少年と獣

 資料館を出て、若者は当てもなく通りを歩いていた。

「結局資料館でも大した収穫はなし、か。というか、いい加減、探し方を変えた方がいいのかもな…」

 若者は考える。古都タテワクでも求める図書が無かった以上、この大陸のどこにも有る事は期待できない。そもそも、文献自体が風化により消失しているのだ。

 ならば――、資料に頼ることをやめるべきではないか。

 先ほどの青年との出会いを思い出す。式師の情報は口伝で残るのみ、との案内役の言葉も。

 存外、「記録」を探し回るよりも、「記憶」に頼ったほうが良いのかもしれない。大陸中を回り、人と情報の集まる場所を巡り、噂を集めるのだ。

 大半は馬鹿馬鹿しい与太話だろう。だが、その中にわずかでも真実が隠れていないとは限らない。

 砂漠の中で砂金粒を探すような話だが、何もしないよりはましだ。どうせ行く所などないのだ。

 そんなことを考えながら歩いていた若者は、無意識のうちに来た道を戻っていたらしい。気がつくと、見覚えのある、時計台が見える大通りに出ていた。

 そこで若者は、絶句する。いや、あくまでそれは比喩であり、実際には思わず叫んでいた。

「まだいんのかよ!? あの子!!」

 そこには、資料館に向かう途中で出会ったときとなんら変わらぬ様子で、美貌の少年が地面に向かって夢中で絵を描いていた。

 ――いや、なんら変わらぬ、という言い方は正しくない。先ほどは道端に居た少年は、おそらく地面の端を絵で埋め尽くしてしまったためであろう、今や大通りのど真ん中にまで進み出て、木の枝を走らせていた。

「あー……。もー。保護者は何してんだっつうの…」

 若者は頭を抱える。だが、そう焦った様子はない。ただ単に呆れている様子だ。

 大通りには二輪や四輪、あるいは飛行機巧が無数に走っている。その中の一台でも少年に当たれば無傷ではすむまい――いや、少なくとも重症を負うことは確かである。

 それでも若者が慌てることがなかったのは、機巧が自動制御装置を備えていることを知っていたからだ。操縦者が何もしなくとも、障害物があれば自動で機巧のほうが避けてくれる。

 ――はずだったのだ。本来なら。

 突如、無機物が破壊され散乱したかのような――いや、実際にそうなのだろう――騒音と数人の悲鳴が上がり、大通りは緊張に包まれた。

 若者から見て、少年が居る場所のさらに前方、大通りの曲がり角から猛スピードで一台の二輪機巧が飛び出してきた。――周辺の店舗を破壊し、商品を蹴散らしながら。

 異常事態であることは明らかだった。

 若者からはまだかなりの距離があるが、操縦者が悲鳴を上げ、必死で訴える言葉が若者にも届いた。

「風化――、風化だ! 制御装置が効かない! 『制御装置が風化した』!! 止まらないんだ、減速できない。頼む、逃げてくれ!!」

 言われるまでもなく、通行人は蜘蛛の子を散らすように逃げ出している。走行中の他の機巧は、その制御装置によって自動的に安全な場所に乗員ごと避難している。

 瞬く間に、大通りは暴走車専用通路となり、通行人の姿は消えた。

 ――ただ一人を除いて。

「あの…っ、馬鹿!!」

 瞬時に、若者は全速力で走りだす。

 大通りの真ん中では、今にも襲いかかろうとする暴走車に目もくれず、全く同じ格好で一心に絵を描き続ける少年の姿があった。

 このままでは少年は跳ね飛ばされ、少なくとも重症は免れない。最悪の場合死すらありえる。

 若者は自らが暴走車の餌食になる危険性など考えもしていないように、真っ直ぐに少年に――当然その向こうには暴走車が迫ってきているわけだが――向かって駆ける。

 だが、圧倒的に距離が離れすぎている。どれだけ急いでも、暴走車が少年にたどり着く方が早いことは目に見えていた。

 それでも若者は一縷(いちる)の望みにかけ、足は緩めない。

「馬鹿やろう! 状況、分かってんのか!? 逃げろ! ――頼む、避けてくれ!!」

 ――その時だった。

 若者の横を掠めるように、一陣の突風が吹きぬけ、若者は思わずたたらを踏む。

 いや――風ではない。ただの風ではない。あまりにも迅速に走り抜けた「それ」が、その速度ゆえに突風を引き起こしたのだ。

「それ」は瞬く間に少年に追いつき、拾い上げ、ただ一度の跳躍で時計台の頂上にまで跳んだ――いや、飛んだ。

 そして、音も立てずに着地し、眼下の人々を見下ろす。

 陽光を受けて輝く、一匹の狼だった。

 否、その表現は正しくない。あくまで、人々の語彙力で表現するとするなら、狼というのが一番近い、というだけだ。

 それはただの獣というにはあまりにも巨大で、優美で、そして神々しかった。

 直前まで少年が居た場所を走り抜けた暴走車は、突如として減速し、動きを止めた。

「…あ? な、何でだ? 制御装置が、効いている…『再生した』…!?」

 操縦者は、呆気に取られたように機巧を見ている。周囲の通行人も同様だ。

 ――だが、若者は見ていた。

 少年を救った一匹の獣―らしきもの―が暴走車を一瞥した瞬間、制御装置が再び働きだし、暴走を止めたのを。

 若者は、吸い寄せられるように獣を見つめている。

 一瞬、視線が交錯した。獣は、その瞳に明らかな知性の光をたたえていた。

 ふいに、資料館での案内役の言葉を思い出す。

『――風化を修復する能力を有していたとされ、二人一組デ行動するのが常だったとい言われています――』

 人々が呆然としている間に、少年(今は獣の背に乗せられている)と獣は身を翻し、時計台の向こう――すなわち都を去る方向へと跳び去った。

「待て、――っ、待ってくれ!!」

 今から追ったところで、到底追いつけるはずもない。それでも、若者はこのまま少年と獣を見逃すことは出来なかった。

 若者は獣の後を追い、再び全速力で走り出した。

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