6-2

 夜は早めに布団に入った。あたしは、疲れた体を横たえて、眠れないまま時が過ぎるのを待った。そして午前〇時を回るころ、そっと網戸を開けた。ギターを背負って家を抜け出す。

 見上げれば、満天の星。虫の声、さざ波の音、潮の匂いがする夜風。

 防波堤に行こうと歩き出したら、自分とは違う足音が聞こえた。振り返る。眼鏡を掛けた良一がいる。

「またついて来るの?」

「おれも外に出たくなっただけだよ。岡浦小に行かない?」

「何で?」

「学校が見たい。ちゃんと全部そろってる姿を見たいなって」

 何それ、と反射的に言いながら、あたしにも良一の気持ちがわかった。生きて機能している小学校なら何でもいいから、元気な姿を目の前に示してほしい。あたしたちが過ごしたころの真節小の幻に、今だけ甘えさせてほしい。

 岡浦小の校舎は、白い鉄筋コンクリートの二階建てだ。花壇がきれいに整えられていた。用務員さんが花好きなんだと、夏井先生が言っていた。里穂さんも土いじりが好きで、よく手伝っているらしい。

 ちょっと明るくて座れる場所を探して、あたしと良一は体育館のほうへ歩いた。校庭に面した横扉のコンクリートの階段が、オレンジっぽい色味の外灯に照らされて、ぼうっと明るくなっている。

 あたしと良一は階段に腰掛けた。別々の段の、少し離れた場所だ。夜風が通り過ぎても、体温や匂いを感じることがない距離。それでいて、外灯の頼りない明かりの中でも、お互いの表情がわかる距離。

 ギターケースを横たえたそばに、石英が丁寧な列を作っていた。石英は水晶のカケラだ。校庭の砂に交じって落ちている。あたしが大近島の小学校で過ごした一年生のころ、校庭の石英を集めて並べるのが流行っていた。

 校庭を見やれば、いちばん近くに鉄棒がある。その向こうに滑り台。それから、登り棒、雲梯、ブランコ、砂場。二百メートルトラックも、この暗さでも、うっすらと形が見分けられる。朝礼台や旗の掲揚台もある。あって当然のものが、ちゃんとある。

 良一が言った。

「岡浦小って、子どもの数、何人くらいだっけ?」

「八十人切ってるはず。でも、ちゃんと六学年ある。バスケとソフトボールのチームもある」

「人、どんどん減ってるんだよな?」

「増える要素がないよ」

「だよね。昔は、岡浦と小近島は漁業の拠点で、かなりにぎわってたらしいけど。結羽、月夜間つきよまって言葉、知ってる?」

「満月のころのことでしょ」

 夜におこなう漁では、強烈に明るいライトでイカや魚を呼び寄せるやり方がある。このやり方だと、満月のころは空が明るいから、ライトの効果が薄くなって漁の効率が悪い。だから、その時期には漁を休む。休みの期間のことを、月夜間と呼ぶ。

 良一の低い声が静かに紡がれる。低いけれど、細くて柔らかい性質の声だ。だから、良一の声には威圧感がない。優しい印象の響きになる。

「小近島教会の慈愛院って、昔はもっと大きかったんだって。子どもの数も、シスターの数も多くて。なぜかっていうとね、親が漁師だと、普段は陸にいないから。親が船に乗ってる間、子どもは慈愛院で過ごす」

「聞いたことある」

「当時の慈愛院の子どもたちはみんな、漁が休みになる月夜間を楽しみにしてたんだって。そのころの名残で、慈愛院には漁師が使う太陰暦のカレンダーがあって、シスターたちは月の満ち欠けと潮の満ち引きを気に掛けてた」

 島々の中には、今でも昔ながらの漁業を続ける集落がある。逆に、明日実や和弘の家が始めたクルマエビの養殖みたいな、今までなかった漁業にシフトする集落もある。

 クジラ漁で栄えていた島は、それが禁じられてから、すっかりすたれてしまった。江戸時代には「クジラ一頭を揚げたら七つの浦が潤う」といわれるくらい、クジラ漁がもたらす利益は大きかったんだ。

 この近海に浮かぶ島々は、海から急に山が生え立つような険しい地形ばかりだ。田んぼが作れる場所も、ごく限られている。漁業で生計を立てるしかない集落がほとんどで、昭和の中ごろまでは、それで産業が成り立っていた。

 いつごろからか、イカや魚が売れなくなったり、価格が極端に下がったりした。動物保護という理由で、クジラを獲ってはいけなくなった。仕事が回らなくなった人々が、だんだんと島から離れ始めた。その流れは、時が経つとともに加速している。

 良一が空を見上げた。

「岡浦小も、いつか閉校になるのかな?」

「十年後には複式学級だけになるだろうって、父が言ってた。閉校になるかどうかは、行政との兼ね合い」

「家でそんな話、するの?」

「しないけど、家にいたら、父が教育関係者と電話とかで話してるのが聞こえてくる」

「昔からそんなふう?」

 あたしはうなずいた。真節小の閉校だって、地域の人が知るより早くから知っていた。知っているということを黙っておく術も、いつの間にか身に付けていた。

 そっか、と良一が言う。

「だから結羽は冷静なんだな。昔から冷静だった。いろいろ知ってたせいなんだ。閉校式のときもそうだったけど、今日も泣いてなかったろ?」

「泣いてないよ」

「おれは泣いた。でも、この年齢だから、まだマシだったな。小六とか中学のころだったら、受け入れられなかった。真節小って、今の自分の人格を形作ってくれた場所だから、ほんとに恩を感じてて、大切で」

 取り壊しの時期が今になったのは、当然ながら、良一の成長を待っていたからじゃない。予算だ。校舎の築年数が一定の基準を超えたら、取り壊しのために県か国から下りる補助金の額が大きくなるらしい。

 良一が知らなくていい事情だ。本当は、あたしだって知る必要がない。

 両親は気付いているんだろうか。あたしの耳が聞こえすぎること。あたしの目が見えすぎること。あたしの頭が覚えすぎること。あたしの勘が察しすぎること。全部のセンサーを働かせていたら、あたしがまともに生活できないこと。

 あたしは幼いころから、自分で自分を守る方法を習得してきたんだと思う。

 いい子だねと誉めてもらえる受け答えを身に付けて、心に踏み入られないよう鎧をまとう。土地に染まらない言葉を学んで、感性の出力を上げすぎないよう注意する。

 人と出会ったら、その瞬間からカウントダウンを始める。その相手と、いつ別れるのか。最初から別れのときを予知していれば、必要以上の悲しみに翻弄されない。

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