3-4
体育館を出て、踏み板のなくなった渡り廊下を通って、児童玄関から校舎に入った。埃っぽくて蒸し暑い。児童数よりもはるかに多かった下駄箱は、そのまま残されていた。傘立てもあった。
真節小の廊下は、板張りじゃない。砂や埃で白く覆われた廊下は、くすんだ濃いピンク色をしている。良一はしゃがみ込んで、汚れた床に触れた。
「大理石だよね、これ。梅雨とか台風とかのとき、すごい滑ったよな」
廊下の真ん中には、ペンキで白線が引かれている。昔は、白線の上に点々と、特別教室用の四角い木の椅子を彩色したものが花台として置かれていて、「廊下を走るな、右側を歩け」の標識になっていた。
玄関から入って、右手の奥にあるのが理科室だ。机も椅子も、理科準備室の棚も、何もかもなくなっている。ホルマリン漬けか何かの薬品っぽい匂いは、かすかに残っている気がする。
和弘が顔をしかめた。
「おれ、理科準備室、嫌いやった。ホルマリン漬けの魚とか蛇とか、いろいろ置いてあったろ? あれが、ざまんごて嫌いで」
良一が賛成する。
「おれも苦手だった。理科っていうより、家庭科だよ。この学校、家庭科室がないだろ? なぜか理科室で調理実習してて、調理用具の棚の向かいにホルマリン漬けがあったよな。包丁を取り出して振り返ったら、瓶の中の魚と目が合って、怖かった」
このへんだったっけ? と、良一がいい加減な場所に立つ。あたしはカメラを持ったまま、奥のほうを指差した。
「そこじゃない。あと三歩くらい奥。そのへんに置いてあったのは、リトマス試験紙とか、ヨウ素液とか」
「え、結羽、そこまで覚えてるの?」
「在庫のチェック、したことあるの。理科の実験用具はボロすぎて、目も当てられなかった」
「まあ、確かに。理科の実験はビデオを観るのが多かったな。実際に手を動かしてみたかったけど、そんなに使い物にならなかったんだ?」
「リトマス試験紙は湿気てて反応しないし、ヨウ素液も変質してダメだったし、アルコールランプは中身が蒸発してたし、ビーカーは目盛が消えてたし、ピペットはゴムが破れてたし。でも、もうすぐ閉校する学校が新しいのを買えるわけもないでしょ?」
明日実が笑って反論した。
「でも、生物の実習は、よその小学校よりちゃんとしちょったよ。花壇で野菜ば育ててカレー会ばやったり、近所のばあちゃんちの芋畑ば手伝ったりもした」
ああ、と良一がうなずいた。
「学校でも畑仕事をしたし、教会の花壇や畑もいじった。植物って、かわいいんだよな。台風のときは、無事でいてくれって、必死で祈ったよね」
「うち、てるてる坊主もよく作りよったよ。なつかしか」
理科室を出て、児童玄関の前を過ぎると、空き教室を贅沢に使った生活科室がある。その向かい側の屋外には、給食室と名付けられた小屋が、まだ当時のままで残されていた。
「給食室、あったなー。おれ、実はあの給食のせいで、いまだにパンが苦手なんだよ」
「良一も? あたしも和弘も同じさね。結羽は?」
「パン、食べない」
給食とは名ばかりのそれは、大近島から届けられるパンと牛乳だった。あたしたちは、おかずだけの弁当を学校に持っていっていた。牛乳はともかく、パンはちょっと、ハッキリ言って、おいしくなかった。当時は文句も言わず、残さず食べていたけれど。
良一が気を取り直すように言った。
「でも、火曜日は少し楽しみだった。牛乳に入れるパウダーが付いてたろ?」
あったあった、と明日実がうなずく。
「ココアパウダーとコーヒーパウダーが、週替わりで交代に付いてきよったね。牛乳パックば開けて、粉ば入れて、ストローで掻き混ぜて飲むやつ」
和弘が顔をしかめた。
「でも、あの粉、あんまし牛乳に溶けんかった」
「和弘はよく、袋を開けるのに失敗して、粉をぶちまけてた」
「良ちゃん、変なこと覚えちょっとやな。意地悪ぞ」
「ごめんごめん。火曜がパウダーの日だったのは覚えてるんだ。別の日は、何かジャムが付いてた気がする」
給食のメニューを、三人は「うーん」とうなりながら思い出そうとする。あたしは全部、覚えている。
「月曜がたまごパン、火曜が黒砂糖パン、水曜が食パン、木曜がはちみつパン、金曜がコッペパンで、たまにパインパン。火曜は牛乳のパウダーが付いてて、水曜はジャムが付いてた」
ほー、と、三人とも同時にフクロウみたいな声を上げた。良一はあたしのほうをまっすぐ向いて、つまり真正面からのカメラ目線で、あたしに言った。
「結羽、さっきから感じてたんだけど、記憶力いいな」
「給食のパンや牛乳が余る日は、父が持って帰ってきてた。そういうのもあって、覚えてるだけ」
「それでもだよ。おれだって、真節小のころの暮らしはものすごく印象深くて、毎日毎日、できるだけたくさん覚えておこうって日記もつけてたんだけど」
「三行日記でしょ。宿題っていう名前の課題が出ない代わりに、毎日やる約束になってたもののうちの一つ。漢字の書き取りを一ページと、算数のドリルを一ページと、十五分以上の読書と、三行日記」
「それだ。おれは三行で満足してたんだけど、結羽はときどき、ものすごい長文を書いてたよな。どうやったらそんなに書けるのか、不思議でたまらなかったんだけど、今わかったよ。見てる場所が違う。見ようとするものの深さが違う」
「別に。あたしにとっては、これが普通だから」
見え過ぎる目なんて、ないほうが楽だったんじゃないか。そう気付いてしまったら、自分という生き物へのうとましさが、いっそう増した。自分で自分の首を絞めてばかりだ。そんな自分が面倒くさくて、嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ。
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