電池

洞貝 渉

電池

 リモコンの電源ボタンを押したのに、テレビがつかない。

 私はしぶしぶリモコンをひっくり返し、電池をとり出した。前回電池を交換したのはいつのことだったかと考えつつ、とり出した単四電池を手の中で転がす。

 電池の買い置きはしていないから、こうゆう時に困ってしまう。わざわざ電池のためだけに買い物へ行く気にもなれないし。

 手の内でカチカチと音を立てる電池をぼんやり眺めていると、ふいに、呼びかけられた気がした。


 顔を上げれば目の前には真っ黒な画面のテレビがある。

 私は条件反射でリモコンの電源ボタンを押してしまい、すぐに今しがたリモコンから電池をとり出したばかりだったと思い出す。

 電池の入っていないリモコンを片手に、私は苦笑した。少し疲れがたまっているのかもしれない。

 気になっている番組があるにはあるのだが、そのうちレンタルで見ることができるようになるだろうし、せっかくの休日をテレビの前で過ごすのもつまらない。

 電池の買い物ついでに、いっそどこかへ遊びに出かけようかと考えていると。


「おーい、出てこーい」

 テレビから声がした。

 どこか聞き覚えのある声が電源の入らないテレビから聞こえ、私はまじまじと真っ黒な画面を眺める。

 何の変哲もない黒い画面が、次の瞬間、ふにゃりと歪んで見えた。

 はっとして、落ち着きなく使い古しの電池を手のひらで擦り合わせる。

 まさか、そんなことがあるわけがない、と思いはするものの、電源の入っていないテレビ画面はぐにゃぐにゃと蠢き続けた。


 私は警戒心よりもやや好奇心が勝り、波打つ黒へと恐る恐る手を伸ばしてみる。

 しかし伸ばしたその手が何かに触れることはなく、黒の表面をすり抜け、そのまま画面の内側に入り込んでしまった。

 ヒヤリとした感触にあわてて画面から手を引き抜いたけれど、その拍子に持っていた単四電池を画面の内側に落としてしまう。

 手を黒の外に出すと、テレビ画面はぴたりと蠢くのを止めた。



 ぞわぞわと鳥肌が立つ。

 口の中はからからに渇いていた。

 バクバクと暴れる心臓をなだめながら、今のは一体何だったんだろうと首をひねるけれど、考えてもすぐにはそれらしい答えは出てきそうになかったので、とりあえず何か飲んで落ち着くことにする。

 私は冷蔵庫を開き、中を覗いた。

 何もない。

 飲み物も野菜も卵も味噌も、何もない。それどころか、物を入れるためのスペースすら見当たらない。


 よくよく観察してみると、冷蔵庫の内側が黒々とした何かに塗り潰されていた。

 黒い何かは見られているのが不快だったのか、先ほどのテレビ画面同様ぐにゃぐにゃと蠢き出す。

 どうしていいのかわからない私は、黒にそっと顔を近づけ、あのう、すみませんと声をかけてみた。しかし黒は私の呼びかけに全く反応しない。

 一体全体、これは何なんだろうと懸命に考えてみるけれど、頭が痛くなるばかりだ。

 大方、疲れて幻でも見ているんだろう。そうだ、そうゆうことにしておこう。

 だから、冷蔵庫の内側を塗り潰す黒も、ただの幻にすぎないんだ。


 私は、深く考えずに、ともかく飲み物を取り出してみようと決める。

 大丈夫、大丈夫だと呪文のように心の内で繰り返して、冷蔵庫の内側に広がる黒へ手を差し入れる。

 たぶんこの辺りにコーヒー牛乳の紙パックがあったはず、と黒の中で手をさまよわせていると、唐突に、何か柔らかくてふかふかしてあたたかいものに触った。

 驚いて手を引くと、黒の中から一匹の黒猫がとび出して来る。

 私はその黒猫に見覚えがあった。そういえば久しく見てはいなかったけれど、黒猫は近所の公園でたびたび見かけていた人懐っこい野良猫で、私は勝手にクロと名付けて呼んでいた。


 黒猫は、クロと声を上げた私には見向きもせず、一目散に開けっ放しになっている洗濯機の中へとび込んだ。

 洗濯機の中を覗き込むと、入れっぱなしにしているバスタオルのかわりに黒々とした何かがどろりと入り込んでいる。

 おーい、出てこーい、と影も形も見当たらないクロに向かって呼びかけてみるけれど、反応はなかった。

 私は何かしらを考えようとしかけたのだけど、やっぱり何も考えないことに決めて、洗濯機のふたを閉める。


 コーヒー牛乳はあきらめて扇風機でも回して涼もう、と意識的に黒々とした何かのことは忘れた。

 洗濯機も冷蔵庫もテレビも視界に入れないよう努めて扇風機を見ると、ちょうど羽が収まっているまるい部分がまるごと真っ黒になってる。

 あっという間に扇風機の真っ黒い部分から黒い鳩が現れ、部屋の中をゆったりと散策し始めた。

 私はその黒い鳩にも見覚えがあった。だけど、最後に見たのはいつのことだったか。黒い鳩は最寄り駅にいる鳩の中で一匹だけ全身が黒かったので、私は勝手にヒヤケと名付けて呼んでいる。


