2-5
ダークブルーの空がわずかに白く緩み始めたころ、小近島のほうから漁船のエンジン音が聞こえてきた。その音を合図にしたように、良一が身じろぎした。うっ、と、かすかにうめく。
一瞬、あたしは、びくっとしてしまった。良一の声がひどく男っぽかったせいだ。
良一は、男っぽい感じのままで長い息をつきながら、背中を丸めがちに起き上がった。
「おはよ、結羽」
「うん」
「今、朝五時くらいだろ? あのエンジン音、明日実のとこの船だ。小六のころに、あれに明日実が乗ってるって知って以来、あのエンジン音が聞こえる時間帯には勝手に目が覚めるようになった」
良一は小近島のほうへ、眼鏡の目を向けた。船影は見えない。
同級生の明日実の家は小近島の網の元締めだ。毎朝あんなふうに、定置網とタコツボ、クルマエビの養殖場を見回るのが一日の最初の仕事らしい。明日実は小学四年生のころから、父親の見回りを手伝っている。一つ年下の弟、和弘も一緒に。
そろそろ夜明けだ。夜が、あたしの時間が、終わってしまう。
あたしはギターをケースにしまった。立ち上がろうかと思ったけれど、脚が痺れている。あたしは引っくり返って、腰をそらした。見上げる空は、闇が淡くなって、天の川が朝の光に呑まれかけている。
良一が、いまだに聞き慣れない声で、あたしの名前を呼んだ。
「結羽」
あたしが応えずにいると、良一は再び、結羽と呼んだ。
「何?」
「結羽、あのさ……そういう格好」
「脚が痺れた。腰が疲れた。眠らなくても平気だけど、たまに寝転ばないと、体がきつい」
「そういう無防備な格好、しないでくれる?」
「は?」
「ヤバいんだけど。普通にエロいよ。おれも寝起きで、ちょっと、何ていうか……心身ともに、昼間のちゃんとした状態じゃないから」
怒りが沸いた。気持ち悪いとも思った。
「何くだらないこと言ってんの? 海に蹴落としてやろうか? 泳げば頭冷えるんじゃない?」
あたしは起き上がって、立ち上がった。まだ脚の痺れは消えていなくて、ゆっくりしか歩けない。ギターが重い。
良一は、隣には並ばなかった。数歩ぶん遅れてついて来る。
「結羽、ごめん。失礼なこと言った。ほんと、ごめん」
「うるさい」
「おれ、混乱してるんだよ。久しぶりに島の風景を見て、なつかしくて嬉しいのに、今日、真節小の取り壊しが始まる。結羽と久々に会えたのも嬉しいんだけど、明日にはもうサヨナラだろ? それで……」
「だから何?」
「結羽は、混乱してない?」
「別に」
「何でそんなふうなんだよ?」
「さあ? 感情が壊れてんじゃないの?」
「嘘だ。感情の壊れてる人間に、あんな唄が書けるわけがない。胸の中を掻きむしられるみたいな、すごく響く唄だよ。悲しくて、苦しくて、もどかしくて、いい唄ばっかりだ。でもさ、笑わなくなったよな、結羽は」
「笑わないし、泣かないよ。いつもイライラしてるだけ」
「明るい唄、書いてほしいよ。遺書みたいな、これから消えちゃうんじゃないかって不安になるような唄ばっかりじゃなくて」
「無理。あたしはそういう明るい人間じゃない」
良一は何かを言いかけて、その言葉を呑み込んだ。少し黙って、別のことを訊いてきた。
「結羽、学校行ってる?」
「行ってるよ。公立の進学校」
「寝てないんだろ? 今日みたいに」
「寝なくても生きてられるの。そういう体質」
「いつから?」
「どうでもいいでしょ。高校卒業するっていうのが、親との約束。そこから先は未定。まあ、進学はしないと思うけど」
良一の足音が止まった。あたしは反射的に振り返りそうになって、だけど、前を見て歩いた。良一の声が追いすがってきた。
「真節小のころ、結羽はおれの憧れだったよ。明るくて、ハキハキして、思いやりがあって、誰にも染まらない。カッコよくて強くて、頼れる存在だった」
あたしはひそかに安堵した。小学生のあたしは、ちゃんと、理想とする人物像を演じられていたんだ。
「昔は昔、今は今。あたしは変わったの。いや、こっちが本性だったんだと思う。昔は上手に、いい子のふりをしていられたけどね」
「どうしてそんな投げやりなことばっかり言うんだ?」
「あたしは、会いたくなかった。誰にも」
「おれは、会えてよかったよ」
声だけじゃなく、良一自身があたしに追いすがってきた。良一は、あたしの斜め前まで進み出ると、あたしの顔をのぞき込むように、後ろ向きになって歩いた。
「結羽、何があったんだよ? 中学に入ってから音信不通になって、家に電話かけても出てくれないし、教頭先生にも訊きづらいし、動画のコメントも返してくれないし。でも、こうやって再会できたんだ。話をしたいよ」
「余計なお節介。あたしは何も話したくない」
「……ごめん」
吐き捨てたあたしに、良一はうつむいた。
「傷付きたくないなら、かまわないで。傷付く覚悟もないくせに」
「覚悟、か」
「あんたがいろいろ頑張ってるのは、あたしもネットとか見て知ってる。表現活動そのものだけじゃなくて、愛されキャラって言われてて。でも、そういうやり方、あたしにまで押し付けるな」
良一が顔を上げて、無理やりみたいに笑った。
「おれのこと、見てくれてるんだ? ありがとう」
感謝を習慣にしたい、ありがとうを口癖にしたいと、インタビューで良一は答えていた。無理やりにでも「ありがとう」と言うのは、仕事だ。あたしの前でもそれをやるのか。
「あんただって変わった。昔はもっと純粋だった」
良一は笑顔を上手につくろって、完璧な仮面を作り上げた。
「純粋なだけじゃいられないよ。こうやって笑顔を保つことも、練習しなければ身に付かない。新人とはいえ、おれはプロとして仕事してるんだ」
プロとして仕事。その一言が胸に刺さる。
「あたしも早く自立したい。プロって呼ばれるようになりたい」
高校を卒業するまでに、足がかりだけでも見付けておきたい。
「やっぱりプロのミュージシャンになりたいの?」
「なりたい」
「なれるよ、結羽なら」
低い声が柔らかく響いた。反射的にイラッとした。
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