本編

「次の交差点を、左でお願いします」


 岩城裕子は、運転手の男に声を掛けると座席に深く座り直した。金属団地の三差路を過ぎた辺りから極端に車の数は減っていて、この勢いなら目的地の歯科医迄それ程掛かる事はない。裕子は、診察券の裏に記載された予約時間を再度確認して安堵した。


 それにしても、カーナビゲーションが搭載されていないタクシーも今時珍しい。外見的には普段利用するタクシー会社の車両と相違無い気がして何の気なしに乗り込んだが、注意して観察すると料金メーターの脇に添えられている身分証明書は、全体が薄茶色に変色していて資格番号や取得日付が読み取れない。


 だが、それが悪意ある偽装なのか、経年劣化による汚れなのかは判断し難い。


 ただ、職業柄曖昧な事を見過ごすのにも躊躇いを感じる。国会調整員である裕子は、慣習通り自分の車を持たない。それは、与野党の議員暴動を抑える者としての心構えの一つに過ぎない。全てに中立な立場を取る為には、高額な商品には手を出さないのが一番だと幾度となく上司に叩き込まれてもいる。個人の趣味趣向が暴動鎮圧に僅かでも加味されてはいけないし、政界の重鎮達に少しでも弱みを見せれば、直ぐにそこから綻びを見付け出し暴動を正当化する向きも否めない。


 そんなこんなで、裕子の所属する調整員団体も食事に関する物以外の全てを専属のコンサルティング会社に委託している。住まいや衣服は勿論。生活に必要なものを全て他者に委ねている。裕子自身も自由を制限されている自覚があるが、それを置いても調整員という誇り高き職業に就けたことに感謝する気持ちを忘れた事は無い。勿論、移動手段も委託内容に含まれていて、市内を移動する場合。料金と認知度を考慮すれば、彼らのセッティングするタクシー会社は私が乗車している青い車体に白い丸が目印の、水玉タクシー以外には考えられない。


「運転手さん、いつものあの方、熊谷さん?と違うけど、あの方はどうしたの?」


 裕子の問いに、運転手の男はバックミラーを少し動かし視線を合わせた。


「熊谷は、逮捕されましたよ」


 抑揚の無い粘りつくような声で運転手の男は答えると、直ぐにバックミラーを定位置に戻した。


「どうして、逮捕なんか……何か悪い事でもしたの?」


 犯罪者で無ければ捕まる筈が無いのだが聞き返さずにはいられなかった。


「お客さん、調整員なんでしょ? 国会議員と毎日やり合ってるなら守秘義務って言葉知っているでしょう?」


 運転手の男は、ミラーを再度こちらに向けて答えると、又直ぐにミラーを戻した。


「知ってはいますが……」


 話したくないのであれば、逮捕等と言う強い言葉を出さなければ良いのにと思う。いや、調整員の立場を弁えず、他人の話しに興味を抱いた事自体が悪い。裕子は、そう思い直しそのまま視線を窓の外に向けた。


 一瞬、見覚えの無い通りを進んでいるような不安感を覚えたが、馴染みの中華飯店を見付けて安堵する。暫く、運転手の男は何事も無かったかのように黙したまま運転を続けていたが、再度バックミラーを動かした。


「逮捕の話しは出来ないけど、お客さんが喜ぶ別の話ならしてもええよ」


 運転手の男は、どこの方言かも分からないイントネーションで呟くと、バックミラーを片手で操り裕子を足元から舐める様に眺めた。


「千我渡り鮪って……知ってるか?」


 赤信号で車が停止しても、運転手の男は前を見ず、強い視線を裕子に向け続けている。


「千我渡り鮪。千円札の千に、我思うの我、後は渡り鮪。どんな料理にも合うし、毟った羽を煎って飲むと珈琲みたいで最高なんだよ!」


 信号が変わるのと同時に呟く運転手の男。言われて、文字の想像は出来たが、例えが上手いのかは分からない。察するに、運転手の男は千我渡り鮪なる生き物の事を話したくて堪らないといった様子だ。裕子は、興味無い鮪の話しに乗るしか無いように思えた。


