六.サマーブルーの出発

6-1

 夕方の渡海船で岡浦に戻った。小近島の船着き場で別れるとき、明日実も和弘も、かなりあっさりしていた。というのも、二人は明日の昼、大近島から本土へ渡るフェリーの出航時刻には、港まであたしと良一を見送りに来るらしい。

 サザエは、ほとんど全部、あたしたちがもらった。採った数がいちばん多いのは和弘だったのに。

 里穂さんは晩ごはんの支度をあらかた終えていたけれど、サザエを見て喜んで、刺身やつぼ焼きや炊き込みご飯を作ると言った。

「時間がかかるけど、よかかな?」

 あたしも良一も、まったくかまわないと答えた。夏井先生もまだ、岡浦小の職員室から帰ってきていないし。

 日焼けした肌がほてっている。改めてシャワーを浴びたら、ぬるま湯を弱めに当てただけで、肩や首筋の皮膚がひりひりした。ざっくり切った右の手首は少し腫れていて、ボディソープが傷口にかなりしみた。

 ひんやりする感触のボディローションを肌に塗って、髪を乾かす。あたしの次に良一がシャワーを使わせてもらうはずだったけど、良一は誰からか電話がかかってきて、ちょっとまじめな顔をして、外に出ていった。仕事の電話かな。

 里穂さんの手伝い、したほうがいいよね。そう思い付いたものの、たたんだ布団を背もたれにして体を投げ出すと、ずぅん、と重たい疲労感にのしかかられた。やっぱり、今は動けない。

 疲れている。ずっと日に当たっていたせいもある。泳いだせいもある。体が疲れているのはもちろんだけど、それ以上に、心が疲れた。鈍り切っているはずの感情が、ひどく忙しく動き回る一日だった。

 目を閉じる。闇が渦を巻いている。地面がずぶずぶと柔らかくなっていくような、沈んでいるような浮かんでいるような、おかしな感覚。まるで、広い海の中で頭を低く脚を高くして泳ぐみたいに、上と下と右と左と前と後ろが、ぐるんと混ざって。

 あ、落ちる。

 と感じて、次の瞬間、あたしの意識は消えた。あたしは眠った。ずいぶん久しぶりに。

 短くて深い眠りだった。夢は見なかったと思う。

 眠りは、訪れたときと同じく、いきなり破られた。いきなり勘付いたんだ。至近距離に誰かの気配がある。呼吸のリズムが狂って、体がビクッと跳ねた。

 あたしは目を開けた。すぐそこに良一がいた。薄暗い部屋の中で、ソファみたいな布団に体を預けるあたしを、良一は体をかがめて見下ろしている。

 良一がハッと呑んだ息の、喉にかすれて起こるかすかな声。カーテンが開けっぱなしの窓から差す光を映して、良一の両目が鋭くキラッとした。良一の手は、あたしの肩のほうへ伸ばされようとしている。

 あたしは反射的に良一の手を振り払った。ぱしん。硬いものを打つ感触と、手首の傷が引きつるピリッとした痛み。

 良一が、打たれた手を引っ込めて、視線をさまよわせた。

「ご、ごめん」

「何見てんの? 何か用?」

「ごめん。あの、そ、そろそろ夕食だって。せっかく眠ったところ、起こしちゃって悪いけど。えっと」

「わかった。そこ、どいて」

「え、あ……ごめん」

「謝りすぎ」

「……ごめん」

「だから」

「結羽はクールすぎるよ」

「ほかにどんな反応があるわけ?」

「わからないけど」

「そこ、どいてってば」

 良一は、立ち上がりながら、かぶりを振った。サラサラの髪が揺れた。

「どうしよう。苦しい」

「何が?」

「おれ、中学からずっと男子校だし、たいていの仕事の現場にも同世代の女の子はいない。女の子の前でどうすればいいか、全然わからない」

 女の子、というふわふわしたくくり方をされて、噛み合わない何かを感じた。あたしは、「女の子」とは違う生き物だ。男でもないけれど、大人とも子どもとも分類できないけれど、少なくとも、「女の子」と名付けられたスイーツみたいな生き物ではない。

 あたしは起き上がった。黙ってしまった良一の背中を追って、食卓の部屋へと移動する。配膳の手伝いをしようとしたら、里穂さんから、傷の手当てを先にするよう言われた。食卓のそばに救急箱が出してある。

 傷口に薬を塗って、ガーゼを当てる。ガーゼをテープで止めても、汗のせいで、はがれてしまいそうだった。包帯を巻こうとして、うまくいかずに悪戦苦闘していたら、黙ったままの良一が手を貸してくれた。

「ありがと」

 お礼を言うと、良一は目を見張って、うつむいた。口元が笑っているのが見えた。どうしてわざわざ笑顔を隠したんだろう?

 ほどなくして、ジャージ姿の夏井先生が学校から帰ってきた。ちょうど食卓の準備も整った。晩ごはんの時間だ。

 サザエが主役の食卓は、もし料理屋に食べに行ったら、すごく高価だと思う。でも、これは自分たちで、ほんの数時間のうちに採った獲物だ。

 小近島の生活では、よくこうして海や山からおかずを調達した。潮の満ち引きの具合を見ながら魚を釣ったり、潜って貝類を採ったり、裏山で山芋やムカゴや栗、あるいはタケノコを採ったり。大近島のスーパーに買い物に行くより、ずっとお手軽だったから。

 里穂さんは、サザエの半分以上を冷凍してくれていた。あたしと良一が半分ずつ、おみやげとして持って帰るぶんだ。里穂さんは、あたしと良一の顔を交互にのぞき込んで笑った。

「二人とも、焼けたね。顔、真っ赤になっちょったい。もともと白かったもんね」

 良一は苦笑いした。

「さっき、マネージャーから軽く小言を食らいました。日焼けしたら、合わせる小物の色が変わったり、メイクが必要な現場では、使う化粧品の番号が変わったりするので」

「わかる! わたしも夏場は日焼けしてしまう生活やけん、夏と冬でファンデの色が違うっちゃもん。プロにとっては、おおごとやね」

「ですね。次回から気を付けます」

「同級生さんたちは元気にしちょった?」

 里穂さんの問いに、あたしと良一は同時にうなずいた。

 特別な一日だった。現在と過去と、時間が混ざり合うみたいだった。なつかしいと感じることがたくさんあって、胸の中がいっぱいに掻き乱されて、驚くことが同じくらいたくさんあって、胸がきつく締め付けられるみたいで。

 頭で考えて文章で整理するんじゃ、追い付かない。ああ、こういうときのために音楽があるんだなって、あたしは思った。

 今、ギターを鳴らせば、言葉じゃ表現し切れない感情が曲になってあふれ出るはずだ。そして、どうしても形を取りたいと叫んでやまない言葉だけ、詞という姿で、あたしの中に現れてくる。

 弾きたい。歌いたい。あたしはきっと、このうたを得るために、この夏ここに来たんだ。早く夜が更けてほしい。早くあたしの時間が訪れてほしい。弾かなきゃ。歌わなきゃ。

 なごやかな夕食の時間は、じりじりと、ゆっくり過ぎていく。

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