5-7

蛇口をひねると、冷たい山水が緑色のホースから飛び出した。バス停の裏にある、誰でも使っていい水だ。全身の潮を洗い流す。

 顔を伝い落ちる水から塩辛さが消えて、服がべたつく感じがなくなるまで、しっかり水を浴びた。その後は、タオルがないから、自然乾燥。

 手首の傷も、ちゃんと洗った。和弘の手を借りて、消毒して包帯を巻いていたら、良一と明日実も海から上がってきた。二人とも、あたしの手首のずぶ濡れの包帯に、目を丸くする。

「結羽、ケガでもしたと?」

「ちょっとね」

「消毒した?」

「した。大きなケガじゃないよ」

「それならよかけど。あ、そうだ。髪とか肌とか、このまま乾燥させるだけやったら、荒れてしまうやろ? うちの手作りツバキ油、持ってきちょっけん、使って。うちの自転車のカゴの中にある」

 それは助かる、と良一はニコニコした。せっかくだから、動画や写真にも撮りたいらしい。水を浴びながら、演出のアイディア出しに余念がない。

 少し冷たい海の中で動き続けた体は、ほてっているような寒いような、変な状態だった。帰りの船の時間まで、まだあとしばらくある。あたしたちは防波堤の上で、全身に浴びた水を乾かすことにした。

 バス停のそばには、島全体で五台しかない自販機の一つがある。それぞれに飲み物を買って、明日実のツバキ油を持って、防波堤の突端まで、のろのろと歩く。

 あたしはようやく、そこにパーカーを置き去りにしていたことを思い出した。慌てて羽織る。黒いパーカーは、良一のバッグの陰に入り込んで日が当たらなかったらしく、さほど熱くなってはいなかった。

 パーカーの布地越しに、包帯の手で、肩や二の腕に触れた。引っ掻き回して赤黒くこじれた傷痕が、不規則な模様みたいに残っている。もう痛むことはないけれど、ひどい具合の色をしているのは相変わらずだ。

 きっと見られてしまった。こんな情けないもの、見られたくなかったのに。

 和弘は、サザエの網をひもでくくって、海に吊るした。明日実にツバキ油を勧められても、「いらん」と言う。そんな様子を、良一は楽しそうにカメラで撮った。

 それから、だらだらしながら、いろんな話をした。いや、正確に言えば、良一と明日実と和弘がそれぞれの生活のことを話すのを、あたしは黙って聞いていた。

 良一は、学校と仕事の両立を絶対に目標に、仕事の量や種類を抑えているという話。仕事のために学校を休むことはしないと、今の家族と約束をした。卒業後は仕事一本にする予定だ。

「もし大学に行きたいと思うなら、何歳になってからでも行けると考えてて。幸い、仕事をまじめにやってれば、将来の学費もためられそうなんだ。だから、仕事のチャンスのある今は、進学は考えてない」

 明日実は生徒会に入っているらしい。中学時代には生徒会長を務めていたそうだ。家の仕事も部活も生徒会も頑張って、彼氏もいるなんて、並大抵じゃないと思う。しかも、あたしや良一の動画もチェックしている。

「うちとしては、小学校のころからずっと同じペースで動きよるだけのつもりやけどね。真節小って、人数が少なかけん、一人何役もやらんばいけんやったやろ? あれがうちの当たり前のペースになっちょっと」

 和弘は成績優秀らしい。高校では、どちらかといえば就職を志望する人が多いクラスにいるくせに、進学組を抑えてダントツにいい。国公立大学を狙えと、先生方から言われているそうだ。

「高校ば出たら仕事するつもりやったけど、勉強は嫌いじゃなかけん、進学も迷うよな。親は、好きにせれって言うし。でも、一回でも外の世界に出たら、おれはここに戻ってこられんっち思う。それはイヤだ。おれは家族の役に立ちたか」

 明日実はニコニコしている。

「家の仕事は、うちが継ぐけん、和弘は外に出ればよかたい。せっかく頭よかっちゃけん」

 和弘は顔をしかめた。

「ねえちゃんこそ、外に出れよ。スポーツ推薦で入れる大学、あるやろ? 学費も免除になるやつ。おれが普通に受験して普通の奨学金で大学に行くより、ねえちゃんが行くほうが絶対によか」

「うちはあんまり、大学生活とか、興味なか。都会で暮らそうっちも思わん。島の中でやれることが、今、たくさんあるたい。ツバキ油のスキンケアグッズ、自分の手で完成させたかし」

「才津先輩も島に残ると?」

「迷いよる。うちは、好いたごとすればって言いよっけど」

「その言葉さ、才津先輩的には、たぶん、きつかと思う。ねえちゃんは強かけん、わからんかもしれんけど」

「そう? うち、別に強くなかよ。フツーやん。夢とか目標とか、全部ちっちゃくて。結羽や良ちゃんのごた才能もなかし、和弘んごと勉強ば頑張ろうっち思わんやったし。和弘、中学のころ、ほんと頑張ったもんね。高校、よそに出たかったっちゃろ?」

 和弘が言葉に詰まった。良一が代わりに答えた。

「本土の高校を目指してみればいいって、おれが言ったんだよ。電話で、和弘から相談受けたとき。和弘が中一のころだよな。中二の結羽と連絡つかなくなったころ。本土の高校に進学したら結羽を探しに行けるかなって、和弘が言ってさ」

「おい、良ちゃん」

「カッコいいって思ったんだよ。あのとき、和弘のこと。掛け値なしに、こいつ、男前だなって。だから、目指してみろよって言ったんだ。十分な力を付けておけば、行くか行かないか、自分で選べるだろ。チャンス、逃さずに済むんだ」

「でも結局、選べるぞって言われよる今、行くか行かんか迷いよったい。カッコ悪か」

 和弘は吐き捨てて、コンクリートの上に仰向けになった。あたしは視界の隅で、それを見ていた。

 四人全員、別々のほうを向いていた。それでいて、全員が視界の中に入るような、微妙な角度を保ったまま、それぞれの青い色を見ていた。あたしの視界の中心にあるのは、遠い海の深い青。傾きかけた夏の太陽が、波をまばゆく彩っている。

 しばらくして、良一が、ため息交じりにつぶやいた。

「海に入って、疲れたな。眠い」

 あたしと明日実と和弘が同時にうなずいて、その次の瞬間、四人で同時にあくびをした。

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