第一章 僕と夜光魚のこと(4)

 さて、落ち着いてから和室に戻ってくると、当の春日井は硝子の瓶をじっと見つめ、再び魚を観察していた。荒く研いだ鉛筆が、藁半紙の上を走ってゆく。先程の会話で春日井に火が付いたらしい。なるほど、と時生は納得し、出来るだけ彼の思考の邪魔にならぬよう静かに自分の作業に取り掛かることにした。


 本日時生が仰せつかっていたのは、昨日書き終えたという草稿の下読みである。春日井が黙々と観察している間にさっさと終わらせてしまおうという魂胆だった。赤い色の色鉛筆片手に、汚い推敲だらけの原稿用紙をめくる。


 鉛筆が走る音と、紙が捲れる音。それらが交錯し、互いにぶつかり合う。この空間を満たす音は、全くの異分子であるが決して嫌じゃない。


 時生が横目で春日井の広い背中を見つめると、やや丸まった背中が傾いた。春日井の意識は完全に魚に持っていかれてしまっている。時生はふ、と安心したように微笑むと、視線を手元に戻す。彼の細っこい女手が、春日井の荒々しい文字をなぞる。


 しばらくそうしていると、


「君、君」

 と、突然名を呼ばれた。


「はい」


 顔を上げると、呼んだ張本人である春日井は未だに背を向けたままだった。


「こっちへ来なさい」


 視線は魚へ向けたまま、左手で手招きされる。一体何があったのだろう。時生は内心理解し難い、と思いながらも春日井の真横まで近づく。

 春日井は鉛筆の端で水槽を軽くつついた。こんこん、とぶつかる音がし、中の水が微かに揺れた。


「君が言っていたのはひょっとして、これのことか」


 瓶の中で泳ぐ二匹の夜光魚は、互いの体を擦り寄せ合うようにして水中に絡む。あ、と思った。擦れた刹那、乳白色の体が青く発光した。先程のようにはっきりとしたものではなく、螢の光のように微弱で淡いものだったが、確かにこの魚は青い光を放ちながら水に漂っている。


 これは間違いなく、先程の光だ。


「鱗を擦り合わせているのだろう。それが刺激になり、青く光る」

「刺激?」


 そう問いかけると、春日井の表情が固まった。時生はそれに気が付いていない。瓶を見つめて目を輝かせているだけだ。そんな時生に、彼は疑いにも似た声色でおずおずと尋ねて来た。


「ところで君」

「はい」

「君は海蛍について知っているか」


 海蛍ですか、と聞き返すと、彼はゆっくりと首を縦に振った。


「海の蛍ですよね」


 ははあなるほど、と春日井は頷いた。それからやはり、とも。彼はおもむろに立ち上がると、


「知らないのならそう言いなさい。別に怒りはしないから」


 その細い身体に纏っている墨色の着流しがやや崩れて、日焼けしていない首筋が露わになった。縁側から差し込む陽の光がその色をより一層淡白に映し出す。時生はそれを仰ぎながら、やはり先生は着物を着るのがへたくそだ、と思う。


「ちょっと来なさい。まずはお勉強が先みたいだ」


 時生がきょとんとしていると、「早く」と急かしながら春日井は時生の腕を取る。こうなると彼はもう止まらない。春日井は、結構、否、かなりせっかちなのである。きっと時生が海蛍について良く知らないのが気に食わないのだろう。自分が知っていることと門弟である時生が知っていることの水準をあくまで均一にしたい、それが学者・春日井の信念でもあった。というよりも、単純に水準を均一にしておいた方が後々の会話において煩わしい注釈を付け加えなくてもよくなる、という考えに重きがある気もするが。正直なところ春日井の性格上、そちらの説の方が極めて有力である。


 そういう訳で、時生は急かされるまま、春日井の書斎へと字の如く「引きずられながら」入りこんだのである。


 春日井の部屋は汚い。文机の左側には仮綴じにされた本がいくつも山積みにされ、その端からは細長く切った紙があちこちから飛び出ている。転がる万年筆が数本。加えて丸められた紙が床に点在していた。これでも春日井に言わせれば「秩序ある散らかり」だそうだから、また困ったものである。


「ええと……ああ、あった」


 その証拠に、どこに何があるかということはぼんやりと記憶しているらしい。すっかり呆れている時生をよそに春日井は背の低い箪笥の中からなにやら小瓶を取り出していた。それと、今は外気によりすっかり温んでしまった蒸留水も。


