ハッピーバースデー

水谷 悠歩

ハッピーバースデー

『ゴメン、ちょっと遅れる』

 スマホをハンドバッグに放り込み、呆れ顔でため息をつく。LINEで連絡している暇があったらすぐに来て――と嫌みの一つでも返してやろうと思ったけれど、メッセージを送ったところで早く来るわけでもないだろうし、バッグからスマホを取り出すのも面倒なので結局やめた。

「……宏志ひろしのバーカ」

 壁に背もたれると、ビルの谷間から覗く冴えない曇り空に向かって呟いた。一生に一度しかない二十歳の誕生日だから遅れないようにと、あれほど何度も念を押しておいたのに、いつものように待ち合わせ時間に遅刻してきた。もっとも宏志のことなので、わたしの誕生日が今日だということを覚えていることすら怪しい。

 十月七日。長かった夏がようやく去り、季節は確実に秋色に染まり始めている。つい先日まで昼間の気温が三十度を越す残暑が続いていたのがまるで嘘のよう。さすがにノースリーブは肌寒くなってきたので、そろそろ秋物を出さないといけないと思う。

 時間を持てあまし、何気なく周囲を見やる。楽しげに腕を組んで歩くカップル、穏やかに微笑んで誰かを待っている品のよさそうな年輩の女性、アタッシュケース片手にせわしそうに通り過ぎるサラリーマン。――駅前を行き交う人たちの一日をぼんやり空想してみる。

 ふと思い出して目の前の彼女を見上げた。わたしが生まれる前からこの場所にいるナナちゃん――色白で背の高い美人のマネキン人形。昨年の夏、初めてデートをしたときは確か暖色系のビキニに麦藁帽子を被っていたはずだが、今はシンプルな白のブラウスにチョコレート色のフレアスカートという、ちょっぴり秋らしい衣装だった。いつの日も変わらずここに一人で立ち続けている彼女は、いったい何を考えているのだろう。その瞳には何が映っているのだろう。

 ふと、ギターの音色が聴こえてきたのでそちらに目を向けると、自分と同じくらいの年齢の男の子が路上に腰を下ろし、古びたアコースティックギターを抱えて弾き語りをしていた。真面目そうな外見に似合わずよく響くしっとりした歌声だが、高音域で少し音程が外れてしまうところが何となくかわいらしい。

 彼が歌う歌詞は、男女が偶然出会い、恋に落ちるというストーリーを男性の側から語ったものだった。二人の恋は順調そうに見えたが、三番に入ると些細なきっかけで関係がこじれ、サビに入るまでに男性の気持ちはすっかり冷めてしまっていた。


  愛しき君よ どうか忘れて欲しい

  在りし日に君が愛してくれた僕は

  ここにはもういないのだから


 何をぐだぐだと言っているのよ、別れたいのならそうはっきり言いなさい――と心の中で突っ込んでみたが次の瞬間、歌の中の二人が自分たちに重なって気分が落ち込んだ。

 そういえばどうしてわたしは宏志が好きになったのだろう。初めて会ってから一年半経つが、当時のことがはっきりと思い出せない。もしかしたらあの頃は恋に恋して酔っていただけで、わたしの好きだった宏志は、宏志が好きだと言ってくれたわたしは幻影に過ぎず、初めからいなかったのではないだろうか――。

「お待たせ!」

 突然の声に振り向くと、いきなり目の前にそれがあった。

 ――大きなペンギンのぬいぐるみ。

 とっさのことに驚いて声も出せないでいると、ぬいぐるみの後ろからひょいと宏志が顔を出し、申し訳無さそうな表情で頭を下げた。

「遅れて悪かった。――やっぱり怒ってる?」

「…………」

 無言でペンギンを指先でつつく。ふにっと黄色いクチバシが曲がり、不機嫌そうなへの字になる。さっきまでのわたしの気持ちを代弁してくれているようだった。

「……これ、なに?」

「プレゼント。ハッピーバースデー、秋穂あきほ!」

 ペンギンはちょっとふてくされた表情のまま、羽をパタパタとさせた。

「もしかして、気に入らなかった?」

 わたしはクチバシから指を離すと抱き抱えるようにそのペンギンを受け取った。背丈が一メートルくらいあるが思ったより軽い。しかもふわふわでもこもこ。微かに宏志の匂いがしたような気がして、思わずギュッと抱き締める。

「……見たい」

「ん?」

 ペンギンを抱えたままわたしは顔を上げた。

「本物のペンギンが見たい!」

「――よし、じゃあ今日は水族館に行くとするか」

「宏志のおごり」

「しゃあねーな。ペンギン、落とすなよ」

 そう言って宏志はわたしの腕を掴むと、地下鉄の駅に向かって歩き出した。遅れないように慌ててついて行く。通り過ぎ行く人々がわたしたちとペンギンを見て微笑み、噂をしているようだった。何となく恥ずかしいけど、でもやっぱり嬉しい。今日はどんな一日になるのだろう。宏志とわたし、そしてペンギンとの時間を想像すると自然に頬が緩んでしまう。

 ――宏志、好き。ありがとう。

 デートの最後に言う予定の台詞を、心の中で先にそっと呟いた。


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