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 家じゅうの電気が消えて、しんとした。岡浦はお年寄りが多く住む地区だからか、集落の家々の明かりも、すでにない。

 曲がりくねった県道沿いに、頼りなげな外灯がポツン、ポツンとある。船着き場の一帯だけ、少し明るい。

 星が、降ってきそうに輝いている。白々とした天の川は、山の端から空の真ん中を通って、小近島の影に突っ込んで消える。

 今夜は月がない。昨日は明け方に、爪を突き立てた痕みたいな形の月が、弱々しく輝いていたけれど。月のない空は、星が本当に明るい。

 あたしは窓から抜け出した。真夜中の県道に立って、じっと、夜を眺めている。ケースに入れたアコギを右肩に引っ掛けただけで、財布もスマホも置いてきた。スマホで動画を撮ろうにも、岡浦の夜は暗すぎる。何も映らないだろう。

 潮風が涼しい。一人だ。今夜はパーカーのフードをかぶらない。

 ガードレールがひどく白い。岡浦湾の静かな波は、平たい銀色をしている。

 くさむらからも山からも、虫の鳴く声が聞こえてくる。秋の虫は、夏に入れば、もう鳴き出すものだ。どこか遠くから、犬の鳴き声が聞こえた。山犬だと思う。

 音はあるけれど、静かだ。人工的な音でないものたちは、一つも、うるさくない。

 昔は夜が怖かった。真っ黒に沈んだ山や、そっとうなりながら波打つ海から、何が出てきてもおかしくないように思えた。

 だけど、今は、闇が優しい。

 不眠症と診断されたことはない。病院に行ったことがないから。でも、医者の診断なんて必要ないくらい、あたしは毎晩、一睡もしない。眠らない日々を重ねて、ごくたまに、ほんの数十分、うつらうつらと夢を見る。

 あたしは夜が訪れるたび、居心地のいい暗がりを求めて家を抜け出して、ギターを弾いて歌う。今住んでいるのは、幸か不幸か、暗い山も海もない住宅街だ。遅い時間に帰宅する人々の目を避けて、パーカーのフードを深くかぶる。たまに、歌う動画を撮る。

 ずっと夜ならいい。世界は明るくならず、あたしは学校に行く必要もなく、ずっと歌っているんだ。そして、食事や睡眠っていう面倒くさいことにわずらわされず、歌って歌って歌い続けて、そのまま、風に吹き払われて消えてしまいたい。

 できないことだ。わかっている。夜は明けてしまうし、あたしは高校生だし、食べなければふらふらするし、眠れなくなった体は重苦しくて仕方ない。おとぎ話みたいに、跡形も残さずきれいに死んでいけるなんて、あり得ない。

 でも、今は、今だけは、暗くて静かな夜の中に、あたしひとりだ。あたしがこの夜を支配しているんだ。

 と、そう思ったときだった。足音を聞いた。あたしは振り返る。

 良一が立っていた。

 闇に慣れた目に、白いシャツがまぶしい。パジャマ代わりのイージーパンツ。意外なことに、眼鏡を掛けている。

「何やってんの?」

 あたしの問いかけに、良一は、ゆるりと首をかしげた。

「それはおれが結羽に訊きたい。網戸が開く音がしたから、気になって外を見たら、結羽がどこかに行くところだった。どこ行くんだ? 何やってるんだよ?」

 違和感があった。眼鏡のせいだけじゃない。表情のせいだと、あたしは気付いた。違和感の正体は、良一が商売道具みたいな微笑みを顔に貼り付けてないせいだ。

 あたしは良一から顔を背けた。

「ただの散歩」

「こんな真夜中に?」

「眠れないし。ギター弾けるとこで適当に過ごすの」

「危ないよ」

「危ないって、何が? 変質者がいるとでも? こんな小さな集落にそんなのいないって、あんただってわかってるでしょ」

「山犬とか、鹿とか、猪とか」

「食べ物が十分な夏場に、わざわざ海際まで下りてこない」

 あたしは歩き出す。良一がついて来る。

「散歩って、どこまで?」

「とりあえず、船着き場。あそこなら外灯があるから、ギター弾ける」

「おれも行く」

 良一はあたしの隣に並んだ。あたしは、良一とは反対側に顔を向けた。透明なダークブルーの海がある。

 ついて来るな、と言った。うざいんだけど、とも言ってみた。良一は黙って聞き流した。面倒くさくなって、あたしはそれ以上、何も言わなかった。

 ひび割れのあるアスファルトの真ん中を歩いていく。海は、満ちても引いてもいない頃合い。船着き場の浮桟橋は、陸と同じくらいの高さにある。コンクリートの防波堤の濡れ方を見るに、たぶん、今は引き潮だ。

 浮桟橋より少し先にあるコンクリートの防波堤は、灯台の役目も兼ねているのか、白々として見えるほど明るかった。防波堤に結わえられた漁船たちが、波間で眠りに就いている。あたしは防波堤の突端を目指す。

 外灯の真下で、海をのぞき込んだ。青く透き通る大きなカニが、突然落ちてきたあたしの影に驚いて、スッと泳いで逃げていった。ホコがあれば、突いてつかまえられたのに。あのカニの味噌汁はおいしいんだ。

 防波堤の突端に、あぐらをかく。ジーンズ地のショートパンツ越しに、コンクリートはそっけない温度をしている。ケースからギターを取り出す。ストラップを左肩に掛けて、あぐらの膝の上にギターを抱える。

 良一が、あたしの隣に膝を抱えて座った。

「そのギター、真節小にあったやつ?」

「そうだけど」

「里帰りだな」

「そんな感傷、興味ない。あたしはこのギターしか持ってないから、これをここに連れてきた。それだけ」

 五弦を鳴らしてみる。Aの音の高さに、わずかに届かない。ペグを締める。再び鳴らして、パチリと感覚が整う。五弦を基準にして、低音の弦から順にチューニングする。

「結羽、絶対音感があるんだっけ?」

「すべての音に対して、とはいえないけど、五弦のAだけは完璧に合わせられる」

 チューニングの後の最初のストロークはいつも、Aアドナイン。ピアノで言うところの、イ長調の変化形。開放弦が多い、伸びやかさと切なさを合わせ持つ響き。

 弾き語りで初めて覚えたうたの一番目のコードがAアドナインだった。その唄は、あぐらの膝の上にギターを抱えてストリートで弾き語る少女歌手が、自分の命の意味を込めて作ったもので、Aアドナインは彼女がいちばん好きなコードらしい。

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