6-3
「結羽」
良一があたしを見つめている。あたしは良一から目をそらす。
「何?」
「左肩の傷、自分でやったんだろ?」
「見たんだ?」
「そりゃ、見えるよ。泳ぐとき、パーカー脱いでたから。肩以外にも、自分で切ったみたいな痕があったよな。左肩のがいちばん目立ったけど」
「肩の傷だけ、しつこくいじる癖が付いてた時期があったの。それで、ばい菌が入って炎症を起こしたのか、傷口が膨れて、赤黒いのが引かなくなった。何でその位置だったかって、あんたの左肩にある噛み痕が印象に残ってたせいだと思う」
小学生のころ、体育の着替えのとき、和弘が良一に訊いた。良ちゃんの肩の赤かやつは何、って。
あのとき、良一はビクッとして、そしてすぐに笑顔に戻って和弘に答えた。
「生まれつきのアザだって言ったのに、結羽は、噛み痕って気付いてたんだ?」
「うちには、両親が勉強するための教育心理学の本があったから。小近島には本屋も図書館もないし、あたしは本に飢えてて、本だったら何でもいいって感じで、教育心理学の本も読んでた。肩や二の腕の噛み痕の事例も読んだことがあった」
専門書の解説部分は難しすぎて理解できなかった。でも、現役教師から寄せられた事例は、身近な体験談だからわかりやすくて、小学生のあたしでも読むことができた。
「本には何て書いてあった? 肩に噛み付く子はいじめに遭ってるって?」
「ストレスが原因で、無意識のうちに自分を傷付ける子どもがいる。腕に噛み付く子、指しゃぶりが直らない子、爪をボロボロにする子、自分の体に爪を立てる子。忍耐強い子ほど、自分を傷付けながらストレスを我慢してしまう。良一は典型的だと思った」
良一が首を左右に振った。
「恐れ入りました。小学生のころから、おれのこと、そういうふうに見抜いてたなんて」
「見抜きたかったわけじゃない。見たくないものまで見えるだけ」
「見える目も、覚えてられる頭も、おれからすれば、うらやましいけど。あのさ、結羽、これ見て」
良一は体勢を変えて、あたしに左半身を向けた。Tシャツの袖をまくる。白くて細い二の腕に、翼を生やした十字架の紋章があった。
「タトゥー?」
「うん、中学時代に彫った。おれの新しい兄がアメリカに留学してて、そっちに遊びに行ったとき、傷痕をわからなくする方法があるよって」
良一の十字架は、黄色から朱色にかけての、肌になじむ色味で描かれている。ちょっと驚いたけれど、タトゥーのデザインそれ自体からは、どぎつい印象を受けない。サイズも小さめだ。
「でも、中学生でタトゥーって。無茶するね」
「新しい両親は苦笑いだよ。だけど、二人とも海外生活の経験があってタトゥーをよく見てたから、傷を隠すためって説明したら、兄弟そろって怒られるなんてことはなかった。おれも肩を噛む癖がなくなったし」
「噛んでたんだ?」
「小近島を離れて、噛み癖が再発した。両親にも気付かれてたみたいで、心配かけてたらしいんだ。子どもっぽい噛み痕よりは、クリスチャンらしいタトゥーを彫ってあるほうが、ずっと見栄えがいいよね。撮影のときは写らないように、微妙に気を遣うけど」
良一は袖をもとに戻した。
「新しい家族とはうまくいってるんだね」
「今の家族とは、きっと一生の付き合いになるよ。小近島の慈愛院も恵まれた環境だったけど、家庭っていうのとは違ってたし。今の家族と出会って、最初は戸惑った。でも、やっぱりよかったなって思う。結羽のご両親みたいな、尊敬できる人たちだよ」
ズキン、と鋭い痛みが胸に走った。そんな気がした。
「あたしの両親は素晴らしい人間だよ。知ってる。なのに、あたしはこんな人間って、笑えるよね。あたしなんて、存在するだけで親に迷惑かけてる。親の名誉を傷付けてる」
「そんな言い方するなよ」
「するよ。あたしはお金を稼いでなくて、高校の学費を出してもらってるし、家に住ませてもらってる。厄介者のお荷物だよ。さっさと自立したい。親はそんな言い方しないけど、あたしはそんなふうに思ってしまってるの」
良一は口を開きかけた。でも、何も言わない。
あたしは膝を抱えた。ああ、ダメだなって感じた。スイッチが入ってしまった。しゃべってしまう。抑えておくべきはずの言葉、石にして固めておいたはずの言葉が、スイッチひとつで動き出して、勝手に口を突いて出ていってしまう。
