1-6

 昼ごはんが済むと、夏井先生は、岡浦小に出勤していった。七月三十一日。子どもたちは夏休みでも、先生たちには規定の出勤日数がある。当直もある。授業がないうちに作成しておきたい文書や資料もある。

 里穂さんが皿洗いをする間、きれいに拭き上げたテーブルの前で、あたしと良一はそれぞれのスマホを手に、別々の世界に入り込んでいる。と思ったら、良一が急に、小さな声を立てて笑い出した。

「斜め後ろ、頭らへんに視線感じない? ずーっと見ちょったとけど」

「全然。用があるなら、普通に声掛ければ?」

 あたしの視界の隅で、良一は肩をすくめた。

「まあ、確かにね。結羽、教頭先生は、明日は来られんと?」

「来ないよ。平日じゃん。そうじゃなくても、お盆休みの期間でも、学校のそばから動けない」

「え、学校の先生って、そんなに忙しかと? 夏休みなのに」

「うちの父の場合、夏休みはないよ。普段の土日だって、校長先生が在宅のときじゃないと、遠出もできない。学校で何かあったときのためと、出勤する先生方がいる場合、鍵の管理をしないといけないから」

「そっか」

 会話が途切れる。あたしはまた、スマホに視線を落とす。

 hoodiekidの動画に、新着通知あり。ほんの今しがただ。lostmanからのコメントで、急に思い付いたんだけどさ、っていう提案。

〈lostman|普段と違う場所で歌ったりしないの? 景色のいい場所とか。天気いいときの海のそばなんて、似合いそうなロケーションだと思うけど〉

 何をどう考えたら、あたしに海が似合うなんていう発想になるんだろう? hoodiekidとしてのあたしは、いつも暗い公園で、顔もろくに見せずに歌っている。海を歌った唄も、あるにはあるけれど、あれは真夏の明るい海の情景ではないし。

「ねえ、結羽」

 良一があたしを呼んだ。そのイントネーションが、昔とは違う。「ゆ」が高くて「う」で下がる。それは標準語のイントネーションだ。島の言葉なら「う」が高くなる。

「結羽、最近は何ばしよっと? 部活とか入っちょらんと?」

 昔のイントネーションで「結羽」と呼べないくせに、言葉尻だけは方言のふりをする。良一の話し方に、あたしはそろそろ限界だ。

「無理して方言しゃべるの、やめなよ。わざとらしい」

 ヒュッと、良一が息を吸い込んだ。吐き出されたのは、疲れたような笑いだった。

「やっぱり無理があったかな」

「音程が外れてるみたいに感じる。自分でもわかってんでしょ?」

「ごめん。でも、相変わらず、結羽は完璧な標準語をしゃべるね。本土だって、なまりはあるんだろ?」

 良一の言葉が、やっと、なめらかに耳に入るようになった。あたしは横目で良一を見た。

「あるよ。でも、それには染まらない。あたしは、音感はいいつもりだし、国語も得意。話す言葉はコントロールできる。標準語でいるほうが、どこにでも行ける」

「それ、昔も言ってたよな。すごいなって思った」

「別に、あたしにとっては普通」

 大ざっぱに「島の方言」とひとくくりにしても、別の島に行けば、イントネーションが違う。語彙が違うこともある。

 例えば、遊びのチーム分けをするための「うらおもて」は、島ごとに、まるで違った。

「うーららおーもーて」

「うーらおーもてっ」

「白黒じゃんけんぽん」

「てんがらわいの、わし」

 一つの島に染まれば、次の島に渡ったときに困る。幼いころにそれを感じ取って、以来、あたしは標準語で話している。あたしはどの土地にも染まらない。

 良一が改めてあたしに質問した。

「結羽は部活とかしてないの? ギターは趣味?」

「部活はしてない。塾も行ってないし、ピアノも再開しなかった。ギターは、趣味なんかじゃない。もっと本気でやってる」

「ごめんごめん。ギター、続けてたんだよな。聴けるの、嬉しいよ。なつかしくて。もちろん、すごいうまくなってるけど」

 ギターは五年生のころ、担任の先生に教わった。

 真節小の音楽室に、古いけれど上等なギターがあって、小近島を挙げての学習発表会の合奏で、あたしがギターを弾くことになった。良一や明日実じゃなく、あたしがギターを任されたのは、手の大きさのためだった。当時、あたしがいちばん体が大きかった。

 皿洗いを終えた里穂さんが台所から戻ってきた。

「二人とも、買い物ば手伝ってくれん?」

 疑問形だけど、イエス以外の返事を予想してない口調だった。

 いいですよ、と言ったら、良一と声が重なってハモった。声をわざと低くしてしゃべるあたしより、良一の声のほうが低かった。良一はあたしのほうを向いて笑って、あたしは良一から目をそらした。

 家を出るとき、里穂さんは扇風機のスイッチを切っただけで、ろくに戸締りをしなかった。島ではたいてい、そんな感じだ。

 白い軽自動車の後部座席に、あたしと良一は並んで乗った。良一は、スキニージーンズの長い脚を、きゅうくつそうに折り曲げている。

 車が走り出す。里穂さんは、鼻歌交じりでCDをコンポにセットした。弱虫と反撃の名を持つロックバンドの、今月リリースされたばかりのアルバムだ。本土みたいに便利なお店のない島では、ネット通販が強い味方だ。おかげで、新譜も確実に手に入る。

 良一は、Bマイナーのシリアスな響きが印象的な歌い出しに小声で乗っかると、嬉しそうに、くしゃっと笑った。

「里穂さんも、このバンド、好きなんですか?」

「うん。聴き始めたとは、割と最近けどね。実はね、結羽ちゃんのおかあさんに勧められたとよ」

 バックミラー越しに、里穂さんがあたしに笑い掛けた。あたしは、そうですか、と口の中でつぶやいた。

 母がロックを聴くのは、あたしの影響だ。いや、あたしを偵察するためだと、一時期、あたしは感じていた。母がうとましかった。あたしの好きな音楽、小説、漫画。母は血まなこになって、あたしを知ろうとしていた。あたしに近付こうとしていた。

 良一は無邪気そうに言った。

「おれも、実は、結羽がきっかけです。結羽、このバンド、好きって言ってただろ? 聴いてみたら、おれもハマった」

 そんな話、したことあったっけ? あたしが音楽を聴き始めたのは、小近島を離れて中学に入って、学校がつまらなくて、持て余したエネルギーの行き先を、音楽にぶつけるようになってからだ。

 毎日が楽しくないなんてことを言いたくなくて、あたしは良一たちと連絡を取らなくなっていった。好きなバンドの話って……hoodiekidの動画でたまに触れる程度だ。テロップにチラッと入れて、そこにコメントをもらったりして。

 横目で見やれば、良一の整った横顔がある。広めの額。眉間の下のなだらかなくぼみと、そこからスッと細く通った鼻筋。濃く長いまつげは伏せ気味に生えて、頬に影を落としている。

 小学生のころの幼かった良一と、モデルとして写真の中に収まっている良一と、隣に座っている生身の良一。同じ人物だとわかっているのに、全然違って見えてしまう。

 時の流れっていうのは、そういうことだ。変わらないものなんてないってこと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る