5-5
あたしは体を折って、頭から海に突っ込んだ。両腕で、平泳ぎのストロークを一回。全身がしっかり波の下に入ったら、足ヒレを付けた脚で水を蹴る。ぐんっと体が海底に近付く。
両耳に軽い圧迫感があるけれど、大したことでもない。あたしは鼓膜が強いらしくて、水圧にやられて頭痛がすることもなく、平気で潜っていられる。
海の水は青くない。透明だ。
防波堤から見下ろすときの水の色は、海底の色をそのまま透かしている。ゆらゆらする波の下を、魚が泳ぐ。
水に潜って海底から見上げれば、波の天井に夏の光が広がっている。海の中は澄んでいて、少し暗い。
海底の岩に近付く。岩と岩の間に、いる。トゲトゲした形の、大きなサザエ。
あたしは手を伸ばして、サザエをつかんだ。サザエは吸盤でくっついているから、岩からはがすとき、ちょっとした抵抗感がある。
収穫したサザエを手に、あたしは海面を目指した。空気のある場所に出て、呼吸をする。首筋でトクトクと脈を打つ音が聞こえる。
「結羽ちゃん」
呼ばれて振り返ると、和弘がこっちに泳いでくるところだった。和弘は、手にした網を掲げてみせた。あたしは和弘に近付いて、網にサザエを入れる。和弘は網の口を閉めて、引き寄せたウキに、網から伸びた紐をくくり付けた。
「やっぱ、結羽ちゃんのほうが、ねえちゃんよりサザエ採りが上手やな。さっき、学校探検のときに良ちゃんも言いよったけど、結羽ちゃん、観察力がすごかもん」
「目がいいっていうのは、昔からよく言われる。単純な視力の話じゃなくてね。それに、泳ぎは、小さいころ、スイミングスクールに行ってたから」
「そうやった、習いよったって言いよったよな。ねえちゃんは基本的に泳ぎが下手やけん、どげんしようもなか」
和弘は、明日実が聞いたらぶん殴りそうなことを平然と言って、ニマッと笑った。
明日実は、防波堤からあまり離れないあたりで、せわしなく潜ったり上がったりしている。陸上のスポーツでは勝てないけれど、水中ではあたしのほうがずっと強い。獲物を入れる網の都合もあって、良一も明日実の近くでバシャバシャやっている。
小学生のころ、泳ぐときに一人にならないのは当然のこととして、ペアはずっと変わらなかった。あたしと和弘、良一と明日実だ。泳ぎのレベルで、自然とそんなふうに分かれた。
和弘は泳ぎがうまい。正確に言えば、潜ったり沈んだりするのがうまい。筋肉量が多いからだと、父が解説していたっけ。和弘は、海底に垂直に立ってみせるなんていう離れわざが、小学生のころからできていた。
あたしも沈んだままでサザエを探すことができるけれど、和弘みたいに海底に張り付くことはできない。どうしても、体が浮かんでいこうとする。だから、いつも、頭と胸を低くして、両脚は浮かぶままに任せて、逆さまに近い状態で海底をただよう。
しばらくの間、あたしたちは、サザエを採ることに没頭した。潜る、探す、浮上する。呼吸をして、潜る、探す、採る、浮上する。
音が鳴り続けているような、静寂に満たされているような海の中では、時間の流れも空間の広がりも、忘れてしまいそうになる。ずっと海の中で、呼吸もせずに生きていられるような、不思議な錯覚にとらわれる。
でも、だんだん苦しくなる。息苦しさを無視して動くと、手足がけだるくなってきて、仕方がないから、あたしは、光る海面へ向けて水を蹴る。
水から顔を出して、呼吸をする。波の音があたりに満ちている。耳を澄ますと、山のほうからセミの声が聞こえてくる。
それからまた、あたしは海に沈む。魚がチラチラと、頭上を、足下を、ときには目の前を、泳いで過ぎていく。
海底の岩の隙間に住む大きな魚も、ときどき見掛けた。モリを持ってきていれば、突いて仕留めることもできたはずなのに。あたしが突くわけじゃないけれど。
魚を突くのは、和弘の役目だった。モリを操るには、瞬発力も腕力も狙いの正確さも必要だ。それをあわせ持っているのは、あたしたちの中では和弘だけだった。何度まねしてみても、あたしにはできなかった。和弘がうらやましかった。
あたしと和弘は、お互いの姿が見える範囲で潜っている。海底の和弘が、ふと、あたしを手招きした。あたしはそっちに泳いでいく。
和弘は、そこ、と指を差した。岩と岩が重なり合った奥のほうに、かなり大きなサザエが見える。サザエのそばには、長いトゲを備えたオンガゼというウニがいて、ゆらゆらと、トゲを波に遊ばせている。
岩の隙間はけっこう狭い。和弘の筋肉の付いた腕は、きっと入らない。水中眼鏡の視界ではわかりにくいけれど、目を凝らすと、どうやら、毒を持つオンガゼのトゲはサザエよりも奥にあるようだ。
チャレンジしてみる、と、あたしは和弘にジェスチャーした。和弘がうなずく。
あたしは岩の隙間に右手を伸ばした。ギリギリだ。でも、どうにか入る。指先がサザエに触れた。もう少し奥まで腕を入れて、サザエをつかむ。手応えあり。中身の入った、生きたサザエだ。
岩の隙間から腕を引き抜こうとした、そのときだった。不意に、冷たい波のかたまりがあたしを包んだ。波が揺れる。あたしの体が、ふわりと持っていかれる。
あっ、と思った。
まだ岩の隙間にある右の手首が、岩に触れた。岩には、欠けて割れたカキの殻がくっついていた。ナイフのきっさきみたいに尖った殻の残骸が、音もなく、あたしの手首の皮膚を切り裂いた。
ぶわっ、と血の花が咲いた。
きれいだ。
あたしは見惚れた。痛みは、その後でやって来た。鈍い痛みだった。ずぅん、と腕の芯に低く響くような。
でも、痛みなんか気にならなかった。そこにある光景が、やっぱりきれいだったから。
指先でサザエをつかんだままの右手が、半透明な赤い帯を引いている。海底を時おり走り抜ける冷たい波のかたまりが、あたしの手首から流れる血を、ゆらゆらとさらっていく。
きれいだった。もっと見ていたいし、もっとたくさんの赤が流れていけば、もっときれいなはずだ。透明な海水越しに、あたしは光景を見つめていた。
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