最後のディナー

南枯添一

第1話

 入り口の扉に「本日臨時休業いたします」の札が下がっていた。わたしは小首を傾げて、ドアに手を掛けた。鍵は掛かっていず、扉は何事もなく開いた。

「マスター?」

 のぞき込んだ店内は何時のように暗く、けれどカウンターの奥のキッチンには灯りが灯っていた。

「マスター?いますよね?」

瀬能せのうさん?」

「はい」ほっとしてわたしは店内へ入り、後ろ手にドアを閉めた。「びっくりしちゃった。どうしたんです?入り口の張り紙」

「……今日は貸し切りなんだ」

 色白以外、どこと言って特徴の無い丸顔だけをカウンターの上に出すと、マスターはおなじみの歯切れの悪い口調で言った。

「貸し切りって?」

「瀬能さん、今日で最後だから…」

「ああ」わたしは目を伏せた。「すいません。あの、もう少し余裕を持てるように、もっと早くに言えればよかったんですけど……。ごめんなさい」

「……いいんだ。それはもう」

「でも、だから貸し切りって?」

「瀬能さんは特別だから。最後に僕の特別料理を食べていってもらいたいんだ」

「特別料理……ですか?」

「うん」

 マスターは何時ものボソボソした口調で、わたしのことを見ることもなく、淡々と話した。

 オーナーシェフであるマスターが一人で切り盛りしていた、この小さな店で、わたしがバイトをするようになって1年近くが過ぎていた。カウンターしかない本当に小さな店で、昼の営業は無し。お客さんも決して多いとは言えないけれど、熱心な常連さんに支えられている、そんな感じの店だった。

 実際、常連さんは熱心で、彼らの口ぶりからするとオーナーは天才シェフらしい。けれど、名誉欲も金銭欲にも、そして向上心にも欠けるようで、今の境遇で満足しているようだった。従業員も常にバイトの女のコを一人だけ。前のコはフッといなくなったそうで、よんどころない家庭の事情とは言え、前例を踏襲する羽目になってわたしは申訳なく思っていた。

「すいません」わたしは頭を下げた。

「いいんだ」

 ただ、これは自分でも認めたくはないのだけれど、家庭の事情以外のこともないわけではなかった。マスターのわたしを見る目付きが、なんと言うか、少し気になり始めていたのだ。

「それじゃあ」わたしはパンッと掌を打ち合わせた。「今日はわたし、お客さんなんですね」

「うん」

「わたし、お客さんたちが食べてるのを見て、一度マスターが作った料理を食べてみたいって思ってたんです。だって、マスターはまかないなんて中途半端な料理は作らないなんて、頑固なことを言うんだから」

「違うよ」

「へ?」

「今日のは特別料理だから。お客たちにいつも出してる料理とは違う」

「ああ……。そっかあ」

「そこへ、座って」

 マスターが指し示したのはカウンターの中央で、そこには既にカトラリーとナプキン、前菜が美しく盛りつけられた皿が用意されていた。

「すごい。いいんですか?」

「直ぐに食べて。温度が変わるから。それからこれはスープ」

 マスターはカウンターの中にワゴンを持ち込んでいて、そこからスープの器をカウンターに移した。

「あ、はい。それじゃあ、いただきます」

 わたしは両手を合せて目を閉じたのだけれど、直ぐに片目を開けてしまった。マスターはワゴンを乳母車みたいに扱って、厨房の中へ後ろ向きに引っ張り込もうとしていた。けれど、ワゴンの車輪に何かが引っかかっているようで、一歩進む毎に軽く飛び上がり、それでガチャンと音がするのだ。

 けれど、前菜を一口食べたわたしはワゴンのことなんか、一瞬で忘れてしまった。それほど、美味しかったのだ。至福という言葉の意味をわたしは生まれて初めて理解した。

 気が付けばわたしの前の皿は空になっていて、マスターがそれを下げるところだった。代わりに出てきたのはパン籠とビーフストロガノフだろうか、肉の煮込み料理。

「特別料理はこれだから」

 この肉料理については何も言わないことにする。その味をとても伝えきれないから。世界一の詩人や作家だって、この味の億分の一だって伝えられっこないとわたしは思う。ましてや、わたしの貧弱な語彙では……。

 空になった器の前でわたしは脱力していた。こんなすごい料理がこの世にあるなんて。第一、これ何のお肉なんだろう。絶対に牛肉なんかじゃないよね。

 目の前にコーヒーカップを置かれてようやく、わたしは正気に返った。

「すごいです。マスター」

 マスターはわたしの賛辞を聞き流して、水のグラスをカウンターに置こうとしていた。

「ホントにすごいです。わたし、こんな美味しいものがこの世にあるって、初めて知りました。マスターは世界一です。ううん、違う。宇宙一です」

 熱弁しながら、わたしは手を振り回し、それがマスターが差し出していたグラスに当たった。

「あ」

「ご・ごめんなさい」

 グラスはカウンターの中に落ちて砕け散った。わたしはカウンターを飛び越えると、バケツを引き出した。

「いいから!」なぜか、マスターは叫んだ。「今日はお客なんだから」

「よくないですよ」

 欠片を拾おうとしゃがみ込んだわたしはマスターの足下を見た。

 見たものを理解するのに少し時間が掛かった。ワゴンの車輪には何も絡まってはいないことが分かった。ガチャンと言う音はそんなことが原因ではなかった。マスターはワゴンで身体を支えながら、飛び跳ねていたのだ。片足で。

 マスターは左の膝から下を無くしていた。

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最後のディナー 南枯添一 @Minagare_Zoichi4749

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