3-5
廊下を歩いていく。生活科室の隣が図書室、その隣には会議室。そこにあったはずの机も椅子もカーテンもなくなって、窓ガラスは白く汚れてくすんでいる。天井にクモの巣が張っている。
職員玄関に置かれていた水槽は、もちろんもうない。キラキラ輝くメダカが飼われていたけれど、あの子たちはどこに行ったんだろう?
小学生用のトイレをのぞいて、サイズが小さいことに驚いた。それから、その隣の大人用のトイレをのぞく。和弘がニヤッとした。
「職員トイレ、初めて入る」
良一と明日実も、ただのトイレなのに、妙に楽しそうにニマニマ笑って、職員トイレの中に入った。掃除用具入れは空っぽで、水のない便器がひび割れている。
これ、撮影しちゃっていいのかな? まあ、編集する人がいるっていう話だったから、あたしが気にすることでもないか。
トイレというものにおもしろセンサーを反応させる小学生みたいな良一にカメラを向けながら、あたしは言った。
「あたし、夏休みに、職員トイレの掃除したことあるよ。使わせてもらったついでに」
明日実が目を丸くした。
「わざわざ職員トイレば使ったと? 何で普通のトイレ使わんやったと?」
「だって……トイレっていう場所、苦手だったし。真節小にはなぜか学校の怪談がなかったけど、前の学校では、トイレは怪談の宝庫だった」
昔はそういうのが苦手だった。ほかにも、理科室に近いほうの階段は、二階と三階の間の階段が十一段と十三段に分かれていて、十三階段にならないようにいつも一段ぶん飛ばして歩いていた。
和弘が含み笑いをした。
「結羽ちゃんがそげんこと言うっち想像しちょらんやった。かわいかところ、あるやんな」
「年下のくせに生意気」
「小学校時代の一歳差とか、ノーカウントやろ。生まれ年でいったら、同い年やし」
「カウントし直せ、バカ」
トイレを後にすると、その先は、子どもがあまり立ち入らなかったエリアだ。職員室があって、その奥に校長室があって、向かい側には保健室と放送室がある。
普段の学校生活では、何度そこに入る機会があっただろう? でも、ほかの子どもがいない場面で、あたしはよくそこに出入りしていた。遅くまで一人で職員室に残っている父に届け物をしたり、ときには母に言われて、父を迎えに行ったりしたんだ。
職員室と校長室と保健室だけ、冬には灯油ストーブが置かれていた。ストーブの上には、古めかしい大きなやかんが乗っかっていた。職員室は、そのお湯で淹れるお茶の匂いがほのかにしていた。
大人が使う部屋にはストーブがあって、ほかの教室は暖房器具なんてなかった。それでも過ごせる程度には、島の冬は暖かかった。
空っぽの校長室をのぞき込んで、良一がポツリとこぼした。
「初めて小近島に来た日に、あれは四月の半ばだったけど、おれ、この校長室で泣いたんだ。転校するたびに痛い目にあってきたし、慈愛院での生活がどうなるのか不安だったし。校長先生に、頑張れよって言われた瞬間、涙が出てきたんだよね」
良一が特殊な家庭事情を抱えていたことは知っている。具体的に何があったのかはわからない。良一が話さない以上、こっちから聞いちゃいけないことだと、あたしたちも子どもながらに理解していた。
あたしより半月遅れで真節小にやって来た良一は、汗ばむくらいに暖かい日だったにもかかわらず、寒くてたまらないかのように震えていた。「仲よくしましょう」という校長先生の言葉は、形式なんかじゃなく、もっと切々としていた。
良一は振り返って淡く微笑んだ。
「校長先生は、おれが泣き止むまで待ってくれた。頭や肩に、ぽんぽんって、手を載せてくれたりしてね。その手のひらが本当に優しくて、何を言ってもらったのかは覚えてないんだけど、受け入れてもらってるって感じたのはよく覚えてる。嬉しかった」
たぶん、そのときの良一は、初めは校長先生の手のひらにおびえただろう。良一にはあまり自覚がないようだったけれど、何気なく触れようとすると、良一のやせっぽちの体はビクッとこわばった。
