5-6
突然、和弘に左腕を引っ張られた。そのまま海面へ連行される。海から顔を出した。空気がおいしい。
「結羽ちゃん、手! 血、めちゃくちゃ出たろ!」
「そこまで深い傷じゃないと思うよ」
「深かったよ! 岩で切ったろ? 海の傷は化膿しやすかけん、手当てしたほうがよか。上がろう」
「このくらい平気」
「傷、見せて」
あたしは和弘のほうに右手を差し出した。
海面から持ち上げた途端、急に潮がしみて、たった今刺されたかのように、傷が痛んだ。あたしは思わず、うめいた。手首の血管が脈を打つたびに、ずぅんと低く響く痛みが、燃えるように熱を帯びる。
和弘は、視界を狭める水中眼鏡を額にずらして、あたしの手首の傷に顔を寄せた。
「血、止まっちょらんたい。痛むやろ?」
「少し」
「やせ我慢すんな」
「別に」
「手首、すげー細か。あのさ、結羽ちゃん、イヤかもしれんけど……ごめん、ちょっと、しばらくこのまま、じっとしちょって。止血せんば」
和弘は、たらたらと血を流し続ける傷口の上を、きつくつかんだ。力が強い。血管を圧迫された右手は、みるみるうちに痺れていく。
ひんやりした海の中にいたのに、和弘の手は、何でこんなに体温が高いんだろう?
あたしは、水中眼鏡を額のほうに押し上げた。砕けた波のかけらが跳ねて、頬が濡れる。冷たくて気持ちがいい。
和弘の呼吸の音が聞こえる。和弘は、あたしの手首をつかんだ自分の手だけを、じっと見ている。
あたしは和弘を見ている。濡れた髪、日に焼けた肌、濃いまつげ、くっきりした二重まぶた、どんぐりまなこ、ガッシリした鼻、厚みのある唇。
ああ、と、小さく和弘がうめいた。
「無理や。今、めちゃくちゃ恥ずかしか。結羽ちゃん、平気?」
「何が?」
「いろいろ。動画のコメントのこととか、初恋っち告白してしまったこととか。それがあって、今、こげん距離で、何か……頭、おかしくなりそう」
あたしはため息をついた。
「手、放してよ」
「ごめん。変な気は起こさんけん、もうしばらく、このまま手当てさせて。血が止まってから放す」
和弘の手のひらの内側で、あたしの腕の血管がどくどくと音を立てているのがわかる。痛むか、と和弘に訊かれて、あたしはかぶりを振った。
「今はそんなに痛くない。だんだん感覚が鈍ってきた感じ」
「止血できたら、海から上がろう。自転車のカゴに応急処置の道具ば入れちょっけん、水浴びして、すぐ消毒せんば」
「もう上がるの?」
「サザエも十分、採ったやろ。網、ほとんどいっぱいになっちょったい」
和弘が指差す先では、波間にぷかぷか浮かぶウキに、サザエを入れた網がぶら下がっている。だいたい七分目まで、サザエ、詰めたんだっけな。そういえば、泳ぎ始めてから、どれくらいの時間がたったんだろう?
