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校庭に重機が乗り入れると、かろうじて薄く残っていた砂が舞い上がった。巨大なペンチみたいなものをくっつけた、キャタピラを履いたあの機械は、何ていう名前なんだろう?
大きな建物が壊される現場を見たことがある。あれは小学生のころ、秋のスケッチ大会で。数人ずつの班に分かれて、大近島の商店街を題材に、絵を描いた。あたしの班に割り振られた題材は、港のそばにあった古いホテルの解体作業の様子だった。
あの巨大なペンチが、建物の分厚い壁に噛み付くんだ。メキメキと凄まじい音を立てて、コンクリートも鉄骨も千切り取られていく。埃がもうもうと飛ぶ。瓦礫がバラバラとこぼれる。建物は、少しずつ、少しずつ、うつろになっていく。
作業服の人々は校庭の隅にいて、トラックの荷台から三角コーンや看板を降ろしていた。看板は校門のほうへと運ばれる。真節小が敷地ごと立ち入り禁止になるための準備が、素早く進められていく。
時刻は九時四十分を回っている。校庭には、いつの間にか、五十人ほどの人が集まっていた。真節小の卒業生たちだ。中心にいるのは明日実と和弘の伯父さんで、市役所に勤めている。
明日実は、伯父さんに手招きされて、大人たちの輪のほうへ走っていった。伯父さんと明日実は、それから、トラックのそばへと小走りで向かった。作業服の人々に一言、挨拶をするためらしい。
カメラは相変わらず、和弘の手にある。和弘はゆっくりと、校舎を、校庭を、重機を、集まった人々を、そして、あたしと良一を撮った。大人たちはしゃべっている。あたしたちは黙っている。
やがて、明日実と伯父さんが戻ってきた。ああ、始まるんだ、と思った。お別れの時が、本当に始まる。
明日実はみんなのほうを向いて、声を張り上げた。
「もうすぐ真節小の校舎ともお別れです! 今日、これから、解体作業が始まります! こんなに近くで真節小ば見られるとは、今、この時間が最後になります!」
その一言だけで、校庭のあちこちから涙の気配が立ち上った。
明日実の伯父さんが、三十数年前に卒業した母校へ向けて、大声で感謝の言葉を述べた。明日実たちのいとこで、島いちばんの秀才である現役医大生が、泣きながら母校に語り掛けた。
似た場面があったな、と思い出す。四年前の春、閉校式のときだ。真節小の思い出を、手紙みたいな作文にして、真節小に宛てて読んだ。
正直言って、あのときは、ちょっと現実感がなかった。校舎はまだ残るんでしょ、って。どっちにしたってあたしたちは卒業してここに通わなくなるんだし、って。
やっとだ。今になって、やっと、あたしたちが大きなものをなくしてしまったんだという事実が、胸にぐさぐさ突き刺さってくる。
たくさんの思い出に彩られた、大好きだった小学校が、名前をなくした。未来をなくした。そして、これから、姿さえなくしてしまう。
卒業生代表の挨拶を二つ呑み込んで、校舎は沈黙している。あと一分で、午前十時。工事が始まる時刻だ。
明日実が声を張り上げた。
「校歌斉唱!」
明日実があたしを振り返った。あたしはうなずいて、校舎に一礼する。あたしが今日ここへ来た理由、明日実がここへあたしを呼んだいちばん大きな理由は、これだ。
あたしにできる、精いっぱいのサヨナラは、ギターの音を響かせること。あたしは、抱えたギターにピックをぶつける。
校歌の伴奏は、本当はピアノで奏でられていた。ここにピアノはない。あたしは、覚えている音を、できる限り忠実にギターで再現する。
四小節の前奏。大人たちの表情が、ああ、と驚きに輝いた。わかるよね。覚えているでしょう。まぶしっ子は、この歌、絶対に忘れないよね。
息を吸う音が重なる。
高い声、低い声、いろんな声が、ぴたりと同時に歌い出した。弾むように明るい校歌が、四年ぶりに、真節小の校庭に響き渡る。
山なみに朝の日映えて
入江清く潮みつところ
あこがれのこの学び舎に
新しき歴史を創る
われらわれら力の限り
母校の光たたえん
まぶし小学校
閉校記念誌に校歌の楽譜が載っていた。明日実から伴奏の話をもらったとき、改めて、譜面を追った。
明るい曲だ。Cメジャー、つまり、ドミソの和音が基準にあって、どの小節でも音が濁らない。飛び跳ねるテンポは、あたしが知るほかのどの校歌より、元気がよくてポップだ。いちばん耳に残っている。いちばん心に刻まれている。
BPM120、校歌は二番まで。午前十時までの一分間では、曲全体が収まり切れない。あたしにはそれがわかっている。途中で打ち切られたら、どうしようか。
間奏のフレーズに指を躍らせながら、あたしは重機のほうをうかがった。安全ヘルメットをかぶった人たちは並んで、じっと、あたしたちのほうを向いている。校歌を聴いている。
まだ歌っていていいんだ。最後まで歌っていいんだ。
こんぺきの大空高く
豊かなる望みをのせて
ふるさとの伸びゆく明日へ
新しき伝統きずく
われらわれら力の限り
母校の誉れたたえん
まぶし小学校
あまりにも現実からかけ離れた、希望に満ちた未来を歌う詞。真節小は、もう歴史も伝統も閉ざして、小近島の将来だってきっと、これ以上、伸びてはいかない。