「その渡り鮪って魚が、何か?」


 待ち焦がれていたかように、運転手の男は一度微笑んでから今度は一変して不機嫌な表情を浮かべた。


「はぁ?  魚じゃないよ、知らないの?  九州じゃ、有名だよ? そう、知らない……チッ!」


 突然、苛立ちを表に向けた運転手の男は、小さく、しかし、ハッキリと裕子に分かるように舌打ちする。


「ですから、その渡り鮪が、どうなされたのですか?」


 運転手の男に恐怖を感じる事は無かったが、適当にあしらうのも躊躇われる。


 裕子は出来るだけ丁寧に訊ねた。


「あぁ……その千我渡り鮪のさ、卵、卵がさ、捕れるのよこの辺りで!」


 運転手の男は、左に大きくハンドルを切ると、タクシーを路肩に寄せて息を荒げた。そのまま、身体を運転席と助手席の隙間から伸ばし身振りで後方のビル群を示す。


「はぁ……」


 裕子は、ため息に似た相づちを返した。運転席の男には悪いが、千我渡り鮪等と言う言葉を聞いた事も無ければ、未知の生物にも興味は無い。


「あっ! ホラッ!」


 突然、運転手の男が叫んだ。隙間から乗り出した身体を激しく揺すり、酷く興奮している様子だ。


「ホラ! 言ってる端から! 見て! ホラ! 見て! ホラ! 右の窓越し!」


 裕子は、戸惑いながらも運転手の男が指し示す窓に視線を移した。


「な……なんですか?……あれ?」


 思わず声が漏れた。ビル群の遥か上空。視界の端に何かが蠢く。肉眼で確認出来るという事はかなりの大きさだ。


 それは、艶やかで黒々とした何か。


 鳥の様に見えるが、鳥では無い何か。


「だから、あれが千我渡り鮪!」


 運転手の男は、再度叫んで運転席側の窓に顔を擦り付けた。その顔が滑稽に変形している事も全く気にしている様子でもなく、いや、むしろグイグイと更に押し付ける事で自分の顔を醜く歪めたいのだろうとさえ思える。


「あぁ……ちょっと、もう、我慢出来ねっ! ちょっと待ってな! 内竿を……」


 運転手の男は、言葉を発する事さえもどかしい様子で車外に飛び出した。裕子も、急いで運転席の後ろの窓から上空を見上げる。


 直ぐに、運転手の男はトランクから何やら太い棒状の物を取り出し両手に構えた。


そして……


「シーノー」


「シーーノー」


「サメッ! ザメッレ!」


 奇声を発しながら、身体を揺らし始めた運転手の男。更に、両手の棒状の物をゆったりと上下に動かし中腰に成る。ダンスなのか、興奮状態から生まれる自制の効かない身体の揺れなのか判断出来ない程の奇妙な動き。だが、なぜかその異様な光景を裕子は懐かしく感じた。


 それは、小学校の教科書に掲載されていた田植えをする農夫に似ているのだと少ししてから気付いた。


 その頃になると、不思議な事に先程までビル群の遥か上空を旋回していた黒々とした何かが、かなり近付いている事が分かった。


 鳥では無い。鳥では無いが、二メートル近いそれは翼を動かし空を舞っている。それも、運転手の男が振る棒状の何かに引き寄せられるように、ゆったりと上下しながら確実にビル群の車道に降りて来る。


 暫く、裕子はその動きを呆然と眺め続けていたが、運転手の男が手招きをしているのに気付いて閉じていた窓ガラスを開けた。


「お客さん……お客さん……」


 運転手の男が、手招きしながら囁いていた。


「ほら、お膳立てはしたんだから代わって!交代!後はお客さんの腕次第だから!」


 裕子は、運転手の男が何を言っているのか理解出来ずに、首を振りイヤイヤの仕草を繰り返した。


「意味が分からない!」


 叫ぶように答えて内側から引き付けるように扉の取手を握り締める。


「大丈夫! 直ぐだから!」


 運転手の男が、奇妙な動きを続けながら裕子が座る後部座席の扉に手を掛ける。扉を開こうとする運転手の男と、それを拒む裕子。両側から引かれる扉が、小さな開閉を繰り返す。


「直ぐだから!」


 運転手の男は、尚も諦める事も無く、ゆったりとした動きを続けながら扉を開けようとする。


「無理!」


 負けじと、扉を引き付ける裕子。


「間に合わないでしょ!」


 突然、運転席の男は叫んで俊敏な動きと、想像も出来ない怪力で扉を開いた。そして、イヤイヤを続ける裕子の手に棒状の物を手渡そうと押し付ける。


「無理! 意味が分からない!」


 叫びながら拒絶する裕子に、押し付けられる棒状の何か。理解不可能な状況で、困惑と緊張が絶頂に達する。裕子は、頭の中で存在さえ知らなかった純白の何かが染み出し丸まって肥大して行くような錯覚に襲われた。そして、膨張の限界に達した純白のそれは、破裂しながら思考を次々に侵食して行く。


「お客さんが逃げたら、凄いのも逃げるよ!」


 運転手の男は、真顔で叫びながら強引に裕子の手に棒状の物を押し付け続けている。


 パニックに陥り掛けた時。


『原因の除去だ!』先輩調整員の声が聞こえた気がした。その声に反応して転がるように車から降り、運転席の男を睨む裕子。


「分かったわよ!」


 言って、運転手の男から引ったくるようにして棒状の物を奪い取った。


「って! どうすれば、良いのよ! 何すれば良い?って! やっぱり、意味が分からないし!」


 再度、呆然自失に陥りかけたが、深呼吸を繰り返すのと同時に暴動鎮圧に必要な心構えを頭の中で列挙する。議会に挑む前の自己暗示だ。五回目の深呼吸で、やっと現在の状況が見えて来る。