あたしは、急に気が付いた。
「疲れた」
当たり前やろ、と和弘は言った。ちょっと黙って、それから、全然違う話を切り出した。
「みんなやっぱ変わったなっち思ったよな。見た目の印象がいちばん変わったとは良ちゃんで、恋バナとか図太くなったとがねえちゃんで、目に見えん壁が厚くなったとが結羽ちゃんで、変わっちょらんつもりでも、おれも変わった」
あたしはうなずいた。見た目の印象は、良一もだけど、和弘もずいぶん変わった。たぶん、この年齢だと、男子のほうが見た目の変化が大きいんじゃないかな。
「ある意味、明日実がいちばん変わってない気がする。彼氏がいるっていうの、別に普通のことじゃない? そういう意味で小学生のころから変化がないほうが、たぶん、おかしいんだよ」
「じゃあ、おれ、頭おかしかっちゃな。結羽ちゃんが引っ越した後も、ずっと忘れちょらんけん」
「何で?」
「何でって」
「意味がわからない。さっさと忘れればいいのに」
「おれにも、意味わからん。結羽ちゃんが小近島に帰ってくることはあり得んとにさ。忘れたかったよ。でも、最初はメッセージのやり取りばしよったし、その後は動画のせいで、結羽ちゃんがまだ近くにおる気がして、忘れられんやった」
立ち泳ぎをしながらの会話に、あたしも和弘も、少し息が切れてくる。
和弘は、あたしの手首を波の上に出してきつく握ったまま、あたしを引っ張って泳ぎ出した。といっても、ほんの数メートルの距離を移動しただけだ。ウキにつかまって、一息入れる。
動画のせいで、か。あたしには、そんなつもり、まったくなかったのに。
あたしは、リアルでの顔見知りには、誰にも自分の動画のことを話していない。両親にも口止めした。にもかかわらず、良一も明日実も和弘も、あたしの動画のことを知っていた。
三人に動画のことを知られていると、割と早い時期から、あたしのほうでも気付いていた。
「よくコメントくれるアカウントのハンドルネームは覚えてるの。その中に、明日実がいるってわかった。いむさ、っていうハンドルネーム、明日実だよね? 和弘や良一にあたしの動画のことを教えたのも、明日実でしょ?」
「そうだよ。どうしてわかったと?」
「いむさって、アルファベットのASUMIを逆から読んだら、いむさになるから。あと、コメントの雰囲気が明日実と矛盾してないから」
「結羽ちゃんが最初に投稿した動画、有名なサイトでピックアップされて、視聴者が多かったやろ。ねえちゃんも、そのピックアップのときにたまたま聴いて、結羽ちゃんやっち気付いたと。それで、おれと良ちゃんにも教えてくれた」
あたしは少し驚いた。
「じゃあ、フォロワーになってたのって、最初から?」
「うん」
「もうちょっと遅い時期だと思ってた」
「最初のうちはコメントせんやったもんな。結羽ちゃんのフォロワーが増えていくとば見ながら、おれ、嬉しかった。でも、少しイヤな気分にもなった。知る人ぞ知る歌い手やったとに、だんだん知っちょっ人が増えてさ。おれの勝手な気持ちやけど」
その気持ちは、あたしが良一に対していだく気持ちと似ているんだろうか。あいつが遠くに行ってしまう。あいつばかりが羽ばたいている。あたしはまだ、ぬかるみの中から動けずに、歯噛みをしている。それが悔しくて。
和弘があたしの手首を離した。
「そろそろ、血、止まったやろ」
和弘の手のひらは、あたしの血で真っ赤に汚れていた。和弘はその手を、海の中に素早く隠した。
「海から上がるの?」
「上がろう。一緒にぞ。結羽ちゃん、傷口、できるだけ海に漬けんごとして。でも、海で切った傷は痕が残りやすかけん、その位置はさ、何ていうか」
「別に、気にしない」
致命傷にもならない傷が一つ、手首に増えるくらい、大した問題でもない。
和弘は、網をくっつけたウキをつかんで、防波堤のほうへ泳ぎ出した。チラッと振り返ったのは、あたしが付いてきているかを確認したんだろう。あたしも陸へ向かって泳ぎ出す。和弘がまた前を向く。
「結羽ちゃん、あのさ、ごめん。おれ、謝らんば」
「どうして?」
「海ん中で、結羽ちゃんの腹とか脚とか、すげー白くて、うわって思って、つい見てしまいよった。ごめん。自分でも、自分が気持ち悪かった。ほんと、ごめん」
あたしは、かすかに胸がざわめくのがわかった。ざわめきの正体はわからなかった。
「正直すぎるんじゃない? 普通、言わないでしょ、そんなこと」
「言わんよな。だいたい、おれ、こんな気持ち悪かやつじゃなかったよな。こういうとこが、自分で自分が変わったっち思うとこで、何か、ごめん」
謝り続ける和弘に、バカだな、と、あたしは思った。
変わらない人間なんて、いないんだ。好きじゃない方向に自分が変わっていくのを止められない人間は、たくさんいる。イヤな変化を遂げていることに自分で気付かない人間もたくさんいて、そういう連中より、自分の変化を嘆く人間のほうがマシだ。
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