第一章 僕と夜光魚のこと(3)

 翌朝時生が春日井宅に向かうと、昨日は水瓶の中で泳いでいた夜光魚は既に硝子でできた瓶に移されていた。この時時生は初めて知ったのだが、件の夜光魚は、小ぶりな金魚ほどの大きさだったらしい。もっと大きいかと思っていたので、ほんの少しだけ拍子抜けしてしまった。


 その瓶を文机に乗せ、傍らでは春日井が突っ伏していた。


 どうやら夜通しこの魚の観察をしていたらしい。右手には粗く研いだ鉛筆が握られ、藁半紙に謎の線が描かれている。しかし途中まではきちんとした魚の絵柄だったので、やはり書きかけの状態で眠ってしまったようだ。


 苦笑しながらも、時生は文机の横で適当に丸められていた紺色の上着を引っ張り出し、それを春日井にそっとかけてやった。彼は眉間に皺を寄せながら軽く身じろぎしたが、のちに再び動かなくなってしまった。よほど眠いのだろう。そんなに眠いのなら、黙って寝床へ行けばいいのに。この横着ぶりにはほとほと困ったものである。


 ふっと息を吐き出すと、同時に異変に気が付いた。時生の鳶色に近い瞳に青く光る何かが飛び込んできたのだ。


「あ――」


 驚きのあまり一瞬声が洩れそうになったが、真横の春日井の存在を思い出し、慌てて口をつぐむ。幸い、春日井はその僅かな音にも気が付かないくらいに熟睡していた。


 その光の正体は、かの夜光魚だった。瓶の中を泳いでいた二匹が、一体何のつもりか突然絡み合うようにして水の中を舞い始めたのだ。その身体同士が擦れた刹那、色素の薄い身体がぱっと青く発光する。ぼんやりなんてものではない、なかなかに強い光だ。


 まるで瑠璃色のとんぼ玉のようだ、と思う。


 時生はその美しさに思わずみとれてしまい、ついついじっと覗き込んでしまった。


 二匹の魚はその後も踊るように絡み合い、幻想的な青い光の中じゃれ合っている。とても美しい。少なくとも、こんなに綺麗なものは生まれてこのかた見たことがなかった。



 ……という話を後々起きて来た春日井に話したら、大層悔しそうにしていた。


「どうして起こさなかった」

 と文句を言いながら鮎の煮浸しを口に咥えている。


 そう、春日井が目を覚ました時には、もう既に二匹の夜光魚はただの色が白い金魚へと戻っていたのである。時生の話を聞いた春日井は粘りに粘って、それから半時くらいは瓶を見つめていたのだが、結局二匹がそのような素振りを決して見せることはなかったので、諦めて遅い朝餉を食し始めたところだった。


 時生は困ったように肩を竦める。そしてあらかじめ冷やしておいた茶を湯呑に注ぎながら、

「だってよく眠っていたもので」

と返答しておいた。これは事実である。


「君ねえ。わたしがそれを見たがらないはずがないだろう。何せ一晩待っていたんだ、その現象を」

「そうだとしたら、先生は夜光魚に嫌われているんですよ」


 湯呑を春日井に出すと、自分の分も別の湯呑に注ぐ。その様子を、何か言いたげな顔をして春日井はじっと見つめていた。


「……わたしは生まれてこのかた、生物に嫌われたことはあまりないのだが」

「そうなんですか?」

「時生。君だって、わたしを嫌ってはいないだろう?」


 僕と魚を一緒にされても困る、と時生ははぐらかした。


 その発言に、彼はほんの少しだけ機嫌を損ねてしまったようだ。春日井はいつもの顰めっ面にさらにむすりとした雰囲気を上乗せし、飯を腹に詰め込み、出された茶をぐいっと一気に飲み干す。


 その拗ねた仕草が何だか無性に可愛らしく思えてしまい、時生はふいと膝のあたりに目線を落とした。時生流の照れ隠しだ。


「……好き、ですよ」


 ぽつりと、一言。こんなに細い声色になると思わなかったので、時生自身も驚いてしまった。一瞬目を見開いて、それからすぐに元の表情に戻る。


 それと同時に、春日井の動きに変化が見られた。彫像にでもなったかと思うくらいにがっちりと固まったかと思ったら、ぴくぴくと骨ばった指先が震え始める。


「君、それはちょっと反則」


 ようやく口にしたその一言で、時生は顔を上げる。


 春日井は機嫌をようやく直してくれたようだ。その証拠に、なんとも言えない複雑な顔をしているではないか。こう見えて、春日井はこういう、単純めいたちょっと可愛いところがある。それを見ると、ああ、やはり好きだなあと思うのである。


 くすりと時生は微笑み、きれいに平らげた食器を下げるべく丸盆に手を添えた。


「それにしても、魚が身体を擦りあわせる、ねえ」


 もう一杯の茶を今度は自分で注ぎ、一口だけ口に含んでから春日井はやや神妙な面持ちでぽつりと呟く。


「先生?」

「それが気になる。初めは生殖活動かと思っていたが、あの魚にはそもそも雌雄がない。別の『何か』なのだろうか……」


 そうして春日井は、すぐに学者の顔へと戻るのだった。


 時生は、そんな先生の横顔を見ると無性に好きだ、と思う。むやみやたらにそんなことを口にするのはよくないし、言ってしまえば先程の二の舞になりそうなので絶対に言わないが。


 食器を流しに下げながら、ほうっと時生は息を吐き出した。自分でもその息が熱いと思う。先程春日井を単純めいていると思ったが、そう考えた己も結構単純である。きゅうっと締め付けられるような、言葉にし難い気持ちがせり上がってくる。だがしかし、すぐに脳内にはそれを否定する冷めた言葉が投げかけられるのだ。


 それは裏切りでしかないのだ、と。


 その声を聞くと、時生はようやく平常心に戻ることができるのである。

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