夏が近付いて、みんな、だんだん日焼けしていった。気温が上がっていくのにつられるみたいに、良一は震えなくなった。手のひらにビクビクしなくなった。そして、秋になって少しずつ肌寒くなっても、良一の温度は高いままだった。
校長室を出て、廊下と同じ大理石の階段を上る。
職員室側のこの階段は、父のトレーニングスペースだった。運動好きの父は、先生方が帰った後に校庭で走っていたけれど、雨の日には階段を走って上り下りして、運動不足を解消していた。
廊下や階段を走ってはいけませんって、先生は言うものなのにね。父は、放課後になったら、自分からそれを破って走っていた。そのことを「変だよ」って言ったら、笑ってごまかしていた。あたしも一緒に笑った。
二階に上がったところに、資料室という名の空き教室が二つ、郷土資料室が一つある。もともとは、ここも子どもたちが通ってくるための教室だったはずだ。それは何年、何十年前のことだったのか、大人たちでさえ覚えていなかった。
資料室のうち一つには、卓球のラケットとボールが置いてあった。ラケットは、ラバーがすっかりはげているのも多かった。休日、両親と卓球をすることもあって、ここに用具を取りに来た。薄暗い資料室に入るときはゾクゾクしたものだ。
空き教室群のところを離れて、低学年の教室の前を通る。四十人が入れる教室に三つだけ机が並ぶ光景は、もうない。黄ばんだカーテンも掛けられていない。朝の会で奏でられていたオルガンもない。教室の角の高い場所に設置されていた古いテレビも。
階段の脇をかすめて過ぎて、理科室の真上は図工室だ。熱がこもった部屋を、良一が見渡す。
「特別教室って広いよな。ここをおれたちだけで使ってたんだ。描きかけの絵や作りかけの作品も、ほかのクラスに気兼ねする必要がないから、図工室に置きっぱなしにしてたよな」
良一は、広い広いと歌うように言って、腕を広げて、クルリクルリと回ってみせた。その瞬間、古い図工室がステージに化けた。視線が、ハッと、良一へ惹き付けられる。
舞っているように見えた。ごく何気ない、ただクルリと回ってみせるだけの動作が、あまりにも美しくて。
埃がうっすらと、幾重もの幕を引いている。そこに差し込む夏の光が、直線から成る幾何学模様を描いている。偶然が生み出したその舞台装置の真ん中で、良一は、翼を広げるように腕を広げて、静かに微笑んで、舞っている。
見えない翼を、あたしだけじゃなく、明日実も感じたみたいだ。
「模造紙ばつなげて、全身の形ばなぞり書きして、そればベースにして自分の理想の姿ば描くっていう授業が、五年生のとき、あったね。良ちゃんは、自分の背中に翼ば描いた。あの絵、よく覚えちょっと。良ちゃん、きれいやなって」
「空、飛んでみたかったんだ。死んだら天使になるとか、そういうんじゃなくて、ただ純粋に、自由に空を飛ぶための翼がほしかった。今は、あのころ憧れてた飛び方っていうものが、少しわかったよ」
「飛び方がわかった?」
良一は両腕を広げてゆったりと羽ばたく。
「イマジネーション。空想して、表現する。自分の中にあるものを、ほかの誰かにも見える形にする。モデルの仕事をいただいて、表現活動の世界の片隅にいられるようになって。そしたら、あ、今、おれ飛んでるなって思える瞬間に、ときどき出会えるんだ」
今、飛んでる。
わかるよ。自分が飛ぶ瞬間も、良一が確かに今、飛んでいるということも。だって、あたしも飛びたいし、ときどき飛べるし、ずっと飛んでいたいと望んでいるから。
良一は、両腕に託したイマジネーションの翼をたたんだ。すたすたと、そっけなく歩いて、こっちの世界に戻ってくる。
「次、行こっか」
軽く汗を拭いながら良一が言った瞬間、図工室は、ただの古ぼけた空っぽの部屋になった。
図工室を出て、十一段と十三段の階段を上る。あたしはやっぱり、十三階段を避けてしまった。それを目撃した和弘がニヤッとする。
「学校の怪談」
「うるさい」
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