第一章 僕と夜光魚のこと(2)
きょとんとして時生は首を傾げる。
「一体なんです?」
「庭から回った方がいい。それは適当に置いていいから」
何だか様子が変なので、時生は春日井の身体の隙間から廊下を覗き込んでみた。そして驚愕する。しんと静まり返った廊下には何やら大量に散らばった紙と、こぼした水の痕が点々と残っていた。まだ乾いていないということは、そう時間は経っていないのだろう。その水の跡は炊事を行うための土間から和室へと繋がっており、どうやらこの区間でなんらかの水の移動を行ったのではないかと推測される。
それでようやく時生は納得した。
「先生、僕は部屋を散らかしたくらいで怒りませんよ」
「……そういう訳じゃない」
拗ねかけたところをはいはい、と適当にあしらい――これがまた、手慣れている感じが否めない――、言われた通りに外から回りこむ。
春日井宅は独り暮らしの平屋にしては大きな造りとなっている。一応は借家だと言っていたが、この七年ほどは変わらずに住み続けているので、おそらく今後も何もなければこのままなのだろうと思う。
庭から回りこんでみると、いつもは閉じている縁側に面した広い戸が開け放たれ、開放的な空間へと変貌を遂げていた。風通しが非常によく、おかげでひゅんと風が吹きこむたびに室内に山積みにしていた紙が舞い上がってゆく。その行き先は廊下である。紙が廊下にまで散らばっていた理由がようやく分かった。つまりは、あの場所がたまたま吹き溜まりになっていただけなのだ。
その縁側に座るとちょうど覗きこめるような位置に、暗い色をした水瓶、それから取手が長い柄杓が一つずつ置いてあった。柄杓はやや湿っており、薄く溜まった水滴が太陽に照らされてきらきらと瞬いている。
そうしているうちに、中から春日井がやってきた。
「覗き込んで見るといい。君にとって、とてもいい勉強になるはずだ」
時生はその意味が理解できなかったが、きっと何か理由があるのだろうと思い、言われるがままに覗き込む。
水瓶の中を深い闇が支配していた。光の反射で、時折ちらつくように白く光ることから、その中は水でいっぱいに満たされているということが分かる。
「これが……、一体どうしたのです?」
尋ねると、溜息混じりに春日井は時生の頭をその大きな左手で引っ掴んだ。そしてぐいとその水瓶へと押しつける。その力に抗いきれず、そのままの体勢で彼は再び水瓶の中を覗き込む羽目となった。
「よく見てみなさい」
頭上から声が降る。
深い闇の中、ふわりと風が吹いた刹那の水の波紋。じっと見つめていると、彼の眸はその中に、銀の瞬きを捉えた。
「えっ……」
気付いたか、と春日井は笑い、ようやく時生の頭から手を離してくれた。その光の存在に気が付けばわざわざ顔を押しつけなくとも時生が食らいつくと知ってのことだ。案の定、時生は水瓶を覗きこんだまま、その正体を探ろうと再びじっと黙りこんでいた。
しばらく見つめていると、小さな銀の流線が水中でその身体を翻した。ちゃぷん、と小さな音を立て、波紋がゆったりと広がってゆく。一瞬見えた鱗の色が、銀に近い乳白色だったのがやたら印象に残る。そんな色の魚は、時生は見たことがない。
「
「やこううお、ですか?」
春日井は縁側に腰かけながら、愛用の煙管をふかす。独特の香りが風に流されていった。白い煙が輪を描く。その輪が広がる様が、なんだか先程の波紋のようだった。
「わたしの先生が、珍しい魚を見つけたから是非調べて欲しいと仰ってね。君も先程見ただろう」
それは先程、玄関先で出会った老紳士のことだろうか? それならば合点がいく。時生はぱっと顔を上げ、問いかける。
「先生の先生? じゃあ帝国大学の、ですか」
「ん、まあね」
あの人にはとてもお世話になったから、と春日井は呟き、そのままどこを見る訳でもなくぼうっとした眸を他所へ向けたのだった。
時生は再び水瓶を覗き込む。その「夜光魚」なる魚のきちんとした姿を見てみたいなあと心からそう思っていた。
暗い水瓶の中では、どうしてもその姿を拝むことはできない。どんなに覗き込んでも、その水底までは光が届かないのである。春日井が研究するということは、きっとこの水瓶から外へ出す機会があるのだろうが、その時に時生が一緒に居るかどうか。否、間違いなく居るのだろうが、春日井が観察を全面的に許可するとは思えなかった。なにせ、先程の話からするとこの魚の持ち主は春日井の恩師である人物のものだ。そんな大事なものを、他人に弄らせるなど到底考えられなかった。
それでは、どの機会を狙うとするか。
そう考えていると、縁側でのんびりと煙管をふかしていた春日井が唐突に口を開いた。
「水蜜桃」
一体何を言い出すのか。さすがの時生も理解できず、多少口ごもりながら返事する。返事、というよりは問い質すといった方が正しいか。
「はい。水蜜桃、ですか」
「食べようか。腹が減った」
何となく気になったので「先生朝餉は」と尋ねると、はっとした様子で春日井は目を見開いていた。この様子だと、また本か何かを読んでいて食べ忘れていたのだろう。
仕方がないので、時生は恐ろしく長いため息をついた後、朝餉の支度をすべく土間へと上がりこんでいったのだった。
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