 異変を感じた場合の対処方法は、逃げ出すか、それを生み出す原因の排除以外に無い。そして、逃げ出す事は調整員として出来る筈もない。


「教えて! どうするの!」


 意を決した裕子は、渡された棒状の物を握り直し、中腰に構えた。


「叫ぶんだよ!最初に俺がやったろ?」


 既に運転手の男は、路肩に乗り上げたタクシーの裏に身を隠している。


「シッ……シーノ」


 運転手の男が始めに叫んだ言葉を思い出し、口にする。が、緊張で筋肉が強張ってしまっているのか、声は喉を掛け上がらない。


「駄目だよ、全然駄目!」


「シノッ! シノッ! シノッ! ほら! やって!」


 直ぐに、運転手の男の檄が飛ぶ。


「シノッ! シノッ! シノッ!」


 裕子は、叫びながら思い出した男の動きを真似て、ゆったりと棒状の物を動かす。ぎこちない動きが、それなりの動作に変わって行く気がする。


「ヨシ! 良いよ! あんた! 良いよ! 頑張れ!」


 暫く続けると、運転手の男の声援が聞こえた。裕子は更に大きく、ゆったりと棒状の物を上下させながら掛け声を繰り返した。


「シーノー!」


「シーノー!」


「サメッ! ザメッレ!」


 繰り返すうちに、黒々とした何かが直ぐ側まで近付いて来る。


「次は、マーナーカイッ! だ!」


「ほら! 叫んで!」


 運転手の男の指示に従い、更に叫ぶ。


「マーナーカーイッ」


「マーナーカーイッ!」


 裕子は叫びながら踊り続けた。目前の異変を除去するのだとの強い信念を失わぬように、力強く、粘り強く、奇妙な動きを繰り返す。


「良い! あんた、本当にスジが良い!」


 運転手の男の声援にも、熱が入って来ている。


「マーナーカーイッ! マーナーカーイッ!」


 繰り返す毎に近くなる黒々とした何かは、翼の様な物をしまい、今はパタパタ、バタバタと路面を跳ね回っている。硬い筋肉で被われた青黒い身体に、しなやかなで艶やかな黒い翼。アスファルト路面を弾ける様に跳ね回る様が、まるで、翼のついた鮪のようだなと、ぼんやり裕子が考えた時だった。


「今だ! 取り込んで! 早く! 魚みたいに抱き締めて取り込んで!」


 裕子の意思を読み取っていたか、運転手の男が怒鳴るように指示を出した。


 裕子は、意味さえ分からず翼の生えた鮪に飛び付く。バタバタと猛烈な勢いで身体をくねらす翼の生えた鮪が、鋼のように鍛え上げられた筋肉で生み出す翼の動きと、身体全体をくねらす動きに翻弄される裕子。


 暫く、裕子はそれに抱き付く格好のまま手足に全身全霊の力を込め振りほどかれないように必死に足掻いた。暴動鎮圧でも幾度と無く、同じような事は経験している。暴れる相手を無傷で確保する為には、技術や道具等といったものより、根気や体力等の当人の資質によるものが大きい。手足が痺れる程に力を込め続け、翼の生えた鮪の動きが緩慢に成り始めた頃。運転手の男は、裕子の隣に腰を降ろすと顔を覗き込んだ。


「なっ! なっ! 取り込めただろう?」


 運転手の男が、今日一番の笑顔で訊ねる。


「ええ! 最高!」


 裕子は、その場に立ち上がり拳を天に掲げた。足元には、動かなくなった翼の生えた鮪。裕子は、何がどうして、どんな風に、達成されたのか全く理解出来てはいなかったが、今まで感じた事もない、達成感に包まれていた。


「なんか良い! 凄く良い! 気持ち良い!」


 誰にともなく、裕子は叫んでいた。運転手の男が待ち兼ねていたように、手にしていた数枚のチラシの中から一枚を選び出し手渡す。恐らく、車の影に隠れた後に車内から引っ張り出したのだろう。チラシを覗き込む裕子の目に、大きく印字された文字が飛び込む。


『阿鼻鮫殴打捕獲ワールドカップ!7日間の死闘を征するのは誰だ!7月25日開催!』


 期日は、明日。


 裕子は暫く微動だにせず、そのチラシを覗き込んでいたが、やがて真っ直ぐに運転手の男を見詰めると、力強く頷いた。


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飛ぶ鮪 @carifa

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