 ヒヤケ、とささやくようにひっそり呼びかけると、黒い鳩は急に散策するのを止めて羽ばたき出し、私の横をすり抜けて電子レンジにとびついて消えた。

 いつの間にやら電子レンジのガラスでできたドア部分が真っ黒になっている。

 ヒヤケはこの黒の中に入ったらしい。

 考えることも、必死になって考えないようにすることもすっかり嫌になってしまった私は、次に何が起こってもいちいち驚かないようにしよう、と決めた。


 もう、どこに黒が出現しようとも、そこから何が出てこようとも、絶対に反応しない、と。




 なのに、いきなり軽快な音楽が鳴り出すものだから、私は早速びくりと反応してしまう。


 音源は炊飯器だった。ごはんが炊けたのを知らせるメロディーが鳴っただけなのだけれど、そもそも私は炊飯器をセットした覚えがない。

 外側からぱっと見たところ、炊飯器におかしな所はないけれど、ふたを開けて中を調べてみるべきか、このまま放置しておくべきか……。

 悩んだ末におっかなびっくり炊飯器のふたに手をかける。

 炊飯器を開けるのは怖いけれど、開けずに放置しておくのはもっと怖かった。

 ままよと炊飯器を開くと、中からすらりと人間の右手が生えてきた。


 右手はくねくねと宙を踊っていたけれど、炊飯器の縁を見付けるとそこに手をかけ、頭から順にぐいぐいと身体を引っ張りだし、ついには炊飯器から這い出て一人の人間の姿で私の隣に並んで立った。

 この人、どこかで見たことがあるなぁ、なんてぼんやりと眺めていたら、にこりと笑いかけられてしまう。

 相手の笑顔を見て、その人が一体誰なのか思い当たってしまい、頭の中が真っ白になった。


 この人は、私だ。


 炊飯器の中から、ワタシが出てきた。



「今まであまりにも当然のようにして身近にあり、その存在を忘れてしまうくらいだったものがさ、突然ナクナルのって、言葉だけ聞くと、とてつもないことのように感じるけどさ」


 ワタシは私に、まるで仲の良い友人に語りかけるかのように親しげに言葉を吐き出す。


「案外、どうってコトないのかもしれないよ?」


 ごくごく自然な動作で、限りなく不自然な存在のワタシは私に手を差し出してきた。


「公園の黒猫がいなくなったって、駅の黒い鳩がいなくなったって、誰も気にしたりしないよね。

 せいぜい、あ、今日はいないな……そういえば最近見ないな……なんて思う程度で。

 それだって、時間が経てば黒猫や黒い鳩がいたということそれ自体を、みんなみんな忘れてしまう」


 私は条件反射で差し出されたワタシの手を握る。


 ワタシが私の顔でニヤリと笑った。


「ヒトは順応する生き物だよ。

 テレビや冷蔵庫、洗濯機、扇風機、電子レンジや炊飯器。

 そのどれか一つでもナイと困るけれど、ナければナイでどうにかやっていくことも、できなくはない。

 できないことでないのなら、なんとかやってのけて、そのうちナイという状態が普通になっていく」


 ワタシが握る手の力を強め、ぐいと引き寄せてきた。


 私はワタシにされるがまま、引っ張られて抱きつかれる。


 ワタシは私の耳元に口を寄せ、そっと言葉を吐いた。


「ま、要するにすぐ慣れるさって話だよ」



 言葉が終わると同時に、私はワタシの身体の中に吸い込まれる。


 視界が黒一色に塗り潰され、右も左も、上も下もわからない空間に投げ出された。


 大声で誰かに助けを求めようとしたけれど、どんなに頑張っても声がでない。


 ふわりと体が浮かび上がるのを感じた後、どこか狭い所に押し込められた。


「もっとも、順応できるか否かはどうあれ、私は嫌だけどね」


 どこからかワタシの声が降ってくる。


「いつもの風景から猫一匹、鳩一匹抜け落ちるのも。抜け落ちたことに気付きもしなかったり、簡単に忘れ去ってしまうのも。

 日々の生活に役立つ家電が使えなくなるのも、もちろん嫌。特に、その存在を忘れてしまうくらいあまりにも当然のようにしてある電池が、急にナクなってしまってリモコンが使えず、テレビが見られない、なんてことは我慢できないね」


 ぱちりとふたの閉まる音がして、私は閉じ込められる。

 遠くから、テレビのにぎやかな音が聞こえてきた。

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