2. ダークブルーの憂鬱

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 車は、窓から風を呑み込みながら走る。里穂さんは声を張り上げて、後部座席のあたしたちに言った。

「大近島にショッピングセンターができたって話、知っちょる? 三年前にオープンしたと」

 そのニュースは、明日実が知らせてくれた。だから、あたしも知ってはいるけれど、あまり想像ができない。

 里穂さんはこれから、そのショッピングセンターに向かうらしい。その前にガソリンスタンドに寄って、本土よりリッター当たり二十円高いガソリンを満タンに入れた。島には電車がなく、バスの本数も少ないから、自家用車は必需品だ。

 ショッピングセンターは、大近島の真ん中あたりにあった。山の一部を切り開いて平らにした土地に、スーパーと洋服屋と農協とホームセンターと電器屋とドラッグストアが造られていた。もちろん、広々とした駐車場もある。

 ショッピングセンターを中心に、大近島の各方面からの道が舗装されていた。真新しく黒々としたアスファルトは、古い道とは比べ物にならないくらいまっすぐに伸びている。

 里穂さんは、ドラッグストアで、お一人さま二個限りの特売品をあたしと良一にも二個ずつ持たせてレジに並んで、ほくほく顔だった。買い物を手伝ってほしいって、要するに、こういうことだ。

 ドラッグストアの戦利品を車に積んで、農協の野菜を買って車に積んで、スーパーに向かう。

 予想はしていたんだけど、どの店でも、里穂さんの知り合いに声を掛けられた。相手から見た里穂さんの立場はいろいろだ。大近島の高校の卒業生としてだったり、夏井先生の奥さんとしてだったり、婦人会のメンバーとしてだったり。

 大近島の面積はそこそこ大きいけれど、コミュニティは小さくて狭い。特に教師なんて職業だと、人との付き合いの範囲が広いから、家族に教師がいたら、どこへ行っても、誰からか声を掛けられる。

 里穂さんに話しかける人たちは、必ずあたしと良一にも挨拶してきて、この子たちは誰なのかと里穂さんに尋ねる。

 あたしと良一は、ひとまとめに「小近島の真節小の最後の卒業生」と言われることもあれば、あたしに「松本先生夫妻の娘さん」が付け加えられることもあった。

 あたしの両親は、島での教師歴が二十年くらいになるから、教え子とその保護者とか、元同僚とか、付き合いのあった人たちの数がとにかく多い。年賀状なんかを通じて、あたしの名前と顔も妙に知れ渡っている。

「あらぁ、もう高校生になったとね! おねえさんになって。おかあさんに、よう似ちょらすね。なつかしか!」

 一方的になつかしがられても、困る。あたしの顔立ちの雰囲気や声の感じは、母に似ているらしい。でも、キャラは全然違う。頑固で寡黙な父のほうが、まだタイプが近い。

 里穂さんのまわりに咲くおしゃべりを、聞くともなしに聞いているうちに、良一が今朝到着の夜行フェリーで大近島に渡ってきたことを知った。

「ぼくは昨日、東京から博多まで新幹線で移動してきて、博多の港から夜行フェリーに乗りました。外海って、波が高いんですね。夏場だし、天気もいいのに、外海に出たとたん、揺れ始めたんですよ。だから、船酔いしないように、すぐ横になりました」

 誰がどこからどう見てもカッコいい良一は、受け答えも礼儀正しくて都会的だ。里穂さんに声を掛ける女の人たちは、みんな良一を誉めちぎる。

 良一は、変な謙遜はしなかった。「そんなことないです」なんて否定するんじゃなくて、照れ笑いのような表情で「ありがとうございます」と言った。

 あまりにもよくできた笑顔だった。その「ありがとうございます」は、本当に、心からの言葉なの? そう疑いたくなるくらいに、良一の存在はきれいだ。きれいすぎる。

 カレーの材料を中心に、いろいろと買い物を済ませた後、大型スーパーに併設された全国チェーンのドーナツ店で休憩した。三人ともおやつは食べず、飲み物だけだ。

 里穂さんは島の外で暮らしたことがない。大近島の高校を卒業した後は、地元の漁協で働いて、幼なじみである夏井先生と結婚してからは専業主婦になっている。

 ファーストフード店のカフェオレには昔から憧れがあったんだと、里穂さんは笑って、おかわり自由のお手頃な味を楽しんでいる。そんなにいいものなんだろうかと、あたしは思う。

 あたしは、本土に住むようになった中学時代に、初めてファミレスに入った。ハンバーグの味に違和感があって驚いた。人工的な味だと感じた。つなぎの素材の匂いが気になった。味の濃いソースでもごまかせない違和感だった。

 島に住んでいれば、塩を振って焼くだけでおいしい魚が、毎日の食卓に上った。素材のままでおいしいのは魚介類だけじゃなくて、物々交換でいただく野菜や芋、農家からモミのまま買うお米、手作りの味噌、遠足で採ってきた山の実。

