風化

 獣が見知った人間の声で人語を話す。

 人生でまず出会うことのない状況である。

 若者は沈黙し、しばし静止した時が流れる。おそらく、しばらくは若者が茫然自失し、言葉を発することは出来ぬと踏んだ獣が、口を開きかけた瞬間。


 若者は破顔し、けろりと言った。

「なんだ、あんただったのか。改めて、ありがとな!

 ――で、さっきの人型と今の姿、どっちが本体?」


 呆気にとられるのは、獣の方であった。

 数瞬の後、獣はさも可笑しそうに、喉を鳴らした。まさか、そんな答えが返ってくるとは予想もしなかったのだ。

 笑いを収めて、答える。

「さてな。それは難しい質問だ。どちらもそうであり、どちらもそうではない、というのが正しかろう。

 まずは、私の事はよい。お前が先程落とした物……、それは、調色板パレット、であろう?」


 若者は再び目をみはり、それから表情を厳しく引き締める。

「なんで――一目でそれが分かる?調色板なんて、今じゃ使う人はほとんど居やしない。歴史上の遺物みたいなもんだ。

 それに、さっきの機巧の事故のときもそうだ。あんた、やっぱり――」

「――私が、機巧に起きた風化をするのを見たのだろう?そして、私が何者かを確かめるために、追ってきていた。

 分かっているよ。

 だから、試すために、あえて危険なこの林に誘導したのだがな。

 まさか、風化に自ら飛び込むとは……無茶をしてくれる。助けぬわけにもいかぬだろうよ。おかげで、もうしばらく様子見をする予定が狂ってしまった」


「へえ、無茶をした甲斐があったな。

 ――大物が釣れた」

 若者が、にかっ、と笑う。

 獣は嘆息して、若者をうながした。

「――いいだろう、着いて来い。

 今からでもお前をけぬでもないが、私もお前に興味がわいた。

 場所を移そう。――話が長くなりそうだ。ここでは落ち着かん」

 若者に異論のあろうはずもない。

 獣と少年は連れ立って歩き出し、若者がその後に続いた。


 雑木林の中、周囲を木々に囲まれた空間に、小さな泉があった。泉の周辺は柔らかく草が萌え、荒れた林の中でささやかな生命の息吹を感じさせる。

 獣は草の上に身を横たえた。少年はそこに寄り添い、豊かな毛並みに顔をうずめ、時折その背中を撫でる。

 若者は獣の向かいに位置取り、小さな岩に腰を下ろした。

 ともすればどこか牧歌的とも見える光景の中で、若者の顔だけがどこまでも真剣だった。


 獣が口を開く。

「その調色板は、お前の、母君の物か?」

「ああ、母さんの形見だ」

「形見とはいえ、無茶をする。お前まで死んでは元も子もなかろうに」

「これを捨てたら、俺が俺でなくなる。それなら生きてても意味がない」

 若者はこともなく言い、調色板を大事そうに懐に直す。


 そして、獣に鋭く問いかけた。

「――で、あんた何者?」

 獣は若者の視線を静かに受けとめる。

「……。というより、むしろこう聞きたいのではないか。私は、式師なのかと。この子と私が二人で一対の、式師なのではないかと」

「話が早くて助かるな。で、そうなの?」

「その答えはな、半分は正しくて、半分は間違っている、だ」

「……どういうことだ?」

 獣は少年を見つめ、答えた。

「私は式師ではない。式師は、この子だ。現存する、最後のな。

 最後にして、最高峰の式師。それがこの子――ナユタだ」


 獣の答えに、若者は驚きと戸惑いを浮かべた。そして、矢継ぎ早に問いかける。

「……ちょっと待てよ。さっき俺は確かに、あんたが風化を修復するのを見たぞ。単なる推測だけど、それが式師の能力なんじゃないのか?逆に、その子、えと、ナユタ?だっけ――には、言っちゃあ悪いがなんの力も感じない。いや、力どころか、意思も、感情も感じない。まるで、――よくできた機巧みたいだ。それに、最後のってどういうことだ?やっぱり、式師はもう絶滅して――」

「少し待て」

 重々しく静止した獣に、若者は思わず口を閉じる。


「そう一度に問いかけられても、答えられぬ。いや、答えることはできる。 だが、お前が知りたいことはそれだけではあるまい。

 お前の疑問に全てに答えるには、やはり最初から、順序だてて話す必要があるだろう」


 獣は、しばらく、どう話すべきか逡巡しているようだった。そして、口火を切ったのは、一見的外れともいえる質問だった。

「風化とは――、何であろうな?

何であり、その原因は、どこにあると思う?」

「……はぁ?」

 若者はきょとんとする。あまりにも根元的な質問だったからだ。


「そんなこと、答えられるやつはいないだろう。今だって、風化をなくす為に世界中の人間がそれを探してる。それが分かれば解決したようなもんだろ。原因が分かればどうにだって対処できるじゃんか」

「そうとも限らぬ。

 原因はな、明白なのだ。本当は誰にだってそれを答えることが出来るのだよ。全ての人間が、それを毎日目の当たりにしているのだから。いや、目の当たりに、とでも言った方がよいのだろうかな」

獣の言葉に、若者は顔をしかめる。

「……わりぃ、よく意味が分かんねぇ。はっきり言ってくれないか」


「前提から間違っているのだ。今はもう失われた言い回しだが、過去には――

「……ちょっと待てよ。まさか――」

 獣は言った。

 

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