「時生」


 そして名を呼び、文机の前へ手招きする。いつも春日井が座っている場所に彼を座らせると、部屋の主は彼の小柄な身体を包み込むように背後から手を回し、その瓶から何かを取り出した。


 それは茶色い砂のようなもので、中央部に黒い部分もある、まったくもって不可思議なものだった。ぱらぱらと瓶からこぼれ落ちるそれは文机の上で小さな山を成し、後に春日井の骨ばった指によりまんべんなくならされる。


 首を傾げている時生には、実験用の細い棒を握らせた。


「これに水を数滴かけて、それで擦ってみなさい。わたしが覆ってやるから」


 時生の耳に息が届くほどの距離に春日井がいて、囁くような声色でそう告げた。外では相変わらず蝉がうるさいほどに鳴いているのに、時生の耳にはそれらを含めた春日井の声以外の音全てが一気に遠ざかってしまったかと思った。それだけ彼の声が鮮明に聞こえたのである。心臓が跳ねる。動揺しているのを悟られぬよう、時生は一度両の眸を閉じ、落ち着いてから再び瞼を開けた。手元の砂は、春日井の大きな手によって生み出された影に支配されている。


 二人の身体が随分密着しているので、おそらくこの心臓の速さも気付かれているだろう。落ち着いたとはいえども、そこまでは制御できないのが時生である。


 言われるがままに蒸留水を数滴砂に落とし、水で満たされたそれらを潰してゆく。ひとつ残らず。潰すたびにぷつぷつと細やかな音が聞こえる。


 しばらくそうしていると、時生の目の色が変わり始めた。


 手元でひたすら押し潰していた砂に変化が生じ始めたからである。初めは気が付かないほどに微々たる変化だったのが、その『ぼんやり』が次第に鮮明になってゆく。


 瑠璃、だ。暗い影の中で、その砂は青く光り始めたのである。

 時生はこの色を見て、ふとウランガラスみたいだな、と思った。大分前の話になるが、春日井に東京へ連れて行ってもらったとき、時生は春日井の知人に「今東京ではこれが流行っているのだ」と見せてもらったのである。あの時見せてもらったウランガラスはどちらかというと青緑に近く、この手元で光る蒼とは系統が異なるが、その光の純度の高さはまさしくそれである。


「綺麗だろう」

 春日井が言う。「この砂粒は、海蛍を乾燥させたものなんだ。やつらは波の刺激を受けて発光する。それの疑似体験、というやつだ」


 時生は面白がってしばらくそれを見つめていたが、やがてその光が如何にして生まれてくるのかが不思議に思えてきた。先程の夜光魚についても然り。この海蛍と夜光魚は似たような色彩を放つ、ということを身を以て理解した時生だったが、その仕組みがいまいち想像できなかったのである。


「先生」


 だから時生は「どうして光るんです?」と率直に尋ねてみることにした。この素直さが時生のよさでもある。


 春日井はうん、と短く返事して、聞き慣れない単語をぽつりと言い放った。


「ルシフェリン」

「るしふぇ……?」


 さすがに、一度で聞き取れなかった。春日井は再びその単語を口にしてから、指先で机上の茶色い水溜まりをなぞる。すう、と伸びて、水溜まりの端の方がすぐに乾いてしまった。


「発光物質の名前だ。もともと海蛍は外敵に対する威嚇のために光を放つ。この種は負の走行性をもっているから、発光それ自体が危険信号になるわけだ。ルシフェリンは今のところ、誰も抽出するのに成功していないから確証は持てないが……、もしかしたら、わたしたちが想定している物質とは別のものなのかもしれない」


 青い光が徐々に薄れてゆく。刺激を与えることをやめてしまったせいだ。時生はもう少し見ていたかったので、再びその砂を棒の先で潰してみる。今度は先程のように強い光を放つことはなかった。


 ようやく諦めて、時生は机に棒を置いた。何となくだが、光の仕組みは分かった。問題は、それと夜光魚の関連性だ。


「それで……、先程の夜光魚のことですが」

「うん。先生曰く、あの魚もこれらのように条件が揃えば同じように青い光を放つのだそうだが、先程の一回きりじゃあさすがに見当がつかない。光がこの海蛍のそれに似ているから、きっと海蛍でいうところの波の刺激が、夜光魚の鱗の刺激なのだろうが……」

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