どうしてこんなに、この場所を好きになってしまったんだろうか。
サヨナラの
歌い終わったのに、二番までしかない短い校歌は終わってしまったのに、ありもしない後奏をくっつけて、なつかしい唄をギターの旋律でもう一度たどる。みんな聴いている。泣きながら。あたしが演奏をやめるときが、サヨナラの瞬間だ。
悲しい。でも、よそ者であるあたしの悲しみなんて、明日実や和弘たちのいだく本物の喪失感とは違うんだろうと思う。生まれたときから絶対にそこにあると信じてきたものを、明日実も和弘も失うんだ。あたしは、ここから去っていけるけれど。
だから涙は流さないと、卒業式でも閉校式でも、唇を噛んで目を見開いた。明日実よりも激しく泣いてしまったら、和弘に「わかるよ」なんて言ったら、どこかに嘘がまぎれ込むような気がして。
同じ場所に立って同じ悲しみにひたることができなくても、せめて、できるだけ嘘のない自分でいたくて。
唄が終わる。あたしは、最後のCメジャーを掻きむしって、一本のギターに出せる最大限に華やかな音で、ラストをしめくくった。
余韻。セミの声。潮風が山を駆け抜ける音。
明日実が再び声を張り上げた。涙をこらえて、はち切れそうな声だった。
「気を付け、礼! 真節小学校、ありがとうございました!」
ありがとうございました! 全員が、腹の底からの大声で言って、深々と礼をした。泣き声があちこちから聞こえた。
立ち去らなければならない。
最初に大人たちが、工事担当者たちに頭を下げて、校舎のほうを見ずに、足早に去っていく。明日実の伯父さんだけが、突然振り向いて、屋上に向けて手を振った。まるでそこに誰かがいるみたいに。
誰もいない。いるはずがない。屋上には、国旗掲揚のためのポールが、夏の日差しの中で鈍く輝いている。
祝日を思い出した。屋上のあのポールに国旗を揚げるのは、教頭先生である父の仕事だった。あたしも何度もついて行った。正月一日も、初詣の前に真節小に寄って、冬の季節風が吹き付ける屋上で、父が旗を揚げるのを見ていた。
大学生や若い大人たちが、無理のあるはしゃぎ声を上げて、自撮りするぞと騒ぎ出した。言い出しっぺの、日に焼けた男の人が、スマホを持った手を低く伸ばして、その背後に押し合いへし合い、全員を立たせて、校舎をバックにシャッターを切る。
わーっと、にぎやかなあの人たちは、あたしたちよりも人数が多かったころの卒業生だ。たった四人のあたしたちは、あんなににぎやかに苦労しなくても、簡単にスマホのカメラに収まってしまう。
まるでただの下校時刻みたいに、自撮りを終えた泣き顔の大人たちは、無理やり笑って校舎を見上げる。バイバーイ、って、わざと軽い声で言って、足並みをそろえて帰っていく。
あたしたちも、もう、行かないと。
のろのろと、あたしはギターをケースにしまった。和弘がしきりに鼻をすすりながら、カメラを良一に返した。良一はカメラを受け取って、手の甲で涙を拭った。
明日実は笑った。
「じゃ、行こっか」
声を出した瞬間、つっかえが取れたみたいに、明日実は、わーっと泣き出した。子どもみたいに大泣きしながら、明日実は歩き出す。和弘が明日実の肩を抱いた。良一の目からも、ぽろぽろと、涙が止まらない。
あたしたちは、校舎に背を向けた。遊具も何もなくなった、乾いた校庭を歩いていく。校舎が取り壊された後、ここがどうなるのか知らない。あたしはもう二度と、ここへは足を踏み入れないかもしれない。
真節小が好きだった。古びた校舎が好きだった。たった四人で占領した教室が好きだった。今となってみれば信じられないくらい、毎日、笑ってばっかりだった。ただただ楽しかった。
あたしが初めて真節小の校舎に入ったのは、始業式の日じゃなくて、引っ越してきた当日、三月の終わりだった。
小近島への引っ越しは、運送会社の管轄外だった。代わりに、真節小に関わるいろんな人が総出で手伝ってくれた。その中に明日実と和弘の家族もいた。
荷物の運び込みが一段落した後、明日実と和弘が、あたしと父を連れて、校舎の中を案内してくれた。まだ良一が来る前だったから、全校児童は六人。全員が兄弟姉妹みたいなものだと、明日実と和弘は言った。広すぎる校舎は、探検するにはぴったりだった。
なくなってしまう。大切だったものが。
「何でだよ……」
悪いことをしたから取り上げられるとか、そんなんじゃない。誰も何も悪くなかった。ただ、そういう運命だからあきらめなければならないのだと、いきなり突き付けられた。失いたくないものを失う道へと、突然、放り込まれた。
どうして? 何で?
繰り返したって、仕方のない問いだ。でも、だけど、胸の中に熱いものが渦巻いている。せり上がってくる感情で、喉の奥がゴツゴツして、鼻がツンとする。
泣きたくない。泣くもんか。泣くためにここへ戻ってきたわけじゃないんだ。
あたしは振り返る。巨大なペンチの重機が、キャタピラを転がして、校舎に近付いていく。
サヨナラ。
あたしにたくさんのものをくれた、あたしの大切だった場所。
サヨナラ。サヨナラ。サヨナラ。
あたしは泣かないから。
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