった。何より、父上もそれを望んでいるはずだと信じていた。


 だが父上は俺に軍に入れと命じた。父上の言葉は絶対だ。将校となり実績を積めば、代えがたい財産となる。父上もかつては軍の将校であったと聞く。父上と同じ道は苦ではないが、現実として俺は目標から大きく遠ざかっている。


 五年前に突如として現れた“天使”は、イルヴァインの国王を始めとしたお偉い方の注目の的だ。


 彼らはなぜ翼の生えたただの少女にそこまで執着するのか。俺は“天使”の間近にいる数少ない人員だが、あの女が特別な存在だとは思えない。アルセレスの殲滅など、口から出任せを言っているとしか思えない。


 俺はこんな場所で道草を食っている場合ではない。天使近衛騎士などという閑職で一生を終える気はない。もちろん、あの女が言った“妹たち”の世話など以ての外だ。


 空を見上げる。遠くの機関工場群や、地下から昇る蒸気を垂れ流す通風管ダクトからの排煙は今日も空を灰色に染め上げる。街にも薄黄色の霧が立ちこめ、横を通り過ぎた老紳士がゴホゴホと咳いた。


 イルヴァインはここ数年で技術大国と成った。蒸気機関機械の発展が大きく貢献した。だがその代償として、国は瞬く間に疲弊したように感じる。大量に排出される蒸気。それに伴う公害。それらは、今すぐにもなんとかしなければならない問題だ。


 しかし当然、俺に“天使”の命令を無視することは許されない。


 それは父上が望む俺の職務であり、今の俺は“天使”の従者でしかない。


「目標と、今やらなければならないことと、か」


 呟いたその葛藤に歯を食いしばり、俺は一等住宅区画にある自宅へと向かう。


 あの女の命じた、フリューゲスに行けという命令に従うためだ。

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