 あたしが知っている食べ物は、現代の日本のそれとは違う。フツーの日本の暮らしをしていては、おいしいと感じられるものがない。中学校の給食には、最後まで慣れなかった。ファーストフードやインスタント食品の風味と匂いも、どうしても苦手だ。

 食べなければと頑張れば頑張るほど、あたしは上手に食事ができなくなった。学校生活がガタガタに壊れていくのとも相まって、まず空腹感を忘れた。満腹感もわからなくなって、いつ何をどれだけ食べればいいのか、自分で判断がつかなくなった。

 当たり前のことが、あたしにはできない。食べるとか、眠るとか、笑うとか。

 カフェオレのカップを空にすると、三人がかりで大量の荷物を抱えて、車に戻った。 車のトランクには、クーラーボックスが載せてあった。冷蔵しないといけない食材を、里穂さんは手際よくクーラーボックスにしまい込む。

 良一は目を丸くしていた。

「クーラーボックス持参だなんて、用意がいいんですね」

 里穂さんは、何てことない様子で答えた。

「積んじょっ人、多かと思うよ。クーラーボックス。うちの場合、岡浦地区にはスーパーがなかけん、食材は一週間ぶん買いだめすると。そういうとき、やっぱりクーラーボックスがあったら便利やし、安心できるけん。ね、結羽ちゃん」

「そうですね。漁協に魚を買いに行ったりとか、釣れ過ぎた魚を急にもらったりとか、ありますし」

 良一は興味深そうに、クーラーボックスをデジカメで撮影した。スーパーや農協ストアでも、新鮮で安い地元の食品を撮影していた。そのいちいちで、里穂さんに撮影の許可を取っていた。

 里穂さんは、手をぱたぱたさせて笑った。

「わたしは写真も動画も気にせんよ。好きに撮ってくれて、よかけんね。島以外の人には珍しかろうし」

 違う、と、あたしは気付いている。島に住んでいた良一だって、自家用車に積まれたクーラーボックスや島のスーパーの品揃えが珍しいんだ。

 良一は普通の家庭で過ごしていたわけじゃない。慈愛院には、神父さまがいて、シスターが二人いて、血のつながらない兄弟姉妹が、良一を含めて六人いた。あたしにとっての島の日常と、良一が経験した暮らしでは、いろんなことが決定的に違っていた。

 買い物の後は、まっすぐ岡浦に戻った。里穂さんは、観光に連れていけるよと言ったけれど、あたしは断った。良一も特にリクエストがなかった。結局、新譜を聴きながら家に帰って、里穂さんのカレー作りを手伝った。

 夕方五時。

 時計を見るまでもなく、その瞬間、あたしは夕方五時だとわかった。各家庭の玄関や数百メートルおきの電柱に取り付けられた防災無線のスピーカーが、雑音混じりの「夕やけこやけ」を流したんだ。

「ああ……!」

 あたしと良一は、同時に、言葉にならない声を漏らした。

 なつかしい。なつかしすぎて痛い。胸がギュッと絞り上げられた。

 丸っこい電子音で奏でられる「夕やけこやけ」。これが鳴る時刻でもまだ、日本列島の西の最果てにあるこの場所では、日は沈まない。冬場でもだ。だけど、「夕やけこやけ」が鳴ったら家に帰るのがルールだった。

 家に帰ったら、洗濯物を取り込んでたたんで、流しに漬けてある食器を洗って、お風呂掃除をする。そうこうするうちに、母が船に乗って、仕事から帰ってくる。バタバタと慌ただしげな母を手伝って、晩ごはんの支度をする。

 小近島での夕方は、そんなふうだった。そうやって力を合わせなければ、何かと不便な島の暮らしは成り立たなかった。あれが当たり前だった。今となっては信じられないけれど。本当に。

 防災無線の「夕やけこやけ」からほどなくして、夏井先生が帰宅した。晩ごはんは、普段よりも早い時間帯だった。

 食べ終わるころ、母から電話が掛かってきた。お世話になりますの挨拶はしたのかとか、おみやげは渡してくれたのかとか、ちょっとうるさい。そのへんの常識は、あたしだってわきまえている。

 あたしはすぐにスマホを夏井先生に渡した。夏井先生から里穂さんにバトンタッチして、ついでに良一にも代わって、もう一度、里穂さんがスマホを手にして、しばらく話し込んだ。

 ずいぶん経ってから戻ってきたスマホは、体温が移ってぬるくなっていた。あたしはさっさと電話を切った。

 それから、空っぽになったカレーのお皿越しに、いくつかの会話が交わされた。晩ごはんの片づけを手伝って、明日の予定を確認した。

 明日は、真節小の取り壊しが始まる日。真節小とサヨナラをする日だ。

 そして、シャワーを浴びたら、案外あっさりと、一日が終わってしまった。

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