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明日実が良一を見上げた。
「良一は一生懸命、方言ば覚えたよね。最初はいろいろおかしかったけど、だんだん気にならんごとなった。普通に島の言葉ば話すごとなったよね。今は東京の言葉になっちょっけどね」
「それさ、昨日、結羽に指摘されたんだ。無理に方言でしゃべろうとしてたら、不自然だからやめろ、って」
明日実があたしを見る。
「結羽は標準語のまま。あのころも今も。どげんしたら、そがんきれいか発音で話せると?」
「別に、普通にしてるだけ」
「教頭先生は方言で話しよったとに」
「父は島の出身だから。まあ、父が話す言葉は、小近島の言葉とは微妙にイントネーションが違うけど」
和弘があたしにカメラを向けている。だからあたしは、そっちを向かない。
「結羽ちゃんは、何でいつも標準語ば話すと? そのこと、ずっと気になっちょった。小学生のころの結羽ちゃんは、笑ったりふざけたり、おれたちに打ち解けちょったけど、でも、完全じゃなかった。言葉が違っちょったもん。ときどき寂しくなった」
「寂しいとか、意味わかんない」
「わかってよ。それと、答えてよ。結羽ちゃんの言葉遣い、何でずっと変わらんままやったと?」
「簡単なことだよ。あたしは小近島の子どもじゃないんだから、ここには染まれなかった。染まるつもりがなかったの」
和弘が、そっと、あたしの名前を呼んだ。「ゆう」が高い標準語と違って、「ちゃん」で上がる独特のイントネーション。
「結羽ちゃん。おれは、結羽ちゃんが初恋の人でした。もっと近付きたかった。なのに、何か、見えん壁があった。それが本当に、ざまんごて寂しかった。嫌われちょらんでも、拒絶されちょっとやなって感じちょった。ダメージ、でかかったよ」
初恋の人。
その言葉は、知っている。いつからか、気付いていた。
「和弘って、意外とおしゃべりだよね。あたしの動画のコメント、書き込んだ数がいちばん多くて、いちばんぶっちゃけてる」
KzHっていうハンドルネームは、和弘だ。あたしが恋を否定した「あたしたち」の唄の意味を、国語の得意な和弘は正確に読み取っていた。
四人で八つの瞳を交わし合ったあのころから、今だってずっと、あたしは恋なんか知らない。そうやって、手を差し伸べようとする人のすべてを否定して突き放すのは、痛々しい。
和弘はギュッと眉をしかめた。
「結羽ちゃんに気付いてほしかったっちゃもん。結羽ちゃんとしゃべりたかった」
「動画のほうではしゃべんないって決めてるの」
「おれに気付いちょったとに?」
「そうだよ」
「クールやな。そげんところ、全然変わらん。本当にあっさりした顔して引っ越していったやろ。おれは、ずっとここにおってほしかったとに。本土の中学なんか行かんで、小近島に住んで、おれたちと一緒に船に乗って岡浦の学校に通えばよかって」
あたしは顔を背けた。
「無茶言ってる。あたしが引っ越さなきゃいけないこと、あんただって最初から知ってたはずだよ」
「知っちょっとと、わかっちょっとって、別やろ? 結羽ちゃんが大人たちに頼み込んで、一人で小近島に残ってくれんかなっち、本気で想像したよ、おれ」
あたしだって想像した。慈愛院の子どもの面倒を見るのを手伝って、教会にいさせてもらえないか。明日実と和弘の家の手伝いだっていい。住む場所は、もう誰も使わない教員住宅がいくつもある。あたしは小近島の子になりたい。
そんな都合のいいこと、できるはずなかった。
「好きで本土に引っ越したわけじゃない。あっちに移ったって、楽しいことなんか一つもなかった。苦しいばっかりで、今も……!」
「戻ってこいっち。結羽ちゃんの居場所、ここにはあったやろ?」
あたしは首を左右に振った。うなずくわけにはいかなかった。あたしは最初から、ここに居場所を求めないように、注意深く心を抑え込んでいた。引っ越さなきゃいけないし、学校そのものが消えてしまうし、だったら、大事になんかできるもんかって。
でも、大事だった。だから、バラバラになりそうだった。一生懸命、形を保とうとした。平気なふりをして、見えない壁を作った。居場所はここなんだ、壁の内側の一人ぶんの空間なんだって、必死で自分を説き伏せた。
明日実が、ポツンとつぶやいた。
「ほんと、思い通りにいかんことばっかりやね。あのころのまま、みんな、いつまでも一緒におられればよかったとに」
良一がうつむいた。
「おれも、高校まで慈愛院で過ごすつもりでいた。小近島を出るかどうかは、もっと大人に近付いてから決めようと思ってた。今の家族も仕事も学校も好きだけど、大好きだけど、東京に移るって決まったとき、最初はすごく寂しかったよ」
仕方ないっていう言葉を、島での時間を共有したあたしたちは、教えられる必要もなく、ひりひりするほど理解している。
状況は変えられなかった。仕方なかった。大好きな学校がなくなってしまうことも、あたしの両親が先生であることも、良一に新しい家族ができたことも、明日実と和弘が島で生きていくことも、どうやったって変えられない、仕方のない現実だった。
教室の窓を開けてみようとした。古めかしい窓のスチールのフレームはガチガチにさびて、動かなかった。さび止めのライトグリーンの塗料も、触れるだけでボロボロと崩れて落ちた。
汚れきったガラス窓越しに、校庭を見下ろした。人が集まり始めている。
良一が腕時計に目を落とした。
「そろそろ外に出ようか」
明日実がポケットからスマホを出した。
「最後にここで写真ば撮ろうよ」
抜け殻になった小学校の教室で、高校生になったあたしたちは、卒業式の日に撮ったのと同じ並び方でフレームに収まった。あたしと和弘が仏頂面で、良一と明日実が笑顔なのも、卒業式の写真と同じだった。
廊下に出て、屋上へ続く階段を見上げたら、大きなクモの巣があった。あのへんにゲジゲジが出たことがあったな、と思い出した。明日実が大騒ぎしたっけ。島育ちでたくましいように見えて、明日実は、脚の多い虫が苦手なんだ。
ゲジゲジを追い払ったのは、良一だった。臆病そうな印象のくせに、虫にも蛇にも蛙にも動じなかった。きょとんとして、そして、誰にも聞こえないような声で言った。人間に比べたら、どんな生き物も怖くないよ、と。
あのころは、良一の言葉の意味がよくわからなかった。でも、ぐっさりと深く、胸の奥に刺さった。
その傷は今、ハッキリと、あたし自身の感情や経験と共鳴している。人間というものと出会えば出会うほどに。ギターを掻きむしって唄を歌えば歌うほどに。自分のボロボロの心を見つめれば見つめるほどに。共鳴する振動が、痛い。
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