4. スカイブルーの歌声

4-1

 階段を上った先、図工室の真上は音楽室だ。

 真節小の音楽室の楽器は、古くても上等のものばかりだった。閉校にあたって、父が楽器の寄贈先を探していたのを覚えている。そのうちの一つが、あたしのギターだ。面倒な手続きを経て、どうにか許されて、あたしが受け取った。

 寄贈先が決まらなかった楽器もあったはずだ。一つや二つじゃなかった。図書室の本もそう。比較的きれいだった一輪車やバスケットボールも。

 もったいない話だった。でも、ほしいと言う誰かが引き取ることも許されなかった。だって、学校の備品は公共のものだ。勝手に持って帰れば、法律で罰せられる。

 真節小の図書室で出会った大好きな本たちは、きっと、もうこの世に存在しないだろう。校庭にあった遊具、どこに行っちゃったのかな。全部、処分されてしまったんだろうか。思い出だけがたっぷり詰まった、もはや何の役にも立たないゴミとして。

 ふと、和弘があたしの後ろに回って、カメラの画面をのぞき込んだ。

「これ、操作は簡単?」

「見てのとおり。スマホで撮影するのと同じ」

「じゃあ、おれが代わるけん、結羽ちゃん、ギターで何か弾いて。そのギター、ずっとここにあったたい。最後にもう一回、ここで鳴らしてやってよ」

 いいね、と良一が言った。

「おれも和弘と同じこと考えてた。ギターの里帰りだよ。結羽の演奏も映したかったし」

「うん、うちも聴きたかった!」

 あたしは和弘にカメラを渡した。正直なことを言えば、音楽室に入ったとたん、全身がざわめいたんだ。楽器が一つもなくなった、がらんどうな部屋なのに、音楽室だけに満ちる空気の匂いがここにはまだ残っている。

 ギターケースを背中から降ろす。こもっていた熱がほどけて、背中がすーすーした。タンクトップもパーカーも汗で湿っている。

「弾いてもいいけど、泣かないでよ」

 ケースからギターを取り出す。ストラップを左肩に掛けて、ざっとチューニングを済ませる。

 和弘があたしにカメラを向けている。明日実はカメラのラインを避けて、横からあたしの手元をのぞき込んだ。

「結羽、何ば弾くと?」

「あの青い空のように」

 良一も明日実も和弘も、ああ、と息をついた。

 あたしがギターを弾くきっかけになった、地域を巻き込んでの学習発表会。そこで披露した曲が「あの青い空のように」だった。

 あたしは三人に訊いた。

「歌詞、覚えてる?」

 三人ともうなずく。

 あたしと明日実、良一と和弘がペアで、あたしたちが主旋律、良一たちが副旋律を歌った。

 声変わりした良一と和弘には、小学生の合唱曲って、ひょっとしたらきついかもしれない。大丈夫かと訊こうか迷ったけれど、やっぱりやめた。どうにか歌うだろう。もともと、二人とも歌が下手ではないし。

 「あの青い空のように」は、ヘ長調の曲だ。ギターコードでいえば、Fメジャー。ファソラシドレミファのナチュラルの多い音階で、シだけがフラットになる。間奏に入れたリコーダーでは、和弘がシの指遣いに苦戦していた。

 あたしはピックをつまんだ。音楽室を見渡す。防音効果の高い、ポコポコと穴の開いた独特の壁と天井。ギターの練習を始めたばかりのころ、すぐに指も手も腕も肩も痛くなって、途方に暮れて、ため息をつきながらあの壁と天井を眺めた。

 ピックをつまんで、そっとささやく。

「うまくなったよ。あたしは」

 ピアノを習っていたあたしは、小学生の割に指の力もあったし、関節も柔らかかった。だから、最初からそこそこできてしまったけれど、練習を重ねた今では、左手は苦労せず六本の弦を押さえることができる。ごまかしのFしか弾けなかったのは、昔のことだ。

 和弘は、ビニール製のギターケースをうまいこと台にして、そこにカメラを置いて角度を合わせた。

「マイクのバランスって、あるやろ。歌うときは、きれいなバランスで撮りたかけん」

 あたしは、ふと思い出して、フードをかぶった。ますます蒸し暑い。でも、このほうがいい。あたしは良一を振り向いた。

「歌う動画は、hoodiekidのほうがいいでしょ?」

「そうだね。ありがとう。演出に協力してくれて」

「別に。弾くよ」

「うん」

 Fメジャーから始まる前奏。弾んだ調子で歌う青空のうたに合わせて、軽快なカッティングで伴奏する。

 あたしと明日実が、なじんだ呼吸で歌い出す。一小節遅れて、輪唱の副旋律。良一と和弘の声を聞き慣れないと思い続けていたけれど、案外高く伸びるその響きに、ハッとする。丁寧に張り上げる声に、幼さの名残が確かにある。

 あの青い空、と歌い上げるとき、良一と和弘の低音が、あたしと明日実を支える。なかなか音がハマらなくて、何度も何度も練習した。良一も和弘も、自分の旋律だけなら歌えるのに、高音がかぶさると、わけがわからなくなって。

 テンポを落として、じっくりお互いの声を聞きながら、呼吸を合わせて、さあ。そんなふうに根気強く練習して、初めてハーモニーが噛み合ったときの感動。これだ、って叫んで飛び跳ねた良一と和弘。あのとき、本当に嬉しかった。

 始まってしまった唄は生き物で、一瞬ごとに終わりに近付いていく。昔、リコーダーで奏でた間奏は、ギターで即興のアレンジを突っ込んだ。再び歌い出して、ああ、夢中になれる時間が、一瞬、また一瞬、過ぎ去っていく。

 ずっと歌っていられたらいいのに。昔みたいなリズムで、呼吸で、ハーモニーで。

 でも、時間は流れていく。唄は終わってしまう。

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