追跡

 申の刻。昼下がりの大通りは通行人も多い。人波、あるいは機巧に遮られながらやっとのことで都を抜けた頃には、既に獣の姿は見えなくなっていた。

 それでも息を整えながら、若者は必死に周囲を見回す。


 と、都の西方、どうにか視認できる程度の遠方に、跳躍する獣が見えた。

 少年とはいえ、人一人を乗せているというのに、体重を感じさせないほど軽やかに地を駆ける。その特異さは、見間違えようもない。先程の一人と一匹だ。

 若者は深く息を吸うと、獣を追って走り出した。


 四半刻は走っただろうか、依然として獣に追いつくことは出来ない。だが――と、後を追いながら、若者は疑問に思う。

(追いつけない――でも…なぜだ?。時計台の上にまで一瞬で飛び上がれるあいつなら、本気で走れば俺程度を振り切るなんて、造作も無いはずだ。

 だけど、速度を上げない。そして、緩めもしない。まるで…、まるで、俺を誘導してるみたいだ)

 疑問はある。向こうからすれば見知らぬ追跡者など、邪魔でしかないはずだ。それを振り切らない理由などあるのか。あるとすれば果たしてそれは何なのか――?


 だがしかし、若者は考えるのをやめた。

 獣にどんな思惑があろうと、ここで追うことをやめるという選択肢は若者にはない。

 あの獣が何者かを確かめるまでは、追跡を諦めるつもりはなかった。


 そのまま追い続けていくうち、やがて獣の行き先に気付き、若者は少し目を見張った。

 おそらく手入れするものが途絶えて久しいのであろう、ひどく荒れた雑木林がそこにはあった。

 果たして、獣はその林へ跳び込んでいく。


 「風化」は、例外はあるものの、基本的には人との交わりが希薄になったもの、『人々が必要としなくなったもの』に発生しやすいことが知られている。

 都から外れた、管理のされていない雑木林などその最たるものだ。風化の温床となっていてもおかしくない。

 もし林へ入ったなら、風化により幹を削り取られた倒木に巻き込まれ、大怪我をする可能性もあるだろう。いや、それだけならまだしも、風化に直接触れてしまう危険性すらある。

 人が風化に巻き込まれた場合、無機物と同様に塵となりかき消えるという訳ではない。肉体そのものはダメージを受けない。

 だが、記憶を失い、言語を失い、最悪の場合思考力すら失って廃人となることもあり得る。

 それら全てを理解した上で、ただの一瞬も迷うことなく、若者は獣に続いて林に飛び込んだ。


 刻は未だ昼過ぎ。まして今は暖の候、日が落ちるにはまだ早い。だが、うっそうとした林は昼なお暗く、見通しが悪い。所々にある朽ちた倒木や、枝葉をごっそりと失った樹木は、この林で頻発しているであろう風化を物語る。

 生き物の気配は薄く、この雑木林がただ朽ちて行くのを待つばかりの空間であることを感じさせた。


 そんな林の中を若者は獣を追って駆ける。奥へ、奥へ。

 だが荒れ果てた林は、伸び放題の草や倒木に足を捕られ、ひどく走りにくい。

 さらに、林に入るまでは、若者と着かず離れずの距離を保っていた獣であったが、今は、ぱたりと姿が見えなくなっていた。

 獣を見失った焦りが、さらに若者の足どりを不安定にする。


 と、その時であった。

 若者の左斜め前方、数メートルほどの距離で、直径一メートル程の空間が突如として球形に。具体的な現象としてはすなわち、そこに生えていた数本の木々が、地上と繋がっていた幹を根こそぎ(文字通り)奪われ、結果何が起きたかというと、若者に向かって倒れてきた。


「う、っわ!!」

 走りながらかろうじて身をよじる事でそれを避けた若者だったが、その拍子に足を滑らせ、派手に転倒してしまう。

 その衝撃で、若者の服から零れ落ちたものがある。それは、ごく淡い色をした、掌ほどの大きさの二つ折りの樹脂板だった。


 樹脂版は撥ね跳び、左前方――すなわち、の方向へ転がっていく。

 風化は徐々に侵食を広げ、このままだといずれそれは飲み込まれることは確実だった。

 だが、所詮は単なる落し物である。若者は風化を避けることに成功した。幸運にも。ならば、一刻も早くこの場を離れるのが普通の行動だ。


 しかし、若者は普通ではなかった。

「――っ!!」

 樹脂板の行き先を確認するや否や、若者はためらいもなく風化に

 いや、その表現は正しくない。若者は、樹脂版を拾うための最短経路をとったに過ぎない。ただそれが、減速を考慮していないがゆえに、樹脂板を拾った直後に若者の体は風化に呑み込まれることが明らかであるというだけだった。

 そんな状況で、若者は、自らの状況など気にも留めていないようであった。

 ただひたすらに、自らの落し物を必死に追い、無事、樹脂板を手に掴んだ時には、安堵したような笑みを浮かべてすらいた。

 自分が一瞬後には風化に呑まれることが分かっていても。


 ――ごぅっ!!

 ふいに、突風と浮遊感に包まれて若者は目を見張る。

 眼下に、遥か十メートルは眼下に、先程まで立っていた雑木林と、自らを呑み込みそうになっていた風化が見える。

 跳んでいる――いや、飛んでいる。


「ははっ。なーんか既視感デジャヴュ

 ――助けてくれて、ありがとな」


 背中に少年を乗せ、自分の襟首をくわえて飛んでいる一匹の優美な獣に向けて、若者は笑顔で礼を言った。


 風化から充分に離れた距離に、獣はふわりと着地する。若者は地面に静かに降ろされ、自分の足で立ち上がり、獣と対峙した。

 獣の背から少年も降り、獣に寄り添うように立つ。


 若者と、獣の視線が交錯した。

 そして、獣が口を開く。


「つくづく――、可笑しな男だな」


 若者は思わず目を丸くし、絶句する。

 獣が言葉を喋った事に――ではない。それにも無論驚いたが、それ以上に。

 初めて聞くはずのその言葉と、その声に、紛れもなく聞き覚えがあったからだ。

 

 歴史資料館で出会った、あの青年の声だった。

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