もとに戻れ。黙っていろ。命じてみても、言葉は、落ち着こうとしない。あたしは語り出してしまった。
「中学は三年間、転校しなかった。楽しくない学校だった。友達と呼べる人もいなくて。でも、あたしはそういうのを寂しいとか感じるタイプでもないから、それはそれでよかったの。全部が壊れたのは、中二の冬。学校に呼び出された」
いじめの件で、お話があります。電話口でそう告げられた。
やっぱりこうなってしまったか、と、あたしは思った。電話を手にした母が青ざめるのを見ながら、あたしもたぶん、同じように真っ青だった。家の中で笑うことをしなくなったのは、この日からだ。
いじめが原因で転校していく子がいて、その子の両親が関係者を集めた。いじめた子とその両親、担任、校長、教頭、学年主任、教育委員会の担当者、警察。
あたしと両親も呼び出された。あたしの一言が、いじめの発端だったから。
いじめを受けた女子生徒とは、中二で同じクラスになった。出席番号順で決められた席で前後だった。彼女のほうから声を掛けてきた。よくしゃべる子で、いつも誰かと一緒にいたがるタイプだった。あたしはほどほどにあいづちを打つ役だった。
「クールな一匹狼キャラ、みたいな。中学時代のあたしの立ち位置、そんなふうだった。自分で言うのもどうかと思うけど、事実だから言うけど、勉強できるし一人でいられるし、あたしは特別視されてるとこがあった。発言力があるって見なされてた」
だから、もっと言葉に気を付けるべきだった。彼女を遠ざけるにしても、注意深い態度を取るべきだった。
彼女の距離感は、あたしとは違った。彼女は、一人でいられなくて、べったりと人に甘えて、かまってもらえないと不安になるらしくて、あたしの後をついて回った。急に抱き付いてきたりして、そういうのは、あたしは苦手だった。
「付きまとわれても困るって、ハッキリ言ってしまった。クラスの女子、みんな聞いてた。その子が泣き出して、誰もその子をかばったりしなくて、むしろ自業自得とか言う子もいて、まずいなって思ったけど授業が始まって、フォローできなくて」
授業が終わった次の休み時間から、彼女はあたしを避けるようになった。まあいっか、と思った。気楽だな、と。やっぱりあたしは薄情な人間だなと、自嘲的な気分にもなった。
異変に気付いたのは、次の週だった。
「その子がいじめに遭い始めてた。あの松本さんが見放したほどのクズっていう保証付きで。違うって言いたかった。あたし個人が彼女と合わないってだけで、いじめろなんて命令してない。あいつならいじめていいなんて許可、誰が出せるっていうの?」
あたしはいじめを止めたかった。
そもそも、いじめというものが理解できない。気に食わないというなら、相手を意識の内側に置いてしつこく悪意を持ち続ける必要なんかないと思う。悪意を持つって、すごくエネルギーを使うことだ。嫌いな人のために、なぜエネルギーを使えるの?
いじめを止めたかった。本当に、それだけだった。自分の発言がきっかけで始まってしまったいじめだから、なおさらだった。
それなのに、あたしはどうして、あんなおかしな言い方しかできなかったんだろう?
「目の前でいじめるの、やめてくれる? すごい不愉快」
だから、あたしの前でのいじめは消えた。陰でいろいろ起こっているのは、肌で感じられた。あたしの目からどうやっていじめを隠そうかって、それすらゲームみたいに楽しんでいる空気があった。
いじめを止めたかった。次の月曜には必ず担任に相談しようと決めた週から、彼女は学校に来なくなった。それが一学期の終わりごろ、七月上旬。
夏休みを挟んで、二学期。彼女はやっぱり学校に来なかった。そして、秋が深まるころ、学校からうちに呼び出しの電話がかかった。
彼女にとって、あたしはいじめの発端の憎むべき相手だった。仲良くしていたはずなのに、いきなり手のひらを返した最悪の敵だった。
ごめんなさいって、心から本当にそう思った。それ以上に強く、あたしは自分を憎んだ。あのときを境に、うちの家族の中にあったいろんなものがどんどん壊れていって、二年半以上、修復できていない。
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